ナンパごっこする先生が可愛い!その日、鍾離は堂主の使いで不卜廬を訪れていた。
とある葬儀に使用する香の材料を切らしてしまったのだ。
普段それほど頻繁に使用するものではなかったため、在庫の管理を怠っていたのだと言う。
平日の昼過ぎとはいえ璃月で最も信頼される薬屋だ。当然だが客は何人もいて、鍾離は暫し待つために壁際に立つ。
そこへ、赤い布地を靡かせて近づく影が一つあった。
「こんにちは、そこの可愛い人。一人かな?」
「うん?」
影の正体……タルタリヤにはとっくに気づいていたが、その声掛けに首を捻る。
まるで初対面のような口調だ。
「俺は公子タルタリヤ。可愛い人のお名前は?」
手を取られて甲に軽く口付けられる。妙に芝居がかった仕草と茶目っ気を滲ませた視線に、鍾離は早々に理解する。
これは、タルタリヤのちょっとしたお遊びであると。
「往生堂の鍾離だ。公子殿もここへは仕事か?」
「そうだよ、鍾離先生。混んでるから待ち時間が長くって。でもこんなに可愛い人と会えたならチャラどころかお釣りが来ちゃうね」
「口が上手いな」
「本当のことを言ってるだけだよ」
するりと腰に手が回される。口付けた手はそのまま握り、二人の距離はなくなった。
伴侶でなければ拳を見舞うところだぞ、と鍾離は内心でため息をつく。
まあ、暇であることは確かなので、タルタリヤのお遊びに付き合ってやってもいいだろう。
タルタリヤの熱心な口説き文句は続々と鍾離に注がれた。
「鍾離先生、今まで会ってきたどんな人より可愛くて綺麗で素敵だよ」
「隅々まで愛してくれる夫がいるのでな」
「貴方の夫は世界一幸せ者だね。香膏の匂いも、髪が揺れる様子も、目元の朱が鮮やかな瞳も全部、部屋に閉じ込めて飾ってやりたいくらい魅力的だ」
「嘘をつけ」
スイートフラワーが咲き誇る口を、鍾離はバッサリと切り捨てた。
口角を上げて笑い、深い蒼を湛える瞳を真正面から見つめる。
「飾られるだけの存在など、お前は欲しない」
「……よくお分かりで」
こういうところが堪らないのだ。堪らなく愛おしくて、堪らなく唆られる。
タルタリヤを惹き付けてやまない。
ぐっと腰に回した手に力を入れて引き寄せた。
「可愛い可愛い鍾離先生。俺に貴方の時間を分けてもらえるかな?絶対に退屈させないと〝契約〟するよ」
「個人の感情による匙加減で揺らぐことを契約していいのか?ファデュイの公子殿ともあろう者が」
「鍾離先生の前では、俺はただの男だよ」
いつまでも消えることのない熱を込めて、タルタリヤは言う。嘘偽りのない感情を鍾離に捧げてくれる。
鍾離は握られていた手を少しずらして指を絡めた。
額をコツンと合わせて至近距離で囁く。
「時間なら作ってやろう。……さて、どこに連れて行ってくれるのだろうな?」
ズドンッとタルタリヤの胸から凄まじい音がした。ときめきの音である。
伏せた睫毛から覗く上目遣いの、なんて蠱惑的なこと!
手と額で僅かに擦れる肌の柔くて香り高いこと!
────やっぱり、俺には鍾離先生だけだよ。
「そ、ういうの、どこで覚えてくるの……」
「どことは?」
「嘘だろ天然モノ?こんなの国が傾くどころか転覆するレベルだよ」
一国の神が傾国でどうするんだ?なんて理不尽に憤る。
タルタリヤはとうとう堪えきれなくなって鍾離を抱き締めた。ぐりぐりと肩に顔をこすりつける。
「はあ、もう、可愛い。可愛くてしんどい」
愛おしさが波のように襲いかかってくる。
湧き上がってきて止まらないそれが溢れるのに任せてタルタリヤは口を開いた。
「鍾離先生、俺と結婚しよう……?」
「もうしているが」
飛び切り甘やかな声の求婚に、鍾離は困惑した。
二人はとっくに籍を入れて同じ家に暮らす夫婦だと言うのに。
「どうしたんだ、公子殿。まさかまた忘れたのか?」
「覚えてるよ。二度と忘れない。でももう一回結婚したい……結婚しなきゃだめだよこんな可愛い人」
結婚とは、名実ともに相手と結ばれることだ。法律によって二人の関係は証明されて、確固たるものとなる。
目に見えぬ愛が形になるのだ。なんて素晴らしいことだろう。
「どうして一度しか結婚できないんだろ……俺はこんなにも鍾離先生と結婚したいのに。月一、ううん週一で結婚したい。結婚しようよ先生」
「生憎だが」
鍾離への愛しさでとち狂った駄々を捏ね出すタルタリヤに、鍾離は優しく微笑んだ。
鍾離は愛に振り回されてくれる夫を心底愛している。故に、返答は決まっていた。
「俺は生涯ただ一人とただ一度だけ婚姻を結んだので、断らざるを得ないな」
その言葉を受けてタルタリヤが冷静でいられるはずもなく、人目をはばからず叫んだ。
「鍾離先生、最高ッ!愛してるよ!結婚しよう!」
「俺も愛しているぞ。結婚はもうしているので断る」
くすくすと可愛らしく笑われながらタルタリヤはフラれた。犬のように身体を擦り付けると鍾離の笑い声が少し大きくなる。
───でも結婚したいんだよ、大好きなんだよ、鍾離先生。
「うぅ……じゃあプロポーズはいい?」
「返答が同じでいいなら、プロポーズと誓いの口づけくらいなら日に一度まで許そう」
「先生は俺に甘いなぁ」
同じくらい鍾離に対して自分も甘い自覚はあるタルタリヤだが、それは棚上げしておく。
鍾離が何でもかんでも受け入れてしまうから、タルタリヤはずぶずぶと底なし沼に嵌っていく。
それは抜け出すことを許さない鍾離の愛だ。
「キスはここじゃダメだよね。キスする時の可愛い鍾離先生は誰にも見せたくないし」
「ならば場所を変える他あるまい。とりあえず薬を受け取ってからだ」
「あーあ、待つしかないか……あれ、結構人減ったね?」
「そんなに時間が経っていたか?」
周囲を見渡すと、いつの間にか人は数えるほどしか待っていない。ごった返していたはずなのに。
鍾離が時間を確認しようとした時、札を揺らした少女が包みを二つ抱えてやってきた。
「薬草……用意、できた」
「七七嬢か。ありがたく受け取ろう。請求は往生堂まで頼む」
「俺の方も?うん、確かに。代金はこれで」
「ん。七七、受け取った」
鍾離からは宛先が書かれたメモ、タルタリヤからモラの袋を受け取り、七七はカウンターへ戻った。
二人は手を繋いで不卜廬を後にする。
きっとこの後はその辺の物陰に滑り込んで熱い時間を過ごすのだろう。
並んだ背中を見送った白朮は、七七に言った。
「七七、煙緋さんにご連絡を」
二人がくだらないごっこ遊びというイチャつきを繰り広げていた間、不卜廬では「独り身の気持ちを考えろ!」と走り去る者、「妻と子供に会いたくなったので」と注文をキャンセルする者、「甘ったるくて胸焼けがする」と不調を訴える者が続出した。
白朮はピキピキとこめかみに青筋を立てる。
「あのはた迷惑夫婦を営業妨害で訴えられないか相談します」