懐かない犬の話 2.
「──そりゃ、飼ってるとは言わねえ。野良犬が勝手に棲みついただけだ」
「あ、やっぱそう思う?」
ゴトンと投げやりな音を立てて下ろされる安物のグラス。サービス精神でバーボンを注ぎ足してやると、即座にまた空になった。相変わらず遠慮のない物言いと飲みっぷりだこと。
俺ちゃんの近況報告に、手元の酒と同じくらい強いちくちく言葉をぶん投げてくる社交性皆無の生き物、ローガンa.k.a.ウルヴァリン。良い子のみんな、「人付き合いが苦手」なんて悩む必要ないぜ。それで百年以上元気に生きてる実例がここにいる。なんと歴代の恋人は四十人以上だ。そんで多分、色恋沙汰で刺された回数も同じぐらいはあると思う。まあ、ヒトのことは言えないけどさ。
「さっすがクズリちゃん、野良犬に詳しい!」
「どういう意味だ、この野郎」
「アレ?イタチってイヌ科じゃなかったっけ……ああ、ネコ目イヌ亜目クマ下目イタチ科だってさ。どーゆーこと?ネコなのイヌなのクマなの?アンタのストライクゾーンが広すぎんのって、もしかしてそのせい?」
「どんな話の飛び方だそりゃ。つうか、てめえの相手をよくよく思い出してから言えよ」
「俺ちゃんは外見じゃなくて、そこに愛があるかどうかだもんね〜!相手が赤毛なら見境なしじゃんかアンタ。ていうか目が合ってフレームアウトしたら即朝チュンだし。あれどんな手口で騙くらかしてんの?あと実は気合い入ったMだってマジ?俺ちゃんがいい店紹介してや……ぐえっ!」
スマホで開いたウィキのページを指差しつつ、その前足のツメと同じぐらい尖った眼光をヘラヘラ流していたら、今度は視線の代わりに酒瓶が飛んできた。勘弁しろよこのゴリラ。
「痛ってぇ!せめて空瓶にしろ!死んじゃうだろ中身入りは」
「チッ、酒が無駄になった。うるせえな、てめえは死なねえだろうが」
「俺ちゃんが死ななくても、服が死ぬんですー!あーあ。どーすんだよ、このウィスキーまみれ!お気に入りだったのに。弁償しろ!」
「いつものクソダセェスーツだろ、川にでも飛び込んで洗って来い」
「なんだと、この万年汚タンクトップ親父が。くらえ、『酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律』!」
そこから始まるカウンター横の乱闘、前世紀のストレス発散レクリエーション。ただ、超回復持ち同士の喧嘩はキリがない。そのうち舌打ちと共にローガンが椅子を蹴って立ち上がった。これもいつものパターンだけど、今日はまだ困る。
「アッ!オイ帰んなよ!俺ちゃん、アンタに聞きたいことあったのに」
「どうせロクな話じゃねえだろうが。そのへんの壁にでも喋ってろ」
「つーかマジでここの勘定、全部俺に押し付ける気!?ヒーファクで酔えもしねえくせにこんなに飲みやがって」
去り行く背中に叫んでも、こっちを振り返りもしねえ。ガラガラと品のないベルの音を残してドアが無慈悲に閉まる。クソ、なんて可愛げのないイヌ科なんだ。アレ、ネコ科だっけ?いやクズリちゃんだよな。ドアの向こうへひとしきり悪態を吐いてから、諦めてそこらにいたボーイを捕まえる。名前も知らねえけど、壁よりゃマシだろ。
「アンタでいいや。なあ、ちょっといい?俺ちゃんさあ、誰かに聞きたいことがあんだけど」
「エッ!?な、なんですか……?」
「だーいじょうぶホラ、取って食ったりしないからリラックスして。あのさ、ペット飼ったことある?特に犬とか」
「じ、実家で保護犬活動を……」
「わお、ビンゴ!壁にしなくてよかった!んじゃ早速教えて欲しいんだけど」
怯えるボーイにいくつか問いかけると、困惑した顔で丁寧に答えてくれた。おお、ナイス模範解答。チャットAIやパーソナライズド検索より的確。クズリちゃん別に呼ばなくてよかったな。
「ありがとよ、参考になったわ。そろそろ俺ちゃんも帰るから、コイツでお会計しといてくれる?釣りは取っといていいぜ。大した額じゃないが、アンタんちのワンコに使ってくれ」
「えっ!?あっ、ありがとうございます」
酒臭いボロ財布をボーイの手の上にポイっと投げて、俺も席を立つ。ドアを開けようとしたら、慌てたような声が飛んできた。
「これ、財布のガワの方はどうします?あと、カード類とか入ってません?」
「クレカなんかは多分入ってないぜ。前世紀のおじいちゃんだから、現金しかろくに使えねえの。ガワは一応置いといてくんない?免許証くらいは入ってるかもしんないし、そのうちお迎えが来るかも」
「え、誰が?」
財布からチラ見えするIDに、ウィンクしながらドアを閉める。貼られた顔写真は、この世の終わりまでキャッシュレス決済とオトモダチになれなさそうな顰めっ面。
今頃きっと、駅の券売機の前で尻のポッケをひっくり返しながら遠吠えでもしてる頃だろう。
*
Q.犬を拾ったら、まず何をするべきですか?
A.なるべく早く病院へ連れていきましょう。
保護とは、捕獲のことではありません。適切な医療と食事、環境と愛情とを与え、信頼できる相手に譲渡し、その生涯が幸福のうちにあるよう努めて、初めて保護と言えます。
「まっそれくらい、ボーイくんに訊かなくたって、俺ちゃんだって知ってたけどねー。一応ホラ、確認っていうか」
実行できてるかどうかも別っていうか。溜息を吐きつつドアの陰から灯りの消えた冷たいリビングを覗く。部屋の隅で、じっとうずくまる黒い塊。そいつが寝ているわけじゃないってのは、耳に届く浅い息遣いだけでも分かる。毛布を押さえる力の入りすぎた青白い指と、何も見てない見開いた目を見ればなおさら。
(──今夜もまた大変そうだね、ワンちゃんは)
あの雪の日から、しばらく経った。俺ちゃんがいらねえお節介を焼いたあの日。そのあくる朝、犬はまた俺ちゃんを締め上げて(俺の周りに可愛げのあるイヌ科っていないの?)首元から手を外さないままこう言った。
「君に壊された屋根の修理、まだまだ掛かりそうなんだよね。もう少しこの家にお邪魔してていい?いいよね?」
「それって書類上、俺ちゃんのなまいきペットでいいってこと?それかペットじゃなくて養子縁組でもするか?」
「その選択肢って同列なの?ろくでもない書類に言いたいことは山ほどあるけど、今は役所にも行けないし、養子はムリだね」
イヤ、大人しく帰ったら?俺の至極真っ当なツッコミに「それはもっとムリ」とひとつ肩を竦めて、犬は消去法でうちの犬になった。
けれど、『犬でいいから置いてくれ』なんてぶっ飛んだ願いを叶えた割に、その後も別にハッピーなペットライフを送っている様子もない。相変わらず懐かないし、毛布の巣で寝起きして、ふらふら出掛けてふらふら戻って、冷蔵庫のハムやらタコスやらを勝手にくすねて──
(そんで夜はこうして、ひとりで潰れかけてる)
その場しのぎの俺のハグ一回なんかで、いきなりメンタルが超回復するはずもない。もしアレで済むなら、俺はセロトニンの守護天使かケシの花の妖精さんとして、今頃世界中の病院と製薬会社に身体を狙われていたはずだ。まあ、犬をとっとと病院に連れて行きたい俺としては、あっちから来てくれるんならむしろ歓迎だけどな。
え、なんでまだ連れて行ってないのかって?犬が全力で拒否ってくるんだ、「病院は行けない」って。
Q.俺ちゃんは犬の意思を無視して、犬を病院へ担ぎ込むべきでしょうか?
A.状況によるが、オススメしない。
このワンちゃんは、病院というものを理解していて、俺ちゃんとは最低限の意思疎通ができる。それも鳴き声じゃなくて言語で。
それなのに、「行きたくない」じゃなくて「行けない」と言う背景さえも理解できないくせに「無理矢理連れて行くべきだ」とか言い出す奴は、一度パターナリズムで検索した方がいい。
アイツの意思も権利も命も尊厳も、全部アイツの持ち物だ。たとえ相手が犬だろうとな。そんでそれは、クズリちゃんの財布ほどには気軽に盗めるもんじゃない。少なくとも俺にとっては。
Q.ならせめて、俺ちゃんはまたワンコを撫でてハグして寝かしつけてさしあげるべきでしょうか?
A.その行為の責任が持てるなら。
「通りすがりのちょっとした親切でした、って言い訳で終われる初回とは、話が違うよなあ…」
ガキの頃のマラソンみたいに「次のポイントまでなんとか粘ろう」を延々と繰り返していくしか、夜を越える方法はない。そしてそういう時に必要なのは、安心できるルーチンだ。日によって受け入れたり拒絶したり、気まぐれな対応をするのは一番アウト。不安定の擬人化みたいな俺にはなんとも荷が重い。
幸い、俺が帰ってきたことも、ドアの影にいることも多分まだ気付かれてない。変な期待をさせる前にここを離れた方がいい。そう思うのに、犬の小さな鳴き声がやけに耳につく。泣けば楽になるだろうに、泣き慣れてなくてどうにもならないような息遣い。
重く淀む空気を切り裂くように、突然、無機質な電子音が鳴り響いた。
「ーーーーーッッ!!」
弾かれたように犬が勢いよく立ち上がる。ビビる俺にも気付かず、そのまま薄いシャツ一枚だけを羽織って駆け出した──俺のいるドアに向かって。
「うわっ!?」
「………よう、」
「え、……デッドプール?」
「そおだよ、ワンちゃん。こんな夜中に、そんな格好でおサンポか?今夜も外は氷点下だぞ」
まるで追い立てられているみたいに、前も見ず全速力で突っ込んできたワンコを、なるべく涼しげな顔をしてムチムチの筋肉でキャッチする。俺ちゃんがワガママボディでよかったね。尻餅ついてぶつけた鼻をさする犬の、近くに転がった古めかしい無線機からはざらついた喚き声が聞こえる。発信者は……NYPD。
「警察無線かあ、この街じゃ人気番組だよな。もしかしてヒーロー志望者?イイコトないぞー、ヒーローなんか」
「…………」
「これからパトロールか?ひでえ顔色だし怪我も治りきってないだろうし、やめとけって。それに最近のニューヨークはちょっと物騒すぎる。もうちょい初心者向きの日にしなよ」
相変わらず真っ白な顔した犬は、べらべら喋る俺でなく、床を見つめたまま固まっている。震える唇から、俺に聞かせるつもりもなさそうな声がぽつりと漏れた。
「……やめる、なんて無理。都合が良いいつかを待つことも」
「追い詰められてるやつは、みーんなそう言うんだ。でも実際は、代わりなんていくらでもいる」
「違う、僕がやらなきゃ。誰も誰かの代わりになれない。早く行かないと」
「………」
「行かなきゃ。早く。このままじゃ、また間に合わない……」
何に対しての言葉だろう。分かっているのは、俺のありがたい忠告なんて、きっとなんにも耳に入ってないってこと。切羽詰まった独り言とは裏腹に、床に座り込んだ犬の身体は動く気配がない。動かない。動けない。多分今、コイツの手足は鉛かタングステンかでできていて、尻の下以外の地面は全部マリアナ海溝よりも深い溝に見えている。なんで分かるかって?
………あああ、クソが。
「どこだよ」
「……え?」
「現場どこ。酒買うついでにちょっと見てきてやるよ」
「…………」
「だから休んどけ。ほら、ハウス」
口がまた、勝手に安請け合いをする。嘘だろ、そんなつもりなかったのに。どうもこいつと関わると、ガラでもねえことをしてしまう。溜息を吐いて玄関へ向かう。いいさ。パッと行って、その辺のゴロツキを数人ぶん殴ってくるだけだ。別に大した手間じゃねえ。最近運動不足だし、スーツもまだ着たままだったし──
(それに、俺の足は今、断崖絶壁の上じゃなくてフローリングの上にある)
それでも、こんなお節介もこれが最初で最後にしとかなきゃな。医療者でもなきゃヒーローでもない、飼い主にもなれない俺がコイツに安定供給できるのは、せいぜい屋根と寝床ぐらいだ。それも、期間限定で。
それ以上を俺の気まぐれで与えたり奪ったりすんのは、弱ってるコイツにとっちゃ致命傷になりうる。タチの悪いギャンブルと変わりない。井戸を探す気力を奪って、雨が降らない雲にしがみつかせてしまう。
(──俺なんかが関わると、みんなそうなる)
ざわ、と背筋が粟立った。腹一杯にコンクリでも詰め込まれたような不快感。頭の中に響くいつもの声。ああ、気分が悪い。
さっき無線機から聞こえたのは、それなりに離れた場所のビルの名前。面倒だな、タクシーでも呼ぶか。そう考えながらドアノブへ手を掛けた瞬間、ぐい、と服を引っ張られた。
「……えーと、ワンちゃん、どした?」
「………僕の、僕の責任なんだ」
「は?」
「君のじゃ、ない。だから、自分の分くらい……自分で、持たなきゃ」
白くなるまで噛み締められた唇が、震える声を絞り出す。その目からは、底無しの恐怖が見て取れる。冷えた指先、今にも泣き出しそうなくしゃくしゃの顔。
──ひと時の安全と安定を投げ捨てて、どうしてろくでもない世界に向かおうとする?
A.あいつと同じだから。
目眩を覚えるようなアンサーから目を逸らす。あと少し力を入れれば、ドアは開く。裾に掛かるコイツの指は簡単に振り解ける。なのに。
「……んなこと言ったって、どうやって行くつもりだ?そんなガタガタ震えてんのに。いいから留守番してろよ、早死にすんぜ」
「だめだ、きみだけに行かせられない。絶対に」
「じゃあ、どうしろっての」
*
「あのさーーー、無理して頑張るマッチョなド根性系ヒーローってさあ、もういい加減、問題だと思うんだよねえ、俺ちゃんはーーー!!」
頰を切る風に負けずに叫んでみても、誰もなんにも答えてくんない。俺が近所のツレのバイクをパク……借りてる間は、ずっとキャンキャン吠えてたくせにな、このワンちゃん。そして悪いな友よ。この前酒場で自慢してたこの新車のバイク、明日返すよ。壊れてなけりゃな。
「………君、なんかお酒くさい」
「悪かったなぁ!どっかのけむくじゃらが頭から酒ぶっかけてくれて、更にどっかのワンコが俺ちゃんにシャワーの時間もくれなかったせいだよ!だからタクシーにしようっつったのに」
「だって、仕事中の運転手さんを巻き込んじゃだめでしょ」
「俺は巻き込んでいいワケ!?つーか、この状態でポリ公がワンサカいる場所に突っ込むって、どんなギャグ?ヒーファク持ちの俺ちゃんが飲酒運転疑いで捕まるとか、全然笑えないけど!」
「あの、……ごめん」
情けない声で犬が謝る。変なとこ素直だな。ションボリ垂れてそうな耳とシッポを思い浮かべて、思わず吹き出す。そう、俺はきっと後でまた、この瞬間を何度も何度も後悔する。──それでも。
「いーよ。愛犬と愛車にタンデムで駆けつけるカッコイイヒーロー役って、人生で一回くらいはやってみたかったし」
「犬じゃないしバイクは借り物だし。どこに愛が」
「あるある、メッチャある!」
くだらない俺の軽口を塞ぐように、犬がニーグリップの挟み込みを強くした。背中に鼻先を埋めて、すん、とまるで本物の犬みたいに鼻を鳴らす。なんだよ、クサイっつったくせに。
「……着くまで、転げ落ちない程度に目え閉じて休んどけ。どうせしばらく寝てねえんだろ」
「………ん」
返事みたいに腰に回された手は、擦り切れた手袋越しでさえさっきよりも温かかった。酒でベタつくスーツに引っ掛かる、俺が貸したMA-1の摩擦。掴まれたところから滲んだ熱で、腹の中の重たいコンクリが溶けていく。「居ないよりマシ」を称賛するなよと、いつもの声が喚いている──なあ、俺は今、『テキセツなカンキョウとアイジョウ』を渡せているのか?
道の凍結具合を確かめながら、徐々にスピードを上げていく。雪道に踊るオレンジの灯が目の端で伸びて、か細い糸のように流れて消えていった。