「全然、なんか思っていたのと違うっていうか」
「……嫌なら言ってくれと再三伝えていたつもりだったんだが。いや……、ようやくそれを僕に言えるようになった、ということか? 君の信頼を得ることができたと喜ぶべきなのか、これは?」
「あはは、何一人でぶつくさ言っているんだい、君」
誰のせいだと。多少の苦言も含めてその頬をつついてやれば、くつくつと喉の奥で笑うような音が聞こえた。そしてまるで安心しきった顔でその手に頬を寄せてくる。そこには嫌悪や忌避感は見当たらなくて、柄にもなく息が漏れた。
つまり彼は、今は別に不快な訳ではないのだろう。ではあれはどういう意味だろうか。既に身体を重ねた回数は両手じゃ足りなくなっていて、というか足の指を足したって足りないだろう。レイシオとて凡人である。好意を寄せる相手に向ける欲だって人並みなのだ。そして彼もそれを拒まなかったし、望んでいるようにも見えて。いや、そういう思い込みこそがよくなかったのだろうか。レイシオが「したい」と言ったそれにただ、彼が否を返せなかっただけだとしたら。
「変なこと考えてるだろう、教授?」
「……はぁ」
誰のせいだと。先程も思ったそれをもう一度飲み込んだ。アベンチュリンという人はレイシオとは一切異なる考え方をするし、それを読むという方が無理な話だ。だから目の前で満足そうに笑う彼から直接、その真意を聞く以外に方法はない。
「これってさ、痛いことだろう?」
「……は?」
「痛くて、苦しくて。あとなんだろう、気持ち悪くて屈辱で? そういうやつだろう、確か」
「……………………そんなものを、君は」
受け入れようとしたのか。手に懐いていた彼の瞳が開く。薄暗がりの中なのによく見える、倒錯的で見る人を惑わせるような、それでいて酷くあどけない瞳だ。
まず弁明をさせてもらうなら、レイシオにとってこの行為は彼が言うようなものではなかった。そもそもレイシオも同じ認識であるならそんな欲なんて抱かなかっただろうし、もし万が一そんな衝動を覚えてしまったとしても無理矢理自分の中に押し込んで露見などさせなかっただろう。決して彼を害したい訳ではないのだ。そんなことをして喜ぶ趣味なんてないし、それを理解しているからこそ彼も受け入れてくれたと思っていたのだけれど。
少し、急ぎすぎただろうか。そうかもしれない。アベンチュリンという人はあまりにも幼くて、何もかもが拙くて、だからレイシオはもっと待ってやるべきだったのだ。今考えればそういう結論に至るけれど、後の祭りとはこのことか。なんてバカなことをしてしまったのだろう。
「レイシオ」
「……なんだ」
「あはは、酷い顔」
「誰のせいだと……」
そしてついに、その言葉が口からこぼれた。決して音にするつもりはなかったのに飲み込む前に漏れてしまったらしい。ぱちんと瞬いた彼のネオンが驚いたように見開かれて、そしてすぐにゆるりと寛解する。まるで何かを大切に、その手に抱くように。
「……本当に、思っていたのと違ったんだよ」
「これ以上僕に罪の意識を植え付けてどうしたいんだ、君は」
「変なことを言うね、教授? 僕は別に、それが『悪い方だった』なんて言ってないだろう?」
くふ、と手を捕まえたまま、あどけない顔のまま、そのくせ何も纏わない身体を持ち上げて彼が笑う。まるでちぐはぐだ。さっきまでやっていたことから彼の言動、そしてこの瞳と笑顔の全てが。このちぐはぐの全てが彼を構成する一部なのだから笑えない。
「僕はさ、君に愛してもらえるのは、僕の『幸運』がもたらしただけのものだと思っていたんだけど」
「は、っちが、」
「そう、違った。……違った、から」
なんか、拍子抜けした。そう言う彼の真意が分からない。なんだろう。彼は何を伝えたいのだろう。それを探りながらも剥き出しの肩にブランケットをかけてやれば、寒かったのかそれを片手で握りしめた。それなら起き上がらなくてもよかっただろうに。別にレイシオは逃げたりなどしないし、アベンチュリンの言葉は真摯に受け止める気概がある。それももしかして、彼には伝わっていなかったのだろうか。
「だってほら、知っているだろう? 僕の幸運はちゃんと僕を勝たせてくれる。でもそれは別に『負けない』ってだけで」
一人で立っていた。一緒にいた家族はいなくなって、同胞もどこにもいない。奴隷だってみんないなくなって、ついにはご主人様まで。そんな状態でカンパニーに乗り込んで、また賭けに勝って、幹部にまで登り詰めて。
それは別に、アベンチュリンが望んだハッピーエンドなんかじゃない。
「だから今回も、同じだと思ったんだけど」
「……どういう意味だ」
「えぇ、レイシオ教授ともあろう人が分からないのかい?」
全く、一切、皆目見当もつかない。それを言ったら嘘にはなる。けれどそれで結論付けて終わらせるのは駄目な気がした。変に曲解している可能性があるというのもあるし、それ以上に勿体ない、とも。だって彼の口から聞きたいのだ。その先の言葉を想像できるからこそ。
「今までと一緒だったら、痛くなくて気持ちよくて……君とはこれからもいい関係のままでいられてよかった、で終わるんだよ。例えばそのせいで君に懸想する誰かが泣いたとしても、僕はただこの場所を勝ち取っただけだから」
今までは勝者と敗者しかいなかった。そしてアベンチュリンは常に勝者だった。誰かの屍の上に座り、空虚な王座を得ただけの傀儡だった。そう言う。彼の口が、そう紡ぐ。
「……でも、全然違っただろう?」
「それは興味深いな。どのように?」
「この野郎、分かってて聞いてるだろ」
「予想程度だ」
むす、と口を尖らせて、それでもまた口を開く。これ以上下手な自虐が出てくるのなら止めてもよかったのだけれど、そうではなさそうだから好きにさせる。捕まっていた手は開放されたから彼の背に。まだ寒々しい格好の彼を、温めるように。
「知らなかったんだよ。君がこうやって抱きしめてくれるのがこんなに心地いいのとか、君が触ってくれるのがこんなに嬉しいのも」
だって夢に見るくらい望んでいたのはこれじゃなかった。ずっとずっと、オーロラの下で家族と再会することだけを願っていたのだ。もうそこにしか幸せはないと思っていて、だから夢にまで見ていて。
なのに、そんな風に夢にまで見ていたのに、与えられたのは全然違うものだった。そこに幸せなんてない。また、ただ過ぎていくだけ。また手をすり抜けていくだけ。一時の快楽に身を震わせ、喜ぶだけ。
「はやく、僕の最期が来てくれたらいいなって思ってたのにさ」
それがきっと、『幸運』が与えてくれるハッピーエンドだと思っていた。だというのに揺らいでいく。知らないそれが、温度が、違う道を指し示してくれて。
「もうちょっと、君がいるならって……こんなことを思うようになるなんて夢にも思わなかった」
ほら、思っていたのと違っただろう? そんなことを言う彼を抱き寄せた。たった少しの隙間も埋めるように、けれど絶対に傷つけないように、優しく。また彼が笑う。アベンチュリンという宝石の名を持つ彼が眉を下げて、からからと。
そんな彼を見て、その『幸運』以上の幸せを与えてやると誓うのだ。誰でもなく自分自身に。そしてこんな凡人を受け入れてくれた彼に。夢以上のそれを、彼とともに生きていくために。