約束の守り方を教えて「──もう、グウェンに近付くな」
凍てつく夜の中、僕の手を生温いものがとろとろと濡らしていく。風と一緒に消え去ってしまいそうなこの頼りない温度が、目の前の命そのもののように思えて、僕は嫌だと首を振った。
「警部、警部、」
「いいな、約束だ」
指先を染めた熱は、みるみるうちに、つめたく固く冷えていく。嫌だ。もう一度首を振る。僕は約束を守れなかった。グウェンも守れなかった。そんな僕に、もう大事な誰かを得る資格なんかない、新たに探す気なんかない、だから、だから。
「なあ、ウサギとカニどっちがいい?」
「………っ⁉︎」
突然、掛けられた声に飛び起きた。身体の上を覆っていたものを蹴り飛ばし、センスの報せる方へとウェブを撃つ。何度も。
目の前に動くものが無くなった頃、ようやくはっきりしてきた頭で周囲を見渡した。ここはどこだ?
目に映るのは、よくわからないガラクタだらけの床、無駄にノスタルジックな玩具とごちゃごちゃ貼られたポスター。それから。
「オハヨー。調子どう?気ィ済んだ?」
息の整わない僕に向かって、ポスターの横で現代アートみたいに壁に貼られた赤い蓑虫が、おーい、と声を上げた。
「デッド、プール……?」
「ハーイ。愛と恋と友情とキャロライナ・リーパーの守護天使、デップーちゃんです。ところでコレ外してくんない?すげえ量だな。溜まってた?」
俺ちゃん、今日はまだ何もしてねえんだけど。ウェブで壁にべったりと拘束された彼は、そのまま今日一日の行動を朝から順に喋り始めた。その隣に並んで貼り付けられているのは、ふかふかの掛け布団。あれって、さっき僕が蹴飛ばしたやつ?呆然と眺めていると、目の前がぐるぐると回った。
「──ってことで、そっからはSNSでほっこり猫ちゃん画像の収集を」
「うう、気持ちわるい……」
「え、ディスられた?って訳じゃなさそうだな。あーもう、急に動くからだよ、この慌てん坊め」
「君、何を」
「イヤイヤ、何もしてねえってば。濡れ衣すぎ。なあ、無理させて悪いけど、とりあえず糸だけ外してくんない?アンタと一戦なんて願ったり叶ったりだけど、今はちょっと急いでるんだ」
デッドプールの声が頭の中にがんがん反響して、目の奥がずんと重く痛む。ううう、とその場にしゃがみ込んだ。
「その前に、ちゃんと、状況を説明して……」
「状況っつったって。俺は『デッドプールGO!』のテストプレイ中に、落ちてたアンタを拾っただけだよ。そんでウサギとカニの話だけど」
「落ちてた?」
「え、それも覚えてねえのか?ハドソン川の岸辺だよ。簀巻きになったヴィランの隣で、風邪薬握りしめてた」
そう言われて、徐々に記憶が戻ってくる。ああ、そうだった。納得の唸り声と一緒に、盛大なくしゃみが出る。
そう、風邪で熱が出てるのに、ヴィランを追って川で寒中水泳する羽目になって──戻ってきて、バックパックから薬を出したところで力尽きたんだった。
「ビショビショだったから服は脱がしたけど、顔は見てない。ここは俺ちゃんのセカンドハウス。とっ捕まえたヴィランは警察送り。他に質問ある?」
「うう…………ない」
ずびずびと鼻を啜りながらデッドプールに近付き、彼を覆っていたウェブをべりべりと剥がす。なんてことだ。僕ったら、助けてくれた相手を磔にしてしまったなんて。
「デッドプール、ごめん、あの」
「チキンスープ!」
しょげる僕を押し退けて、デッドプールが大声で叫ぶ。そしてドタドタと慌ただしく、部屋の奥へと走り去っていった。
*
「どーお?」
「おいしい……」
香ばしいチキンスープの湯気が鼻腔をくすぐる。僕はぐず、と鼻を鳴らしながらスプーンを口に運んだ。甘く煮込んだ玉ねぎが、ひりひり痛む喉を滑っていく。
「あの……改めてごめん。突然攻撃しちゃって」
「別にいーぜ。スープの方も焦げずに無事だったしな」
「これ、君が作ったの?」
「そーだよ、キャロライナ・リーパーを入れなくて正解だった。おかわりもある。それから、デザートには白鳥がいる」
「は?」
「リンゴだよ。ウサギさんリンゴとカニさんリンゴ、どっちが好きか答えてくんねえから、飾り切りで『白鳥の湖』の群舞シーンを再現したんだ」
「そりゃ大作だね……」
オデット姫のポジションは俺が演るから空けてある、とよく分からないことを言う彼は、いつものスーツの上に白鳥のようにひらひらしたエプロンに身を包んでいる。何をどう返していいかわからず、僕はハアと溜息のような返事をした。
「アッ、もしかして、アンタも演りたかった?黒鳥を踊るアンタは見てみたいけど、その体調でグランフェッテは無理だろ。治ってからにしとけ」
「いや結構だよ。バレエは興味ないし、今で十分至れり尽くせりだし。パジャマにごはんに、それからお供のぬいぐるみまで」
手近にあった大きなサメのぬいぐるみを、むぎゅっと抱きしめる。体重を掛けると、ふかふかのサメは潰れてぐにゃんと歪んだ。
「そいつ、いいだろ?一番デカい。名前はスパイディ3だ」
「勝手に僕の名前を付けるなよ。しかも3?」
「商標登録済みだったか?訴訟は勘弁してくれ。ちなみに後ろにいるのが2で、向こうのが1。あっちの棚の右上から4、5、6で今のところ三十七までいる」
「多くない?」
ぐるっと見渡すと、棚に並べられていたサメたちと一斉に目が合った。丸っこい黒ボタンの瞳に見つめられながら、居心地悪い気分でスープの最後の一口を流し込む。なんだか夢に見そうだ。体調は相変わらず良くない。
「いっぱいいた方が可愛いだろ?」
「これだけたくさんいると怖い」
「マジか。防犯用にもなるなんて、さすが俺ちゃんのスパイディだな」
「怖いのは君だよ……」
ハア、とため息を吐くと、頭がズキズキと盛大に痛んだ。ああ、三十七人のスパイディ。彼らが本物のスパイダーマンで、僕の代わりにNYを守ってくれたらいいのに。
「ねえせめて、僕の風邪が治るまでだけでも変わってくれないかい?スパイディ3……」
「エラ呼吸には荷が重いだろ。俺ちゃんがやってやろうか?」
「へ?」
縫いぐるみ相手に現実逃避している僕に、「新しい銃試したいなって思ってたとこだし」とデッドプールがさも親切そうな顔で言う。
「干してるアンタのスーツもそろそろ乾いた頃だろうし」
「やめて。絶対ロクなことにならない。僕のスーツは貸さないぞ」
「信用ないな」
「あると思う?君、この前も街中でバズーカなんて振り回してただろ。先月はビルの壁一面に落書きしてたし」
「この愉快な街じゃバズーカなんかパーティグッズだし、スタン・リーの似顔絵はどこに描いても罪に問われないことになってる」
誰だよその人、という僕の疑問を、デッドプールがとにかく、とねじ伏せる。
「いいから任せとけって。ちゃーんと蜘蛛っぽく守るからさ。殺しもナシ。多分」
「なにそれ。だめ、だめだよ、僕の代わりに戦うなんて。絶対だめだ」
「そんな全力で拒否ることなくない?」
「だって……だって、君に何かあったら」
ぼくのせいだ。
そう呟いた瞬間、ぼろっと涙が溢れた。あ、と思った時はもう遅かった。
「えっ、ちょっ、スパイディ?」
「うう」
いつもこうだ。いなくなってしまった人のことを思い出すと、整備不良の蛇口みたいに涙が滲む。
でも、こんな時に。こんな奴の前で。
「アンタ、俺ちゃんが死ぬの想像して泣いてる?やめろよ、好きになっちゃうだろ」
「違う、バカ」
「俺ちゃんはどっかの弱虫とは違うから安心しなよ。超強い鬼ヤバスーパー傭兵だからな」
「人が死ぬのは弱いからじゃない」
へらへらした顔を睨みつけると、デッドプールはゴメン、と肩を下げた。
「言葉のあやだよ。でもな、今までアンタが死ななかったのだって、アンタが強かったからじゃないぜ。無理すんな」
「………」
「俺は死んだりしない。俺の身体はチャイコフスキーの魂より不滅なんだ。ハートはガラス製だけどな。分かったらちょっと落ち着け」
「でも」
ぶわっと、また古いシャワーみたいにぼたぼたと涙が溢れる。あーもー、とウェイドが天を仰いだ。
「何だかよくわかんねえけど、分かったよ。今日はどこにも行かない。約束する。ホラ、とっとと寝な」
アンタ多分熱上がってるぞ、とデッドプールが焦ったような声を出す。確かに、さっきよりも倦怠感が酷い。ぐにゃぐにゃと歪み始めた視界にふらつきながら、約束、と口の中で繰り返した。
「約束なんか、信じられない」
「じゃあどうしろっての?」
「どうしよう」
「おい、考えてなかったのかよ。アンタが治るまで、さっきみたいにアンタのスパイダージュースで磔にされてれば安心すんの?」
アンタが納得するんなら別にそれでもいいけど、とデッドプールが肩をすくめる。
「なにそれ、自己犠牲が過ぎるでしょ……」
「子どもと病人とアンタは、ちょっとぐらい甘やかされるべきだろ。今のアンタはダブル受賞だから、なんでもしてやるよ」
デッドプールが、へらへらと笑って安請け合いする。僕は腕の中のスパイディ3をぽいと放り出すと、代わりに彼の胴へと腕を回した。ヒエッと甲高い悲鳴が上がる。
「エッなになに、そういうのがご希望⁉︎いきなり関係進めちゃう感じ⁉︎」
「関係って?」
アワアワと狼狽するデッドプールを、ベッドの中へとずるずると引きずりこむ。うわあ食われる、とさらに悲鳴が響いた。失礼だな、獲物を巣穴に運ぶ蜘蛛みたいな扱いしないでよ。いや蜘蛛だけど。もしかして今、はたから見れば随分とホラーな光景だったりするんだろうか。
「何だこりゃ、夢か?枕の下に写真入れといたからか?シーツに全身ショット印刷したお陰か?」
「何してるの、君」
「なあ。嬉しいけど、病人相手にそういうアレはアレだし、俺ちゃん今日スキンも切らしちゃってるし」
「何言ってるの、君」
お互いの身体がぴったりくっついて、完全に布団の中に隠れる。くしゃくしゃになったフリルのエプロンに頬をくっつけながら、僕はようやく、ほっと息を吐いた。
「これでよし」
「なんも良くなくない?」
「僕が寝ている間だけ、ここにいて。どこにもいかないで」
「………」
「お願い」
湿っぽい体温に満たされた布団の中に、彼の匂いが溶け出していく。微かなそれを逃がさないように、ごわごわした身体を抱きしめた。抱きしめるというか、しがみつくというか。
「俺ちゃん、サメのぬいぐるみじゃないんだけど」
「知ってる」
「一応聞いとくけど、関係進めちゃいたいわけじゃないんだよな?」
「ないよ……」
そんな気はない。愛も恋も友情も必要ない。これはただ、僕が治るまで彼が勝手に変なことをしないように、この場に拘束しているだけだ。ただそれだけ。それだけだ。
なのに、どうして、こんなにも温かいんだろう。
「おい、あんまり密着するな。俺ちゃんの息子さんがいつもより余計に元気になるぞ、もうかなりご機嫌だけど」
「え、君の子……?一緒に住んでるの?」
「そういう意味じゃねえって。熱上がってんなコイツ」
少し速めの心音と、「トイレ行っとけばよかった」という嘆きを聴くうちに、頭の芯がぼんやり霞がかっていく。そしてふと、デザートを食べ忘れたことに気付く。
食べ損ねてしまった白鳥は明日まで、飛び立たずに待っていてくれるだろうか。それとも僕が頼んだら、もしかして、また剥いてくれるだろうか──そうして欲しいと思う人のことを、何と呼べばいいんだろうか。
そんなことを思いながら、僕は再び気を失った。あたりにはまだ、チキンスープの匂いが漂っている。