NWH後のがすぱくんとマックスの話.
「やっと見つけた!」
「………よう」
ずっと探してたんだ、と早口で喋る彼は、今日は見慣れた蜘蛛のマスクを付けている。今ここで大声を上げて逃げ出せば、きっと自分は犯罪者として、道ゆく人々の注目を集められることだろう。いや、既に周りからはそう思われているかもしれない。
「元気そうでよかった、会いたかったよマックス」
「俺は別に会いたくなかったな、バグボーイ」
サーチライトみたいなその目を見上げながら、そろそろと両手を上げる。なんの力もない今、逃げても腹が減るだけで、どうせ結果は同じだ。それに行く宛もない。俺が犯罪者──彼の獲物であることも間違いないし。
*
俺が「こちら」の世界に戻ってきたのは数日前のことだ。いや、ちゃんと元の世界に戻ってきたのかは分からない。この前と違って、次元の違いを知るすべが何もないからだ。誰にも会ってないし、前に住んでいた家にも帰っていない。今日がいつかも分からない。
俺は何をする気にもなれなくて、ポケットの中の小銭で水を買った後は、ずっとこうしてベンチでぼんやりしている。まるでこの世に取り残された亡霊みたいだ。いや、似たようなものか。
ただ、ロケーション的におあつらえ向きな墓場のそばを寝ぐらに定めたのは、別に時期外れのハロウィンをやろうと思ったからじゃない。簡易な休憩スペースとして作られているせいで辛うじて雨風が凌げるのと、人が少なくて静かだったからだ。それもまあ、今こいつに捕まるまでの話だったが。
「えっ、違うよ!別に君を捕まえにきたんじゃない」
「……は?捕まえに来たんじゃなきゃ、一体なんなんだ?」
「何って、その……ちょっと話しに」
「お前が俺に?」
だって、こっちに帰ってきてるだろうと思ったから、とスパイディがもそもそ喋る。そして、はっと驚いたように、ベンチの上に散らかしたゴミへと目を止めた。
「あの、あのさ……つかぬことをお伺いするけれど、暮らしの目処は立ってる?」
「はあ?立つわけないだろ。犯罪者だし、それでなくても死んでるし」
「ああ、うん。そうだよね、やっぱり。じゃあさ、身分証の取得から始めるとして、ひとまず寝る場所を確保しなきゃ。ここエアコンもないし、暑くて寒いだろ」
各地区のシェルターに空きがないか確認しよう、無宿者用のアプリがあるからまずそれを入れて、その前にスマホの契約を、とスパイディが次から次へと捲し立てる。
「もしシェルターが満杯でも安心して。一緒に探すよ。そうそう、僕の知り合いが働いている病院に、併設の避難所が──」
「………何のつもりだ?」
「え?」
「放っといたらどうせまた犯罪に手を染めてアンタの世界を脅かすだろうから、今のうちに手元で管理しとこうって?」
「………」
「その、自分の思う『改善された状況』ってのをこっちの都合聞かずにガンガン乗せてくるその感じ、いかにも恵まれてる奴って感じするな」
「…………ごめん」
俺の言葉は、それなりにダメージを与えたらしい。分かりやすく肩を落としたスパイディが、僕が無神経だった、としょんぼり謝罪してくる。
「別に。お前たちが無神経なのは、今に始まったことじゃないだろ」
「うううう、ごめん。本当にごめん」
スパイディはそのままウウウとしばらく唸っていたけれど、やがて「ごめんね、やっぱり出直す」と立ち上がった。早く帰れ、と俺はその背から視線を外す。けれど、ふと疑問を感じて口を開いた。
「なあ、聞いていいか?」
「なに?」
「どうやって俺のことを見つけたんだ?ここ、空からじゃ見えないだろ」
「君をずっと探してたのは本当だけど、今日会えたのは偶々だよ」
墓参りの途中だったんだ、とスパイディが、目の前の墓地の一角を指差す。
「あれ、君を殺した犯人のお墓。僕と一緒にね」
え、と声を上げた時にはその背はすでに、空の高い場所へと飛び上がっていた。
*
「おはよう……今日は差し入れを持ってきました」
「なんで敬語なんだよ」
それに、なんで私服なんだよ。そういうと、目の前の青年は「スパイダーマン姿じゃ目立つかと思って」と言いながら、紙パックのジュースを差し出した。
ああ、これ知ってる、ギリギリ飲める変な味のジュースばかり量産しているメーカーの、イマイチ不味そうなチーズケーキ味。
「もっと違うものにしたかったんだけど、今ちょっとあんまり持ち合わせがなくてさ……」
「でもこのシリーズのジュース、結構いい値段するだろ」
「実は賞味期限切れで投げ売りだったんだ。ダースで3ドル」
ちなみにこれ僕の朝ご飯、とスパイディの中身が侘しいことを言う。貧乏なのか?跳ねた髪は大して手入れもされていなさそうだし、着ている服はティーンの頃からずっと着続けていそうな、首元のよれたパーカーにくたくたのスニーカーだ。ふと、ジュースを入れていた紙袋に目がとまる。
「これ買ったの、もしかして高架下の酒屋?入り口にデカい魚の置物がある」
「そう、よくわかったね」
「このあたりじゃ、飲料系はあの店が一番安い。昔はよく世話になったよ」
「うん。僕も給料日前はよく通ってる」
道ですれ違ったりしてたかもね、と嬉しそうに青年が頷く。僕たち、同じ街に住んでるから。あどけなく笑う顔に曖昧に頷いた。同じ街に住んでいたって、同じものを食べたって、見えるものは違う。オズコープという大企業に勤めていても、どんなに有益な働きをしても、俺の給金はたかが知れていた。老いた母との生活も楽じゃなかった。
いつかエレベーターで出会ったスパイディの恋人──頭のてっぺんから爪先まで育ちが良さそうだった、あのお嬢さんと一緒にいられたコイツとは、同じだなんて思わない方がいい。お互いに。
そう思っていると、青年がこわごわと顔を覗き込んできた。いつのまにか、俺は例の彼女の墓を睨みつけていたらしい。
「あの……自分を殺した相手だしお怒りはごもっともだと思うんだけど、できればお墓は壊さないで」
「別に、考え事してただけだ」
「壊すなら僕にして」
「おい、そういう誤解を招くこと言わない方がいいぞ。もうそんな力もないし」
こいつはどうしてこう、すぐにこちらの情緒をぶん殴るような事を言うんだろう。そういうところが昔から変わっていない。
「大体、何だ?あの『会いたかった』って。やめろ、俺に気があるのかってまた勘違いするだろうが」
「いやまあ、気持ちはわかるけど。でも相手の行動に対して『自分は相手が好き』って思うのはいいけど、『相手は自分が好き』って思うのは認知の歪みだってグウェンが前に」「あああああもう、喋るな。あっちへ行ってくれ、選ばれし民め」
しっしっ、と虫のように追い払うと、青年はまだ帰らないぞ、と口を尖らせた。
「なんなんだよ、案外頑固だな。うるさいし、気に入った場所に固執するし。追っ払っても戻ってくるところが本当に虫っぽい」
「やかましくして悪いけど、君と話したくて」
「何でだよ。こっちでの縁は俺が死んだ時に終わってる。あっちでの縁はお前らが勝った時に終わってる。なんで俺に構う?」
「分かんないよ。単に会いたかったんだ」
迷惑ならもう来ないから、これ飲み終わるまで一緒にいて。パックのジュースにストローを挿しながら、青年がまたそういうことを言う。認知の歪み、認知の歪みとさっき言われた言葉を頭の中で繰り返す。
「それで?また御高説でも垂れてくれるのか?」
「うう、違うよ……昨日はちょっとテンション上がっちゃって、先走りすぎちゃって。ほんとにごめん」
「バックパックから、難民申請のパンフ見えてるぞ」
「うわ」
これは違くて、念のためっていうか。そんな言い訳を騒がしく述べながら、青年がバックパックのファスナーを無理に引き上げる。案の定、安物の金具はパキンと音を立てて崩壊し、代わりにあああ、と情けない悲鳴が響く。どうやら、今日も引き続き先走っているらしい。
「ううう……」
「お前、マスク取るとそんなキャラなんだな……」
「君の理想をことごとく壊して申し訳ないけど、こんな奴だよ……」
くたびれたバックパックを抱きしめて、青年が項垂れた。その弱々しく下げられた眉を見ながら、俺は大きく溜息を吐く。
「あのな、言っとくけど」
「うん?」
「別に、グリーンカードの新規取得なんて目指さなくていい。単に死亡届を取り消せばいいだけだよ」
「あ、そうか。そうだよね」
「ただ、死んでからもう何年も経ってる。今更生きてましたなんて言ったって、誰も簡単には信じちゃくれないさ」
「うーん、そうだね……でもDNA鑑定とかもあるし、」
「どこに行けば、俺が電気ウナギの親戚だってバレずに検査できる?それでなくても、居なかった間のことは根掘り葉掘り訊かれるぞ」
バレたら実験動物として飼われるか、エレクトロとして刑務所送りになるか。もしくは、その両方かもしれない。今も俺はあの時のことはある程度正当防衛だったと思っちゃいるけれど、世間はそうは思わないだろう。
「うー……病院はなぁ……僕もたまに困るけど……」
「それに、万が一届出がうまくいったとして、それからどうする?またオズコープで働けるわけでもないだろ」
「それは……いや、うん、でも、君が生きてたって聞いたら喜ぶ人とか……あの」
「母親がまだ生きてるかどうかは知らないが、多分あの人にとっちゃ俺は生きてない方がいい」
「え?」
「保険金が下りてる」
あの母のために掛けさせられた、それなりに大きな額が。生きているなら返さなきゃいけないが、手付かずで残っているとは考えにくい。それどころかうちの親なら絶対に、数年も保たず全部使い込むだろう。賭けてもいい。
「だからな、俺の未来は刑務所でラットになるか、借金と面倒な親を抱えて路頭に迷うかどっちかなんだよ。それなら、ここでダラダラ寝て過ごす方がまだ平和だろ」
「…………でも、ここじゃ夏や冬は越せないよ。あんまり長くいると、面倒ごとにも巻き込まれやすいし」
「別にいいさ、なんでも。俺を締め出した社会に、今更拾って頂くよりはマシだよ」
黙り込んでしまった青年を横目で見ながら、パックのジュースを啜る。腹は減っているのに、居心地の悪さであまり味がしなかった。
そう、もうこの世に、居心地のいい場所なんかない。俺が横になって眠っても、誰からも許される場所はもう存在しない。「ふつう」から転がり落ちると、生きているだけが果てしなく難しい。「ここが底だ」と何度思っても、それより深い場所はいくらでもある。埋もれて動けなくなっていく。
そして、降り積もる砂や泥を掻き分けて、あらゆる危険や困難や面倒を乗り越えてまで、欲しいものも行きたい場所も会いたい人も、俺にはもうないのだ。
「だからいい加減、………………いや何してるんだお前」
「別に」
「全然別にじゃないだろ……痛っ!」
静かになったと思っていた青年が、突然俺の肩口にぐりぐりと頭を押し付け始めた。雨の日の犬のような強烈なドリル。くしゃくしゃの髪が頬にちくちくと刺さる。
「痛、イタタタ、ちょっ、お前、やめ!」
「……居てくれないと困るんだ」
「えっ」
ようやく回転を止めた頭はそれでも俺の肩にくっついたままで、狼狽する俺に向かって、居なくなったら困るんだ、と繰り返した。
「困るよ。だって、君は僕の目で耳だろ。僕にもNYにも必要なんだ」
「前もそう言って、俺の名前も忘れてたくせに」
「そうだよ。だからだよ!僕はいつもこんなので、何にも上手くいかなくて、誰のことも取りこぼしてばっかりだ。僕だけで何とかするには、この街は広すぎる」
「…………」
「君が必要なんだよ、マックス……」
か細い声が、いつぶりか分からない他人の体温が、ちくちくとくすぐったい髪が、俺の胸の内側を甘く引っ掻く。やめろよ、と小さく呟いた声は彼と同じくらいに弱々しかった。
──やめろよ。もう俺には必要ないんだ。自尊心とか、欲とか慈悲とか使命感とか、希望とか。
「まるで、無宿状態の人間はお前の役には立たないって口振りだな」
「そうじゃない。違うよ。君がどうやって生きるかなんて問題じゃない。君に生きる気がないのが困るんだ。その方が君にとって幸せだったとしても」
「死んでなきゃいいのか?また俺が敵になっても?」
「当たり前だろ。敵だろうとなんだろうと、いないよりいる方がいいに決まってる」
絶対に、と青年が俺の腕を掴む。情けなく項垂れたまま、弱々しい声。でもその手の力は痛いほど強くて、やっぱりこいつはスパイダーマンなんだ、と思った。
「ねえ頼むよ、マックス……」
「やめろってば。勘違いするって言っただろ」
「別にいいよ、好きにしなよ」
「良くない。一応自覚してるけど、俺はかなり強火のファンなんだぞ。俺とお前の合成ツーショットを作って貼るぞ、街中に」
「それちょっと見てみたいな」
青年がクスッと笑う。冗談で言っているわけじゃない。昔、自分の家では似たようなことをしていた。あれはどうなっただろう。そのまま色褪せているか、清掃業者にでも処分されたか。今はもう存在しないだろうあの小さな虚構の世界は、それでもあの頃の俺の唯一の希望だった。ああ、やっぱり碌なもんじゃないな、希望なんか。こんなの麻薬とどう違う?
そう思っていたら、青年は壊れたバックパックを漁り、中から古びたカメラを取り出した。
「笑って!」
「えっ?」
突然のフラッシュとシャッター音。呆気にとられているうちに、目の前のカメラからジジジと音を立てて、へにゃっと笑う青年と、驚きに変顔になった俺がプリントされる。
「どう?これで合成する手間が省けただろ」
「………スパイダーマン姿じゃなきゃ、意味なくないか?これじゃただの浮かれたカップルだ」
「あっ!」
どうしようこれ最後の一枚なんだ、新しいフィルムは給料日後に買おうと思ってて、と青年が慌てふためく。その顔はあまりに間抜けでおかしくて、思わず吹き出した。何だか毒気が抜けていく。
──ああ、捕まってしまった。こいつはいつもこうやって、俺を安住の地から追い出してしまう。
「え、ちょ、笑いすぎでしょ……」
「なあそれ、貰っていいか?」
「え?あ、うん」
これでいいの?と手渡された写真の中の俺はずいぶんと荒んだ雰囲気で、笑いもせずどろんと暗い胡乱な目をしていた。対する青年の顔も何だか締まりがなくて、憧れていたスパイダーマンとは全然違う──でも、いい写真だと思った。これ一枚で、根の生えていたベンチから立ちあがろうと思えるくらいには。
「マックス?」
「……ここから一番近いシェルター、どこだ?チャイナタウン?遠いな」
バックパックからはみ出していた、この街のシェルターマップをひょいと手に取る。青年がぱあっと明るい顔で俺を見上げた。
「ウェブで送ろうか?」
「いやいい、歩いていける」
「そっか」
「なあ。次は、スパイディ姿で頼むよ」
「もちろん。ええっと待って、連絡先を」
「それは遠慮しとく。迷惑なファンになるつもりはないからな。……いや無かったんだ、本当に」
「うん、分かってる」
「どうにかしてこの街に居続ければ、いつかまた会えるだろ?」
「……うん、絶対に」
ジュースご馳走さま、と言い残して歩き出す。これ以上ずるずると一緒にいたら、どうなるか分からない。なんせ、たったジュース一本で、欲しいものも居たい場所も会いたい相手も与えてしまうような奴なのだ。この街に縛り付けられることを対価に。まるで麻薬みたいな俺のヒーロー。俺の希望。
「見掛けたら手を振るよ!」
大きな声が、俺の背に向かって飛んでくる。振り返ると、彼は犬の尾のようにぶんぶんと腕を振り回していた。何度も。じゃあな、と俺も小さく振り返す。そしてまた歩き出す。
例の彼女の墓のそばで、洗濯したみたいに白い雲の隣、遠くの電光掲示板が目に入った──天気は晴れ。気温は例年並み。日付は俺の誕生日だった。