落とし物を拾ったら 落ちているそれはレイシオにとって日常だった。またかと拾い上げて、整えて、あるべき場所へと返す。例えばゴミであれば処分するし、どこかから飛ばされてしまったタオルや衣服なら持ち主の元へ。投げ込まれたと思しき薬品や爆薬は投げ入れたその人か施設へ。そうすればすべてが上手く回っていく。
「嫌だ」
「……」
「拾って手当をしてくれたってことはそういう情はあるんだろう? この怪我がどうやって出来たかも薄ら分かってそうだし……あっ」
「はぁ」
日常だった。だからこそ麻痺してしまっていたのかもしれない。朝を迎えると共に目を覚ました彼はレイシオを見るなり、「ここに置いてくれ」と宣ったのだ。断っても断ってもピーチクパーチクと紡がれるうるさい声に頭痛がしてくる。とりあえずその言葉にあった、説得材料である複数の痣を治癒魔法で綺麗さっぱりなくしてやる。これで少しは静かになってくれるといいのだけれど。
「……治してくれなくていいから、ここに置いてよって言ってるのに」
「僕にそのつもりは無い。その足なら自分で帰れるだろう」
「殴られに? あはは、酷い人だ」
赤をあしらった瞳は威圧的にも見えるはずなのに、年端もいかないその子供はそれを向けられながらも笑っている。ころころ、からから。まるで何かを転がすように。そこで転がって地面にぶつかっているのは自分自身のはずなのに。
「僕は人じゃない」
「そうだろうね」
「だから人である君はここに置けない」
笑っている彼の手のひらがぎゅう、と握りしめられる。それと同時に背中に隠された。まるで違和感のない動作だ。礼儀正しくお利口に。そんな言葉が似合うようなそれ。
「……本当に、だめ?」
「駄目だ」
「わかった。ごめんね、困らせて」
綺麗な笑顔だ、と思った。レイシオには自分の顔が整っているという自認があったし、それはこの森に住む他の魔女や魔族達の間でも噂になるほどだ。けれど、目の前の彼はそれ以上ではないだろうか。人という刹那の寿命しか持たない種族だからこそ光って見えるのかもしれない。いや、それを抜きにしても。
「帰るよ」
「……人里の近くまでは送ろう」
また何かを言い募るだろうか。道中を歩いていくよりも転移術を使った方がその言葉を遮れるかもしれない。そう思って立ち上がって、扉を開けて外に出て。しかし彼は何も言わなかった。ただずっと黙って後ろをついてくるだけ。
何か一言でも紡いだら直ぐに転移しよう。そんなことを思うレイシオの心を読んだみたいだった。何も聞こえない。小さな足音と、森に踏み込んだ時に僅かに感じた彼の緊張感が肌と耳を刺激する。草むらが音を立てればそれにまた怯えるように身をすくませて、小さなうさぎだと知れば安堵の息がこぼれて。
ーーーーー人だ。そう思った。あまりにも突拍子のない事を言ってくるから、人ではないと見ればわかるレイシオに物怖じせず言葉を投げてくるから、そんな当たり前のことに酷く驚かされた。身一つの人ではこの森で生きていくなんて不可能なのだ。人とはそれほどまでに、脆い。
「着いたぞ」
「……うん」
小さな町が見える、しかし向こうからこちらは見えないような場所。もう少し粘るのかとも思っていたが、さすがに引き際は弁えているらしい。さく、さく。草を踏む音が横を通り過ぎていく。人が住む町と、魔女が住む森。その境目で、振り返って。
口を開いて、閉じて。それをしたのはこの小さな子供だったのだろうか。それともレイシオだったのだろうか。それが分からないくらいの躊躇いがレイシオの後ろ髪を引いた。しかし何を紡ぐでもなく彼は引き結んだ口でゆるり、と弧を描いて。
終わった、と思った。人の子とは思えない彼との邂逅はこれで終わり、二度と交わることは無い。だってこの境界線を超えることなんてそうありはしないのだ。無意識に詰めていた息を吐き出す。使わなかった術を口の中で唱えて、火がたち込めればすぐに家の前だ。これで全てが終わり日常が戻ってくる。たった一日未満の邂逅だ、非日常にさえなりはしない。
そんなレイシオの予想が覆されたのは、こんな出来事からつい三日後のことだった。
レイシオは決して、森の中で遊んで暮らしている訳では無い。その日々は基本的に薬の調合に費やされ、作られたものは森に住む様々な生き物たちの治療に使用されているのだ。治癒魔法を使えないものたちには傷薬を、使えるものたちでも病の治療薬を。そうやってここでの生計を立てている。
今日もその材料を採りに行ったのだ。たまたま近場で採れないものが在庫を切らしてしまい、たまたまそれがいつもの採集場所では見つからず、少しずつ森の深部へと足を進めて。
「……は?」
欲しかったのは小さな生命体の涙だった。臆病な彼らは暗く静かな場所を好み、しかし主食である木の実は日が当たるところでしか見つからない。恐怖に震えながらも食事に来るのだろう、いつもならその木の実のすぐ近くに雫が落ちている。彼らの涙は、彼らの身体から離れると小さな石になるから。
しかしここ数日は来ていないようだった。というより、ここから動いていないのだろう。ひとつも見つからなかった涙はたどり着いたこの場所に散乱している。ここまで来たかいがあった、なんて思ったのは一瞬だけで、レイシオの目も小さな彼らと同じくその中心にあるくすんだ金に釘付けになってしまった。
「にゃぁ、ぅ」
怯えるように彼らが鳴く。近づかないでと彼らが鳴く。まるでそこに横たわる金色に手を出さないでと言うように、泣く。
かつん。その雫が石となってレイシオの足元まで転がってきた。いや、そんなはずは。だってちゃんと送り届けたはずだ。森との境界線を超えた彼を見ていたはずなのだ。なのに何故、彼がここに。
「なぁーん」
寄り添っていた彼らが泣く。助けて、助けてと懇願するように。綺麗さっぱり治してやったはずの身体は傷だらけで、その顔色は真っ青を通り越して真っ白だった。生きていることだけが、その身体の僅かな上下で分かるくらいの。
「……人はこの森では生きられない。君たちが彼をここに?」
「んにゃ」
「に……」
「であれば何故、」
彼は何故ここで生きているんだ。そんな問いが口からこぼれた。人が生きていけるような環境じゃない。ここからでもみてとれる怪我は切り傷や擦り傷で、きっと魔物にでも襲われたのだろう。襲われながらも、生きてここまで逃げてきたのだ。
彼らが守ったのだろうか。いや、有り得ない。彼らは決して強くは無いし、他の魔物から彼を守るなんてことは不可能だ。
ドクター、と小さな彼らが口にする。レイシオのこの森での呼び名だ。小さな鳴き声と共にその声が頭の中で響いて、何度も何度も、紡がれて。
痛いのも苦しいのも嫌なんだって。ぼくたちと一緒。でもね、死ぬのも怖いの。それもぼくたちと一緒。お願いドクター。お願い。こわいのは、いやだよ。
ころん。また雫が落ちた。あぁもう、もう関わることなんてないと思っていたのに。臆病で、なのに心優しい彼ら。彼らの涙はまるでその優しさを表したかのごとく、適切に処理すれば薬の材料になる。そんな彼らが、臆病で怖がりでレイシオにだって怯える彼らが、たった一人の人の子を思ってひたすらに懇願している。
「……僕の治癒魔法も薬も安くない。自己治癒で、治るまでだ。願うというのなら君たちも来い」
小さな子供。三日前に持ち上げた時よりもさらに軽くなった子供。そんな彼と小さな彼らを引き連れて、レイシオは自ら生み出した青い炎に包まれた。