落ち蜘蛛拾い(2020.11.12).
「やめとけばよかった」
路地裏のゴミ箱の中で、後悔に呻く。一応言っておくけれど、別にゴミ箱に住んでいるわけじゃない。偶々落っこちて、そして出る気力がないだけだ。疲れ果ててもう指一本動かせない。それに空腹。
そう考えた瞬間、まるで怪獣の鳴き声みたいな怪奇音が聞こえた。ここしばらく脳内を占めている、チョコレートファッジブラウニー味のアイスケーキの幻影が僕の胃をしくしくと苛む。チョコが濃くて、クリームが甘くて、マシュマロと苺がトッピングされているやつ。一週間前に、「なあ、明後日のアンタの誕生日、プレゼント何がいい?」と聞くウェイドに、CMを指差しながら「このアイスケーキがいい」とねだったのは僕だ。
「えー、絶対やめといた方がいいぜ。うちのフリーザーはメイに押し付けられた冷食でパンパンで、スパイディのフィギュア一つだってもう入んないし、アンタが家に帰ってくるタイミングは、どんなサイキックにも予知できねえし」
「そんなことないよ。配達を一番遅い時間にして、ドライアイスで埋め尽くしておけばきっと大丈夫。っていうか、何で僕の人形を冷凍する必要が?」
「冷凍保存しとけば、どっかの映画みたいに宇宙戦争とか起きても平気かなって」
「あれはカーボン冷凍だし、ちょっとご家庭用の冷凍庫に期待し過ぎだろ……」
とにかくやめとけ、と僕の悲しい誕生日が既に容易に想像できているって顔したウェイドに、僕はめげずにこれがいいと主張した。
「ちゃんと帰ってくるよ。だって、その、君に祝ってもらうの、一緒に住み始めてから初めてだし」
「俺ちゃんとしては、折角ならもっと派手なプレゼント選んで欲しかったのに。ネズミの住んでる夢の国を丸ごととか。それなら時間制限もないし」
「家がいいしこのケーキがいい」
結局ウェイドは「アンタって欲がない割にギャンブル好きっつーか、案外チャレンジ精神旺盛だよな」と肩をすくめながら、希望通りアイスケーキを注文してくれた。僕はすごく喜んだ。でもあれから、まさか、一週間も家に帰れないなんて。
「甘かった…いつも通りのパトロールのつもりだったのに」
ホラ言ったじゃん、と爆笑するウェイドの顔が脳裏を過ぎる。ああ、と頭を抱えた。
本当に、すぐ帰る予定だったのに。ヴィランと戦っているうちに、うっかり地球の裏側に飛ばされたり、別の次元に飛ばされたりしているうちにこんなことになってしまった。
あの日の夜、窓から飛び出した僕の背後では呼び鈴の音がしていた。多分あれがケーキの宅配業者だったんだろう。そして一週間だ。ドライアイスなんて、もうとっくに霧になっている。アイスケーキも溶けてでろでろに違いない。
「うう、最悪。もう一度冷やしたら、シェイクくらいにはならないかな……それか溶けちゃったアイスにはパンを浸して焼くと美味しいって前テレビで」
「わお、なんかすげえ涙ぐましいしみったれた算段してんね」
聴き覚えのある声に、顔を上げる。ゴミ箱の入り口から、見慣れた赤いマスクが覗いていた。
「……ウェイド!」
「よう、今日は燃えるゴミの日だろ。捨て蜘蛛の日じゃないぜ。それともコレ何かのアトラクション?今ってグリーティング中だったりする?」
とんだ夢の国だなと笑いながら、ウェイドが僕の頭の上へ貼り付いたバナナの皮を剥ぎ取って投げ捨てる。それを追いかけて、近くの鼠が何匹か飛び出していった。
「……僕だって、燃やせば燃えるよ」
「どうかな、NYのご当地ヒーローって燃えにくそう。土ん中に埋め立てか、冷凍して宇宙にポイされちゃうかもよ」
ホラ出なよ、アンタ寒いの嫌いだろ、とウェイドが手を差し出す。僕はその手を取れずにしょんぼりと俯く。
「ウェイド……ごめん」
「んー?」
「帰れなかったし、ケーキもダメにしちゃった。呼び鈴が鳴るのが、あと二分早かったらよかったんだけど」
「二分でホールケーキ食おうとするな。バースデーソングくらい歌わせろ。っていうか、あの時の呼び鈴はケーキの配達じゃねえぞ。俺ちゃんからアンタへのプレゼントの方だよ」
「プレゼント?ケーキだけじゃないの?」
「そう、もっとアンタにピッタリのやつ。何か知りたい?」
そう言って、ウェイドがスマホを差し出す。画面には、特に変わり映えのない、僕たちの家の居間が映っている。
「……何?」
「よく見て、ホラ!部屋の真ん中らへん!」
目を凝らすとテーブルの上に、見たことのない赤い小さなフリーザーがちょこんと載っていた。中には例のアイスケーキが、誇らしげに鎮座している──あつらえたように隙間なく、ぴったりと。
「……これ、」
「買っちゃった。カーボン冷凍はできないっぽいけど、よくない?アンタのケーキ専用」
「僕のケーキ以外、入れないつもり?」
「アンタのケーキが入れば十分じゃない?来年も使えるし。ケーキのいない間はスパイディのフィギュアも入れられるし」
何だって定位置は必要だろ、とウェイドが言う。そして、もう一度手を差し出した。
「アンタの定位置も、そこよりはもっといい場所があると思うんだけどなー俺ちゃんは」
「……ありがとう」
ウェイドはどういたしましてと笑いながら、僕の身体に腕を回して抱き上げた。まるで駄々っ子をあやすみたいに。足に引っかかっていた空き缶が、カランと音を立てて道に転がり落ちる。
「うはは、くさいよ、アンタ」
「仕方ないでしょ」
「ゴミと汗と埃と、どっかのヴィランの体液」
「ちょっと、分析しないで」
「でも、アンタの肌の匂いもする」
僕の頭に顔を寄せて、ウェイドがすんと鼻を鳴らした。自分だけされるのは恥ずかしくて、僕もウェイドの匂いを嗅ぎかえす。いつも使っているコロンと、消えない硝煙と、彼の肌の匂い。なんだか胸が擽ったくなって、肩口にぐりぐりと頭を押し付けた。
「珍しいな。甘えてんの?」
「定位置を確認してるだけ」
僕の言い訳に、ウェイドがくつくつ笑った。肌から伝わるその振動に、身体から力が抜けていく。そういえば、しばらく眠っていなかった。
「寝ていいぜ。家に着いたらすぐ分かる。部屋中ケーキの匂いしてるから」
「それ、最高……」
「そういやフリーザーのついでに、バニラの入浴剤とチョコのシャンプーと苺のボディソープも買ったんだ。全部使ったら、俺たちもケーキと同じ匂いになれるかも」
「うーん、それはハイになれるか吐くか、二つに一つだね……」
チャレンジ精神旺盛すぎるウェイドの提案を聞きながら、僕は重さを増していく瞼を閉じた。子守唄のように耳に響く、下手なバースデーソング。次に目を開けたらきっと、お風呂とケーキと、僕らの家が待っている。