病名をつけよう「ねぇレイシオ。君ってなんか……えぇっと、香水まで薬じみたものを使っていたりするのかい?」
「は?」
突飛にもほどがあることを問いかけてきたのはアベンチュリンだった。見た目と同様に頭の中までどこか常識が欠落しているのだろうか、などと疑問に思う時期はとうに過ぎていて、つまりは彼が本当にそれを疑問に思っているのだと分かってしまう。
「……例えば、どんな?」
だからなるべく平静を装って、問うた。見下ろした特徴的なネオンがぱちりと瞬く。例えば、と口の中で反芻して、今はその先の言葉を探しているらしい。細くしなやかで、しかし筋の見える指が口元に触れる。
「うーん……例えば、吸い込むと心拍数が上がるような薬、とか」
「は?」
薄い唇がようやっと開いた。と思えば、こぼされたのは突拍子もないようなものだった。心拍数が上がる? それは薬だろうか。いっそ毒に近いのではないか。いや、心拍数の上昇が副作用であり他の効果が認められるのなら薬と呼べなくもないのか。そういった薬は記憶にあるだけでも三つほどはある。そうじゃない。違う。頭を働かせるべきはそこではないのだ。
「僕がそんな薬をまとう理由がないが」
「そう……うん、まぁ、そうなんだけどさぁ」
「そもそも僕がその薬をまとっていたとして、僕自身にも影響が出るだろう。僕にそんな趣味はない」
「そう、だよね……うーん」
「……何がそんなに気になるんだ」
「だって君の香りって少し独特だろう? それを嗅ぐとさ」
ちょっと心臓が早くなる気がして。そんなことを言われてレイシオの思考回路は完全に固まった。固まったように、見えた。正しくはフル回転を通り越して回りすぎたせいで、傍から見ると止まっているように見えたというだけである。しかしその原因である一回り小さな彼はそんなことには気付かない。自分の身体に起きた現象を思い出しながら言葉を紡ぐことに集中しているらしい。
前提として、レイシオは香水を使用していない。その理由は多々あるが、一番は研究に影響を出さないためだった。かなり繊細な検体、培地、環境等々を整えて行う研究は少なくない。少しでも不要なものは取り除くに限るのだ。つまり、今彼が言っている『香水』はレイシオがいつも使用するボディソープかシャンプーか入浴剤、もしくはレイシオ自身の体臭ということになる。
それを嗅ぐと、心拍数が上がる。ひとつ言わせてもらうとすれば、レイシオはずっと恋慕という名の感情を抱いていた。誰にって、命を投げ打つくせに死ぬのを怖がるギャンブラーに。つまり目の前の彼である。そんなアベンチュリンからこんなことを言われて、頭をバグらせるなという方が無理な話ではないのだろうか。
「それに君の足音もさ、ほら、独特だろう? それを聞くとこう、ちょっとそわそわするっていうか。落ち着かないんだよね……君の研究室の人たちとかは、そのせいで集中力が落ちていたりしないかい? あとは声もさ、ずっと聴いていると眠くなってくることがあるっていうか……あ、さすがに仕事の話をしているときはそんなことないから安心してくれ。星穹列車にいるときにする世間話とかがさ、なんか……こう、自然と瞼が落ちそうになるっていうか」
もうレイシオの頭は限界だった。足音ひとつでそわついて、声を聞けば眠くなって。この、全てにおいて警戒心をあらわにしていた手負いの猫にも思えていた彼が。最近は確かに少し気を緩める姿が見れるようになって、だからそれで満足していた。それで満足だったのだ、レイシオとしては。だというのにさらに眠くなったり、足音だけでそわそわしたり。そんなの。そんなのは。
「え、他の人はそんなことないのかい? じゃあこれは僕に原因がある、ってこと?」
それなら教授、僕を診てくれないか。そう言われて頭を抱えた。物理的に。これはもうほとんど確定診断になるのではないだろうか。いや、それに正確な症例も診断もあるわけではないし、言ってしまえば一種の精神疾患と称する以外に方法はないのだけれど。だからといって、これに診断名をつけるのか。他でもないレイシオ自身が。
「……ギャンブラー」
「うん?」
「君のその症例には、心当たりがある」
「へぇ、さすがは教授だ。ところでそれに対する薬とかってあるのかな。僕としては少しずつ仕事に支障を来し始めているし、早めに処方してもらえると助かるんだけど」
支障。これが与える彼の言う『支障』と、レイシオが考えうる診断名を付けた後の『支障』。一体どちらを選択すべきなのだろう。今まで秘匿してきたこれをまだ守るか、それとも晒して様子を見るか。
「……いいだろう。君、この後の予定は?」
「今日はもうないよ。君に会った後だと仕事があんまり手につかなくなるから、最近は一番最後にしているんだ」
「ではこのまま僕の部屋へ。そこで診察をしよう」
「部屋? オーケー、今すぐ行こう」
一度逡巡して、しかしほんの少しも待たずに了承される。この逡巡が『他者と二人きりになる』事への警戒だと知っている。客だって面倒な相手であれば、部下だのなんだのを同席させたり扉の前で待機させたりして警戒を怠らない。扉の前に待機して、というのはレイシオ自身、彼に依頼されたこともあった。
だというのに、彼は今一人だ。そして向かうのはレイシオの研究室である。レイシオがその気になれば二人以外が入れないようにすることなんて容易にできてしまうし、研究室という作りのために音だって外には漏れにくい。そんな場所に二人になることを了承した。気が付いているのだろうか。この、彼にしては珍しいくらいの警戒心の薄さに。
しかし、だ。ここまでの自覚症状がありながらその理由を見つけられないとは、彼も大概なのではないだろうか。どうしてレイシオばかりが彼の心を慮り、目の前に差し出された黄金の果実を見逃さなければならないのだろう。不公平ではないだろうか。傷つけたい、好き勝手に蹂躙したい。そんな欲はないけれど、彼に目にものを見せてやりたい、とは思った。
それを聞いた彼はあっけにとられたようにぱちりと瞳を瞬かせるだろうか。それとも意味を理解して顔を真っ赤に染め上げるだろうか。何か想定外のことがあった時、彼は商人であるために整えた口調を投げ捨てる傾向がある。もしかしたらそれが聞けるかもしれない。さて、どれだろう。
部屋の中にこだました言語モジュールすら翻訳できない異国のスラング。開け放たれた鍵をかけていない扉。取り残されたのは名の知れた博識学会の天才と、誰かが置き忘れていったらしい帽子とサングラス。
驚きを上回って笑い声が漏れ出た。まさかレイシオとて、自分の予想がすべて当たるとは思っていなかったのだ。