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    mikan_jailbird

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    mikan_jailbird

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    ※おせいお # 72より後
    💚の自我の欠片を全部拾い集めたい強欲な💙と、ちょっとだけ💙に心を許す💚の話。💙が妄想強め
    💙の前で泣き出す💚と、それを見てあわあわする💙が書きたかっただけなので、そこに至るまではイントロだと思ってください。イントロ6500文字あるけど。

    光について 下駄箱の上に観葉植物が置いてあることに湊大瀬が気付いたのは、一週間ぶりの外出から帰宅し、玄関の扉を開けたときだった。素足に履いたムートンブーツを脱ぐ手を止め、手のひらに収まるほどのシンプルな植木鉢を見つめる。植わっているのは小さなサボテンだった。キウイフルーツのような楕円形の球体の周りに、細く白い棘がタンポポの綿毛のようにびっしりと生えている。
     誰が置いたのだろう。一週間前にはなかったはずだ。
    「あれ、大瀬さんだ。お出かけ?」
    「ひぇっ」
     いきなり声をかけられ、気色の悪い声が出てしまう。振り向くと、同居人の一人――本橋依央利が、薄い唇に笑みを浮かべて立っていた。
    「どこ行くの? 買い物だったら僕が代わりに行くけど」
     大瀬は犬のごとく、ぶるぶると首を振った。依央利は大瀬の顔色を観察するように眺め、ややあって、大瀬の手に持つ薄手のビニール袋へと視線を向ける。絵を描く途中で切らしてしまい、画材店で急遽買ってきた緑色の絵の具が二本、中には入っている。
    「ああ、帰ってきたところか。お帰りなさぁい」
     邪気のない笑顔だった。厄介な人に見つかってしまったな、と思った。どうせこの後、「洗濯物出して」だの、「温かい飲み物いる?」だの、世話を焼くにも値しないクソに向かって、懲りずに奉仕の押し売りをしてくるに違いない。ここは取り合わず、さっさと退散するが吉。そう思い、脱いだブーツを揃えて下駄箱の前に置いたところで、視界の隅にふと何かが見えた。
     依央利の手に握られている、透明なガラス容器。三角フラスコのような形のボトルの中は水で満たされ、くすんだレトロ調の真鍮の蓋から、同じようにくすんだ色合いの細長いポンプとノズルが伸びている。
    「霧吹き?」
    「そう。それに水あげるの」
     依央利は頷き、下駄箱の上のサボテンに視線を投げた。
    「これ、いおくんが置いたの?」
    「そうだけど」
     大瀬は瞠目する。意外だった。こういうもの――“眺めて楽しむ”ことを主目的とする、ある種の美術品に近しいようなものに、関心を持つ人ではないと思っていたから。
     その物思いが顔に出ていたのか、依央利は大瀬の表情を一瞥すると、言い訳をするように口を開いた。
    「断ったよ、何度も。でも相手は普通の一般の人だよ? 頑なに受け取らないのも変でしょ」
     売れ残って困ってるとも言ってたし。そう付け加え、依央利は続けた。純然たる社会不適合者の自分とは違い、彼は近所の商店街という外のコミュニティにおいて、つかず離れずの良好な人間関係を築いているらしい。そこで顔なじみとなった花屋のご婦人から、鉢植えと霧吹きがセットになったギフト向けの商品を貰ったとのことだった。
    「貰ったんじゃなくて、大事に育ててねって命令されたの」
    「違うと思う」
     大瀬がつっこむと、
    「命令されたらそれに従うのが、奴隷の務めだよね」
     発言そのものをなかったこととし、依央利は霧吹きをサボテンへと向け、ポンプを押した。
     シュッ、というみずみずしい音とともに、植木鉢いっぱいに恵みの雨が降り注ぐ。乾いた土は水を吸って色濃く染まり、白い棘の表面に付着した無数の水滴が、奉仕を受けたことを誇らしく思うようにきらきらと輝いた。
    (きれい)
     思わず見とれる。大瀬は手を伸ばし、指先で表面の棘にそっと触れた。鋭利に見えて思いのほか柔らかく、痛いというよりもこそばゆいような刺激に、頬が緩む。
    「大瀬さん好きだよね、こういうの。庭の花壇の前にも、よくいるもんね」
    「ごめんなさい。いおくんが咲かせた綺麗な花たちの前に、クソゴミの醜い姿を晒して」
    「誰もそんなこと言ってないじゃん。めんどくさっ」
     言いながら依央利はもう一度ポンプを押し、「上手に世話すれば、花が咲くんだってさ」と、花屋のご婦人の受け売りであろう言葉を添えた。薄桃色の短い爪の先をぼんやりと眺めながら、細い指だな、と大瀬は思う。「白い花が、冠みたいにぐるっと一周咲くんだって」
     依央利の人差し指が丸いサボテンの周りを旋回するように、ぐるりと一周した。その華奢な指先が、白く可憐な花冠に触れるところを、想像する。
    「楽しみだね」
     無意識のうちに、声に出していた。
     依央利はゆっくりと大瀬に顔を向けた。目と目が合って直感的に思ったことは、彼はきっと花を咲かすだろう、ということだった。いま自分が迂闊にも放ってしまった一言を拾い上げ、サボテンの生態やら世話の方法やらを調べつくし、教科書通りに花を咲かせる。それを待つ誰か――つまりは大瀬や、大瀬と同じく花咲くときを待ちわびる、他の住人たちのためだけに。
    (いおくんは、いつもそうだ)
     胸の中に、もやもやとしたものが広がる。依央利という人間の在り方について思いを巡らすたび、大瀬の中には灰色の雲のようなものが重苦しく立ち込めるのだ。それはいつも大瀬の心臓を強く圧迫し、心の柔らかい部分をちくちくと刺して傷をつける。そしてそんなふうに勝手に苦しみ、傷いている自分に、また嫌気がさす。
     大瀬の葛藤をよそに、依央利はふわっと表情を緩めた。慈しむような柔和な視線が、植木鉢に息づく小さな植物へとそそがれる。
    「うん、……そうだね」
     その瞬間。大瀬の目の前で、何かがフラッシュのようにちかりと瞬いた。
    (何だ、今の)
     目を見開く。まばたきを繰り返し、意味もなく周囲をきょろきょろと眺める。
     咄嗟に思い出したのは、サンキャッチャーという、窓辺に吊るすインテリアのことだった。多角形にカットされたクリスタルガラスのそれは、太陽光に当たると反射してきらきらと輝き、たくさんの小さな虹を生み出す。依央利から放たれたと思われるたった一瞬の閃光は、太陽を閉じ込めたようなその煌めきによく似ていた。
     けれど窓のないエントランスに、陽が差し込むわけもない。幻覚だろうか。視界に残る僅かな残像を追いかけるように、目を閉じる。
     すると唐突に、瞼の裏に蘇る映像があった。
     忘れもしない。数ヶ月前の、夏祭りの夜の風景だ。
     喧騒のなかにぼんやりと浮かぶ出店の灯り。物寂しくも華やかなその光に照らされるように、依央利がまっすぐ佇んでいる。帯に挟んだ大きな団扇。大瀬の下駄の足元を見下ろす、困ったような愛想笑い。――彼の黒い瞳に映り込んだ真っ赤なりんご飴が、どんなに派手な打ち上げ花火よりも、美しく輝いていたこと。
    「……せさん、大瀬さん」
     肩を叩かれて、はたと我に返る。目を開いた瞬間、視界いっぱいに依央利の顔があったものだから、思わずのけぞった。「どうしたの急に目つむって。何してんの?」
    「な、なんでもない」
     あなたの放った煌めきの正体を探していました、なんて言えるわけがない。
    「ふーん。変なの」
     依央利は怪訝そうに目を細めた。大瀬の顔をじっと覗き込む瞳は輝くどころか、この世の光という光をすべて吸収してしまいそうな漆黒だ。
     幻覚だったのだろうか? ――いいや、そんなはずはない。仄かに熱を持ったまばゆい光が、確かに目の前で爆ぜた。あの煌めきは一体何だったのか。そしてあの、夏祭りの光景は。思考はループする。
    「ところで大瀬さん。外、寒かったよね? 温かい飲み物、欲しいよね?」
     寒くない、と答えようとした矢先、素足で土間に立っていたことを思い出し、冷えを自覚した体が底からふるりと震えてしまった。
    (まずい)
     と、思ったときにはもう遅い。勝ち誇ったようにニヤリと笑う依央利に、すでに手首を掴まれている。
    「待ってて。美味しい紅茶を入れるから」
    「いらない」
    「遠慮しないで」
    「本当にいらない」
    「頑固だな。いいからこっち来なよ」
    「頑固はそっちでしょ」
     押し問答は続く。その棒切れみたいな腕の、どこからそんな力が出るのか不思議なほどの強引さで、リビングへと引っ張られ、気が付けば椅子に座らされている。
     キッチンから漂う焼き菓子の甘い匂いをかいだ瞬間、ぐぅ、と腹の虫が鳴った。
    「体は正直だねぇ」
     依央利は心底嬉しそうに笑った。本当に、どこまでも厄介な人だ。

     ***

     あの日、まとめて買っておくべきだった。
     ――という、したところで何の意味もない後悔をしながら外に出たのは、あれから十日後の昼だった。庭の花壇に盛大に咲き乱れる、白いクリスマスローズの絵なのだ。葉の緑がなくなるのなら、同じくらいの残量だった花の白も近いうちになくなると、何故想像が及ばなかったのか。己の愚鈍さがほとほと嫌になる。
     依央利の前で寒さに体を震わせることのないよう厚手の靴下を履きながら、ふと、下駄箱の上のサボテンのことを考えた。たかが十日。しかも休眠期――生命活動を低下させ、冬の寒さに耐える時期だ。何も変化はないかもしれない。せいぜい、人の目には分からない程度に棘が伸びたとか、茎がわずかに膨れたとか、その程度だろう。それでも様子が気にかかった。そしてその可愛らしい姿かたちを思い描くたび、あの日依央利に見た一瞬の光のことを、大瀬は思い出さざるを得ないのだった。
     階段を下り、周囲に誰もいないことを確認し、エントランスへと向かう。
     そこで目にした光景に、大瀬は少々面食らった。
     なかったのだ。下駄箱の上から、サボテンが植木鉢ごと忽然と姿を消していた。
     にわかに動揺が走る。が、すぐに冷静になった。今日は天気がいいから、日光にでもあたっているのだろう。砂漠地帯が原産のサボテンに、日照は不可欠だ。きっと今頃、サンルームの陽だまりの中でぽかぽかと温もりを享受しているに違いない。陽が沈むころにはこの場所に戻ってきて、変わらぬ姿で大瀬を出迎えてくれるはずだ。
     そうだ。そうに違いない。自分に言い聞かせるようにして、外に出る。
     ところが、数時間後。夜更けに帰宅したときにも植木鉢がそこになかったものだから、大瀬はいよいよ焦りはじめた。
    「なんで……?」
     外に出したまま、しまい忘れているのだろうか。それとも置き場所を変えたか、もしくは、誰かにあげたとか。考えつく理由はいくつもあるが、どれもしっくりこない。
     大瀬は階段の前で立ち止まる。そして一瞬だけ逡巡したのち、台所へと向かった。

    「いおくん」
     依央利は洗い場の前に立ち、こんもりと溜まった皿の一枚一枚に泡を塗りたくっていた。シンクの上をせわしく動く手元に目をやる。冷えきって赤くなった指が握っているのはガラスの霧吹きではなく、食器洗い用のスポンジだ。
     小さな声の呼びかけにもすぐに気づき、依央利は振り向いた。
    「大瀬さん、こんばんは。僕に用事?」
    「あ、えっと」
     声をかけてはみたものの、どう切り出していいのか分からない。「サボテンがなくなってるんだけど」では、責めているように聞こえないだろうか。「どこに置いてあるの?」のほうがいいか。そもそも話題が唐突すぎて、不自然ではなかろうか。
     言葉がなかなか選べず、時間だけが過ぎてゆく。すると、
    「何か頼み事? 何でも言って。洗濯物溜まってるよね。出してくれた? 部屋まで取りに行こうか? あっ、それとも契約書に捺印する気になった?」
     隙をつくようにマシンガントークが始まる。矢継ぎ早に飛んでくる言葉の奔流に押し流され、大瀬は半ば口を滑らすかたちで、依央利に問いかけざるを得なかった。
    「あ、あの、サボテンは元気?」
     一瞬にして、嘘みたいに場が静まり返った。
     依央利は絶句し、目を見開いている。瞳が泳ぐように揺らぎ、それを落ち着かせるように、数度、瞬きをする。その睫毛のしばたたく音まで聞こえてきそうな、見事なまでの沈黙だった。
     ああ、困らせてしまった。慣れ親しんだ後悔の味が、口の中に広がる。
    「ごめん、い、今のは」
     なかったことに、と大瀬が取り下げるより先に、依央利が口を開いた。
    「枯らしちゃった。ごめんね」
    「……。…………え?」
     今度は大瀬が言葉を失う番だった。からしちゃった、と依央利は言っただろうか。からした、とは何のことだ。枯らした、でいいのか。言葉の響きと意味とを頭の中で結びつけるのに、時間が必要だった。
    「根元、っていうのかな。下のほうの部分が変色してしぼんできて、そのままだめにしちゃった。……たぶん、水をあげすぎたんだと思う」
    「あげすぎって、どのくらいあげたの」
     依央利は気まずそうに、目を逸らす。「一日に五回とか、六回とか」
    「えぇ、なんで?」
     典型的な根腐れだ。彼の分析どおり、水のやりすぎによるものだろう。休眠期のサボテンに水はほとんど必要なく、数日に一度、葉を湿らす程度でいいのに。
    「なんで、って」
     声はかすれていた。それきり言葉を詰まらせてしまった依央利の表情がひどく傷ついているように見えて、大瀬は動揺する。そして自分の問いがその顔をさせているのだと気づき、死にたくなった。
     それでも大瀬は「なんで?」と思わずにはいられない。だって大瀬の知る依央利は、誰かの期待に応えることには異常なほどに熱心で、こんな、愚かとも言えるような過ちを犯したりはしない。大瀬の知る依央利とは、他人のためならどんなことでもやって、おせっかいで押し付けがましくて、与えることしか知らなくて――
    (……!)
     はっとした。
     この人は、与えることしか知らない。相手が受け入れようと受け入れまいと、注ぎ込むことしか愛する手段を知らないんだ。
    (そうか)
     あなたは物言わぬ小さな植物のことを、愛おしく思っていた。あなたなりに、精一杯愛していた。
     だから、与えすぎてしまった。
     その考えに行き着いた瞬間、大瀬は目の前が白く光るのを感じた。瞬間的に、胸の奥に火が点る。それは瞬く間に感情の激流となり、頭から足のつま先まで、体中を迸った。
    「ごめんね」
     大瀬の問いにはついぞ答えることなく、依央利は謝罪を重ねた。「サボテンの花、大瀬さんに見せてあげたかったんだけど」
    「違う!!」
     叫んでいた。「違うよ! じぶんじゃなくて」
     小さな命を慈しみ、健やかな成長を祈り、花開く日を心待ちにしていたのは、他でもないあなた自身だ。いつも他人の顔色ばかり見ているあなたが夏祭りの夜、夜店に輝くりんご飴だけを瞳いっぱいに映していたように、あの日、植木鉢を見下ろす柔らかな眼差しに映っていたのは、まだ見ぬ白い花冠だったんじゃないのか。
    「花を見たかったのは、いおくんの方でしょ」
     黒い瞳が見開かれる。きゅるきゅると音をたてるようにして収縮する瞳孔を、大瀬は食い入るように見つめた。そうして視線が交わった瞬間、目が眩むほどの強い輝きが大瀬の視界を奪った。
    (ああ)
     あの光だ。フラッシュのようなあの白い閃光が、灰色の雲を穿つ。
    「は、はぁぁ!? 何言ってんの!?」
     取り乱しているのは明らかだった。依央利は不安を紛らわすかのように、おそらく無意識に、自分の首に触れた。大瀬はその手元に目をやり、サボテンの周りにくるりと円を描くなめらかな指運びを思い出す。その輪っかの下で日に日に弱っていくサボテンの様相が、大瀬の意思とは無関係に思い浮かばれ、身を裂かれるような心地がした。
    「あの。自分は、サボテンは、いおくんに貰われて幸せだったと思う」
     元気に育ってほしいと思ってたくさん水をあげたんでしょ。その気持ちはきっと伝わってるよ。拙い言葉を必死に紡ぐ。話しながら、胸の奥がかっと熱くなるのを感じた。依央利が小さな植物に雨のように注いだ愛情を、単なる失敗で片付けたくなかった。届いているのだと伝えたかった。僕たちに、そうであるように。
     依央利はしばらく黙っていたが、突如、糸が切れたように笑い出した。
    「……ふっ、ッはは! あはははは! 大瀬さん、面白いこと言うね!」
     乾いた笑い声だった。大瀬に対する嘲笑の体をとろうとしているが、その実、耳元で鳴り響く騒音を必死にかき消そうとしているような、そんな切実さが潜んでいる。大瀬はちっとも笑えなかった。
    「ありがとう。でも勘違いしないで。花が見たいとか、そういうのないから。奴隷失格だなと思って反省はしてる。でも、それだけ」
     ひとしきり笑い終えると、依央利は乱れた呼吸を整えるように大きく息をついた。その瞬間、細めた目尻から涙が一粒零れ落ちる。大瀬は一瞬ぎょっとするが、すぐに、笑いすぎて滲んでしまった生理的な涙だろうと思い至った。依央利本人もそう思ったらしく、けろっとした顔で「涙出てきちゃった」と言いながら、またくすくすと笑い、濡れた頬を手の甲で擦った。
     ところが涙は止まることなく、拭ったそばから一粒、また一粒と溢れ、流れてゆく。
    「……んあ? なにこれ」
     瞬きをするたびに、ぽろり、ぽろりと透明な雫が両目から落ち、なめらかな頬にいくつも軌跡を残す。依央利はきょとんと目を丸くする。自分の身に何が起こっているのか、まるで分からないという表情だった。
     大瀬は動けなかった。
     ごくりと唾を呑む。息をするのも忘れ、依央利の流す涙の一粒一粒に釘付けになり、ただ見入る。
     綺麗だった。あまりにも。
     大瀬の目にはそれが、サボテンの棘の上で光る水滴よりも、太陽の光を反射するクリスタルガラスよりも、何十倍も美しく煌めいて見える。下睫毛の隙間から零れ落ちる瞬間の、刹那の輝きには、どんなに貴重な宝石にも勝るような、計り知れない価値があるように思えた。
     床に落として壊れてしまうのが、もったいない。そうとさえ思う。
    「……っ」
     ふいに依央利が口元を抑え、上を向いた。直後、ずず、と鼻をすする湿った音が耳に届く。
     その途端、我に返ったように、大瀬の心臓は激しく脈打ちはじめた。焦燥感が胃からせり上がり、手がわなわなと、小刻みに震える。
     どうしよう。泣かせてしまった。
     いったい何をしでかしてしまったのだ、このクソは。何か傷つけるようなことを言っただろうか。心当たりはないようで、思い返してみればいくつもある。いや待て。失言とかそういう以前に、自分の存在そのものが泣くほど不愉快なんじゃないか。だとしたら今すぐ、この場から退散すべきだ。しかし、泣いている依央利を残していなくなるのも、それはそれで気が引ける。
     どうしよう。消えようか。残ろうか。逡巡していると、真っ赤に充血して濡れた瞳と、ばちっと視線がぶつかった。
     その瞬間、「ひっ」と引きつるような声を上げ、依央利がくしゃりと顔を歪ませた。下瞼のふちからせり上がるように新たな涙が溢れ出し、呼吸を詰まらせて、ついにはしゃくりあげ始める。
    「うぇっ!? なっ、え、ど、どうしたの?」
     今日何度目かの「なんで?」が、大瀬の頭の中を駆けめぐる。どうしよう。ズボンのポケットを上から叩く。買い物袋の中を漁る。いくら探しても、涙を拭うものなんて何一つ持っていなかった。いや、持っていたところで、クソゴミカスのハンカチなんかで目元を拭われるのは嫌だろう。依央利の目まで腐ってしまう。
     どうしよう。どうしよう。
     頭の中でぐるぐると渦が巻く。次第に、自分の目尻まで熱くなってくるのを感じた。貰い泣きというやつだろうか。こんなときまで貰ってばかりなのか、この役立たずは。
    「なんなの。とまんない。っ……みないでよ、……」
     依央利は俯き、勝手口に向かってふらりと歩き出した。一人になろうとしている。いいのか、と自分の中の誰かが尋ねてくる。だって一人になったらこの人は、何もしないんだろう。こんな風に体の外に溢れてしまうほどの激情を、何にぶつけるでもなく、誰に預けることもなく、どうすることもできずに一人で抱え込んでしまう。
     いいのか?
     ――だめだ。だめだ! 衝動が大瀬を突き動かす。
    「いおくんっ!」
     キッチンへと走る。こんなに短い距離でも縺れそうになる情けない足をどうにか前に進め、立ちすくむ依央利のほうへと両手を伸ばす。そして勢いに任せ、細い体に正面から飛びつき、ぎゅっと抱き留めた。
    「な、泣かないで」
     とんでもないことをしていると気がつくまでに、そう時間はかからなかった。
     うわ何やってんだ湊大瀬。ドン引きだよ。見ないで、ってこういうことじゃないだろ。自分のような生ゴミに抱きしめられるなんて地獄でしょ。ゲボでしょ。ないわー。マジでない。すぐ抵抗されて、突き飛ばされるに決まってる。突き飛ばされたらそのまま部屋に戻って、首吊って死のう。
     そう思っていたのに、待てども待てども依央利が動く気配はない。驚きで涙が引っ込んだのか、嗚咽も止んで、大瀬の腕の中でじっと固まっている。もしやショック死でもしてるのではないか。胸のところで重なった鼓動を確かめる。自分のほうが何倍も速いだろうと思っていたそれは、大瀬とほとんど同じ速度でとくとくとリズムを刻んでいた。
    「えっと、……大丈夫?」
     大丈夫って何が? 自分で聞いておいて分からない。とにかく何でもいいから、何か反応が欲しかった。依央利はこくんと頷く。そして大瀬のほうへとわずかに体重を預け、肩口に顔をうずめると、思い出したかのようにすすり泣きを始めてしまった。
    (大丈夫じゃないじゃん)
     喘ぐような浅い呼吸が、耳元で何度も繰り返される。苦しそうだ。どうしよう。どうにかしてあげたい。大瀬は意を決し、依央利の腰に回していた手を背中に持っていき、ゆっくりと上下に撫でた。体は熱く、血流と感情が巡っている。そしてこの巡る感情を、依央利本人も上手く扱いきれていないのだろうと思った。手のひらに全ての神経を集中させ、祈りをこめる。心も体も、どうか少しでも楽になりますように。
     しばらくすると、肩口がひんやりと濡れてきた。あやすように依央利の背中を撫でながら、大瀬はふと天を仰ぎ、リビングを白く照らすドーム状の照明を、ぼんやりと眺める。それからあの透き通った涙の美しさを思い返し、その全てがいま、余すことなく自分の肩に染み入っているという事実に思いを巡らせ、噛み締めた。
     胸の奥からふつふつと沸いてきたのは、滲むような充足感だった。そして大瀬は、ある欲望の存在に気づく。
     欲しいのだ。依央利が知らず知らずのうちに放つまばゆさや、指の隙間から落とした煌めきの欠片を、少しでも多く拾い集めたい。色とりどりのそれらを拾い集めて、透明なガラスの瓶に詰めて、窓際に置いて眺めたい。
     そしていつか時がきたら、依央利にも見せてあげたい。西日を乱反射して生まれたいくつもの虹を見て、「こんなの集めて、馬鹿なの?」って笑ってくれたら、本望だ。
    「おおせさん」
     ぐずぐずの涙声で名前を呼ばれ、どくんと心臓が跳ねた。「なに」と答えると、依央利はむずかるように、軽く身をよじる。濃紺の髪に首筋をくすぐられ、その仕草がなんだか甘えているかのように見え、すると今更になって、ぴたりと密着した依央利の体温や匂いを意識してしまい、急激に顔に血が上る。
    「心臓、うるさいんだけど」
    「! あ、ご、ごめんっ!!」
     慌てて依央利の体を突き放す。突き放してから、しまった、と思う。これじゃ拒絶したみたいだ。だけどもう一度抱きしめ直すのも、かえって不自然、ていうか、嫌だよな。
     どうしよう。足りない頭で考えても答えは出なくて、大瀬は縋るように依央利の顔を見る。依央利はべしょべしょの顔で少しだけ笑って、氷が溶けるみたいに、潤んだ瞳から涙を落とした。
    (きれいだ)
     何度見ても思う。その煌めきに触れたくて、拾い上げたくて、大瀬は赤く火照る頬へと、欲深い手を伸ばした。
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