可愛い先生と周りの人達(甘雨編)甘雨の仕事の大半は、書類を捌くことである。
月海亭から出ることはあまり多くない。
基本的には政治、経済に関する書類だが、長年務めていることもあり他部署の書類が回ってくることもある。
例えば、住民課。
異国との交流が盛んな璃月では国際結婚が認められている。
しかし法律は複雑かつ偽装結婚の可能性もあるため、甘雨に判断を任せられるのだ。
「甘雨先輩、北国銀行の方から婚姻届が提出されたのですが……」
「北国銀行……ファデュイですか。目を通します」
スネージナヤからの移民や国際結婚はもちろんあるが、ファデュイとなれば話は別だ。前代未聞である。
「一体どなた………………がッ!?」
夫の部分にはあろうことか悪名高い執行官の名前が。そして甘雨が目を見開いて硬直した原因は妻の部分に記された名前である。
「て、てい……鍾離さまが、な、なぜファデュイと……!?」
夢枕で彼の正体を知っている甘雨は驚愕した。
尊敬してやまない、敬愛の全てを捧げた主君が、まさか他国の男と結婚するだなんて誰が信じられようか。
甘雨は書類を散らしながら猛然と立ち上がった。手の中にはクシャリと皺を寄せた婚姻届がある。
薄花色の髪を靡かせ、月海亭から飛び出した。向かうは彼の勤め先、往生堂である。
「し、失礼します!そちらにお勤めの鍾離さまから提出された書類に関して確認したいことがありましてっ!」
「鍾離先生でしたら、本日はお休みです」
「そうですか……お住まいはどちらでしょう?」
肩で息をする璃月の重鎮に、渡し守の女性は面食らっていた。
されどもそこは優秀な彼女のこと。把握している鍾離についての情報を甘雨に伝えた。
もちろん急遽休みを取った理由も知ってたが、それは流石に配慮した。早朝、上司に無理やり遣わされたらしい仮面の男に同情したことも伏せておく。
「うう、お留守とは……まさかファデュイに拐かされて、いえあの方が遅れをとるはずが、しかし何か卑怯な……はっ!まさか璃月の民を人質に!?」
知らされた住所に尋ねてみるも、中に人の気配はなかった。嫌な予想ばかりが頭をぐるぐると巡ってしまう。
大通りを彷徨いていると、万民堂で魚を仕入れてきたばかりの香菱と出会った。そこで貴重な情報を得る。
「鍾離さんなら昨日、白駒逆旅の方へ行ったよ!公子さんと一緒に!」
◇ ◇ ◇
港に面した豪奢な建物。璃月の伝統的な建築技術をふんだんに使用した高級宿泊亭、白駒逆旅は一晩泊まるだけで一商人のひと月の給金が飛ぶほどだ。
受付で身分を開示して部屋を突き止め、最上階の部屋の扉を叩く。
「失礼!月海亭のものです!!」
声を荒らげるなどはしたない!と脳内の留雲借風真君に叱られるが、構っていられない。こちとら一大事だ。許して欲しい。
「はいはい、何か用……ああ、甘雨さんだっけ?俺に何か?」
「昨日提出された書類に関して、鍾離さまに確認したいのですが」
臙脂色のシャツにスラックスのみというラフな格好で現れたタルタリヤを、甘雨はキッと睨みつける。
神の目はあるがほとんど武装解除したファデュイ執行官の姿に面食らいそうになった。
「え、鍾離先生に?いま?」
「今です!」
「書類って婚姻届でしょ?不備があったなら俺が直すよ」
「いいえ!鍾離さまにお願いします!」
甘雨よりも頭二つ分は高いだろう長身で、中を見せないように立ち塞がる。
これは何か隠しているに違いない!と確信した甘雨は声を張り上げた。
すると、タルタリヤの背後から少し掠れた鍾離の声が聞こえてきた。
「公子殿、客人か」
「鍾離せん……ッその格好で出ちゃダメ!」
タルタリヤは大慌てで鍾離に駆け寄った。しかし、その一瞬の隙で甘雨は目撃してしまう。
前開きの旗袍をきた鍾離は首元までボタンが留まっていなかった。
普段の服装ならば隠れるだろう首、鎖骨、胸までが晒される。
そこに無数に散った鬱血痕と歯型も一緒に。
甘雨は握り締めていた婚姻届を床に落とし、ワナワナと震えて叫んだ。
「ふ、不敬!不敬です!!千岩軍をーっ!!仙人たちの招集をーっ!!」
「あーっ!ややこしくなった!!」
◇ ◇ ◇
数分後、いつもの服装に着替えた鍾離と、羞恥で頬を染める甘雨が室内の卓を囲んだ。
タルタリヤは少々疲れた様子で茶を入れている。
「大変失礼致しました……鍾離さまの前で取り乱してしまうなんて」
「構わん。俺の方こそ客人に見せる姿ではなかった。申し訳ない」
先ほどまで寝起きでぽやぽやしていた鍾離だが、今はピンと背筋を伸ばして清廉潔白な姿に戻っている。
───そのギャップが可愛いんだよねぇ。
タルタリヤは三人分の湯呑みを卓に置き、鍾離の隣に腰を下ろした。甘雨に睨まれたが気にしない。
「鍾離さま、その男はファデュイの者です。組織の一員どころか執行官です。本当に、脅迫紛いの契約の類ではないのですか?」
「信用ないな、俺。まあ当然か」
「公子殿とは双方合意の上で婚姻を結んだ。互いの国や所属は関わっていない。あくまで個人的にだ」
「そうなのですね……鍾離さまがそう仰るのでしたら、私が口出しすることではございません」
鍾離が嘘偽りを口にしないことは、甘雨がよく知っている。言えないことは言えないと伝えてくれる。
例え結果的に多くを騙すことになっても、それは璃月の未来のために必要だったことだ。
甘雨は何よりも鍾離を信頼している。だから、彼の言葉を疑うことはなかった。
タルタリヤがいれた茶には目もくれず、甘雨は鍾離の手を両手でギュッと握った。
「何かあればすぐ動いていただけるよう煙緋さんに話を通しておきますので、些細なことでもご相談を」
「法律が絡むトラブルを想定するのやめてくれる?こっちは新婚なんだけど」
「離婚でなくとも家庭内暴力、浮気、金銭トラブルその他なんでも!鍾離さまに不敬を働いたら駆けつけます!」
「新婚って言っただろ!月海亭にクレーム入れるからなァ!」
幼い頃から可愛がっている甘雨と夫の言い争いに、鍾離は微笑ましいものを見る目を向けていた。
魔神戦争を生き抜いた半仙とファデュイ最年少幹部が本気で争ったら白駒逆旅どころか港が吹き飛ぶので、早いところ止めた方がいい。
そう助言できる人間は、残念ながらここにはいなかった。