みえるいぬぴー(仮) 世の中にはそれが『見える人が』存在する。
そういう話は学校でもテレビでも耳にするし、あそこは何となく気持ちが悪いだとか澱んでるだとかいう話を聞くのも珍しくはなかった。その時の周囲の反応はそれぞれだ。盛り上がる人間もいれば眉を顰めて否定する人間もいる。
九井はそういう時は空気を読んで適当に話をやり過ごしていた。多分、それが一番無難な大人な対応だと思っている。
仕事の取引相手の社長が風水に傾倒していたり、社長の傍に霊能力者や占い師が付いている現場も実際見たこともある。一切そういうものは信じない社長がいるのも確かだ。
じゃあ九井自身はどうなのか。
風水的なものはある程度の知識を入れて、パワーストーンだって綺麗だろと笑いつつ効果をよっと調べつつ集めて飾ったりして。カードの占いだってほんの少しだけ今後の参考にしないこともない。
誰かに非科学的だと言われたらそうだなと笑う程度には弁えている。けれどこの世界に第六感的なものがあるのか、幽霊はいると思うかと聞かれたら。
「どうだろうなあ」
曖昧に流しながら、けれど頭に浮かぶ顔がひとつだけあった。
幼馴染の綺麗な顔が脳裏を過る。大人しい子供でもないのに、たまにじっとどこでもない場所を見て立ち止まっている。どうしたのイヌピー。明後日の方を見る乾を呼ぶと、一度首を傾げてとすぐに反応を返すが、けれど自分とは一線立っている場所が違うような、何かずれている感じが時々していた。
本人は認めないが、幼馴染の乾は『見える人』だ。
何時から乾はそうだったか。何時からあんな目で、あんな顔で立ち尽くすようになったのか。
こちらを見ているようで見ていない瞳で。明後日を見るようになったのか。
彼女がいたときはどうだったか。あれ以前の乾がどうだったか。実はあまり九井は覚えていない。
マイペースなのは元々だった。けれど九井が少年院を出る乾を迎えに行って、それから一緒に過ごして。その時に確かにもう乾はそんな感じだった。
暴走族なんて周囲に溶け込めず浮いた人間達の集まりだ。だから特別乾もそこでは浮いていてもそういう人間なんだと受け入れられていたのは恵まれていたいたのか、何なのか。鉄パイプを振り回す不思議ちゃんなんてらりってるようなものじゃないのか。
「なあ。あそこになにかいるのか。ほら、幽霊とか?」
「幽霊なんていねえよ」
当然足を止めた乾にそう声をかけると、つまらなそうな顔でそう吐き捨てる。
じゃあなんでお前そんな所で立ち止まってんだよ。お菓子と花が供えられた電柱の傍だとか、ホームレスが死んでいたとか噂の路地裏だとか。時々明後日に瞳を向けて乾は立ち止まる。
普段気にも止めない、ただの黒龍の下っ端に声をかけた姿を見たこともあった。トラックに気を付けろ。ただ一言、それだけ。突然乾に声を駆けられた兵隊は不思議そうな顔をしていたが、その次の日トラックの右折にバイクごとそいつは巻き込まれ、入院が長引くとかで黒龍を辞めていった。
それ幽霊じゃなくて予知とはそんな次元じゃねえのと思ったが、そう思った瞬間に乾がカップ焼きそばの水切りを失敗してシンクに麺をだばぁしていたので多分予知はないだろう。
まあ幼馴染は幽霊とかそういう非化学的なものが見えたりしているのだ。どうして乾がその存在を否定するのかは未だわからない。けれど頑なにいないと言い張るから、九井はふーんと大人の対応で流す事に決めた。
それはただ九井は確かめる勇気も認める気力もなかったからだ。
死者が存在するなら。そこに幽霊はいるのなら。あの人は。彼女は。どこにいる。どんな顔をしている。
きっとあの人は俺を怨んでいるだろう。あの火事の中、届かなかった手。きっと、そうだ。けれどそう思うと同時に、あの人は誰かを恨むような卑しい人間じゃないと否定する自分もいる。
だから九井は何も聞かなかった。聞けなかった。乾の口から答え知るのが恐ろしかった。
前に乾と一緒にいるときにこんな事があった。
車の往来が多い道路の手前、横断歩道の前で止まった時だ。歩行者信号は赤で、九井達以外にも信号待ちをしている人は大勢いる。そこは微妙に待ち時間が長くて、隣に立ち止まった乾は捕まっちまったなと舌打ちをしていた。
ぶぶっと、携帯が震えて九井の視線は手元の画面に向いた。指をかこかこ動かしてボタンを押して。すこしばかりややこしい案件だった。ややこしいというか、面倒なやつか。黒龍とは違う、個人がやっている金集めのやつだ。
メールの返信を考えながら、視界の端ですぐ傍に並んでいた誰かが歩き出した。
それが隣にいる筈の乾だと態々確認はしなかった。殆ど無意識だ。隣が動き出したなら信号は変わったものだと、そう思っていた。
視線は携帯に向いたままで。隣につられて動き出した足は完全に信号は青色に変わったものだと思い込んでいた。
「ココ!」
「え、」
乾の声と、引き留められた腕の傷み。思わず携帯を放りだしかける。
片手を思いっきり引っ張られ、同時に眼前を行く車から耳に痛い音でクラクションが何度も鳴らされた。
「はっ?」
顔をあげて、信号を見上げると歩行者信号はまだ赤色だった。同じように信号待ちをしていた人たちの視線が自分に集まって、けれど乾が睨みつけるとそれも霧散する。
九井と乾が並んでいたのは、横断歩道の最前列だ。視界の端。一歩前に並ぶ存在しない誰か。
先に歩き出した人間なんていなかった。ではあの時。視界の端に映った姿は誰だったのか。
いや、何だったのか。
ぷんと焦げた臭いがする。たぶん、ブレーキでタイヤが削れた時の臭いだ。何かが焼ける、何かが焦げる嫌な臭い。
口を抑えて眉を寄せた瞬間、肩に手がまわってきた。ついでに携帯も奪われた。
「危なかったな、ココ」
「イヌピー……」
あの時、手を掴んだのは乾だ。車に轢かれずにすんだのは乾のおかげだった。
「歩き携帯は良くないって事だ」
なんでもないように言って、青、と乾は信号を指した。周囲の人たちが自分たちを避けて進みだす。やっと歩行者信号の色が変わったらしい。
行くぞと乾に無理矢理引きずられ、九井は横断歩道を渡り切った。そこでふと肩を組んでいた乾の視線が一瞬足元に向いた。電信柱の足元。つられて視線を同じ場所に向ければ、そこには枯れた向日葵が一輪ペットボトルに刺さり、地面に古い菓子の袋が落ちていた。
「あれ、」
「いくぞ」
乾は何も言わなかった。ふいと視線を戻し、九井の引きずって歩き出した。
それから九井の手元に携帯が帰ってきたのは、二人で使っているアジトに帰ってきてからだ。遅くなった返信の所為でほんの少しばかりややこしい事になって頭を抱えてしまったが。
アジトに帰って、乾はさっさと風呂に入って嘗てソファだった場所に寝ころんで漫画を片手に寝落ちしていた。あれは何だったかとか問い詰める時間も無く。無駄に綺麗な顔をしてるななんて携帯を閉じながらその寝顔を眺めるしかなかった。
ふう溜息を吐いて、それから九井も埃を落とすために風呂場に向かって。靴下を脱いだ瞬間にそれに気付いてしまった。
「なんだ、これ」
それは明らかに手形だった。ぐっと握られたような青紫に変色した手の跡。足首に小さな手の型がくっきりついていた。
そこを握られた記憶も、触られた感触もなかった。なにせ足首だ。ブーツに包まれたその場所。
痛みもなく、ただそこにあるだけの小さな子供の手形。気持ち悪っと呟いて、けれど健やかに寝ている乾を叩き起こすなんて酷い事は出来なくて、とりあえず九井は明日で良いかとそのまま寝ることにした。
それから暫くして。九井は何も乾に聞けないまま、別の道を歩む事になった。
「いやそのとき起こせや。聞けや」
「気持ちよさそうに寝ているイヌピーを起こすなんて可哀想だろ」
それに次の日には跡形もなく消えていた。まるで前日のそれが幻だったかの様に。けれどそれは幻覚なんてものじゃない。
もう何年も前の話だ。十数年か。けれどあれは強烈過ぎて鮮明に覚えていた。
「くそ懐古厨」
「うっせ、薬中」
懐古趣味。ああわかっている。どうして十数年も前の話がするりと出てきたのか。それもこんなタイミングで。
どこからかぺたりぺたりと子供の足音がする。黒く顔の塗りつぶされたそれが追いかけてくる。
打開策も解決案もない。九井がぐっと奥歯を噛みしめた瞬間、どこから焦げたような嫌なにおいがした気がした。