更紗琉金の行方自邸の風呂釜が壊れた。
元より隙間風の風情だったが、いよいよ幽霊屋敷も目前か、などと冗談でもないことを思いながら帰路に着く。
今朝方、倅を叩き起こして朝飯を食わせてやりながら、今晩は銭湯だぞと伝えていたが、果たしてちゃんと覚えているやら。
ジワジワ名残の蝉の声。嗚呼、何故に壊れたか風呂釜よ。背中にペタリ張りつくシャツが鬱陶しく、手で顔を仰ぎ仰ぎ歩く。
「ただいまー」
軋む引き戸を開けて、奥に向かって声をかける。
応(いら)えはない。
「帰ってないのか?おーい、キタロー」
玄関にはちょっと不恰好に揃えられた下駄が置いてある。その隣にいつもの履き潰したスニーカー。
靴はあるのに……。
不思議に思って、薄暗がりの廊下を進む。斜陽がフローリングにオレンジを落とす。夕暮れが迫っていた。
「帰ったぞー。お、」
居間の窓辺にゲタ吉の白い頭を見つける。
窓の縁(ふち)に右肘をついて、そのまま掌で頬を支えて、コックリコックリ船を漕いでいた。ガクンと肘が落ちれば体勢を崩しそうな、危うい姿勢である。
少し開いた窓の向こうから夕涼みの風が入り込み、ゲタ吉の髪を撫でた。濡れているのか、常より重みを含んでいる。
窓ガラスは古いものだがデザインガラスになっていて、「夜空」という模様。それがオレンジから紫に染まる空に映えて、ゲタ吉の髪とコントラストになっていた。
「……器用に寝ているもんだ」
仰いで涼んでいただろう、寺の名前が書かれた団扇を放り出し、水木が寝巻きにしている濃紺の浴衣を適当に着ている。暑いからか襟がグイと抜かれ、頸(うなじ)にツ、と汗が伝っていた。当然、前側も大きく乱れ、青い影を落とす鎖骨が剥き出しになっている。
昨晩の艶姿を思い出し、何とも無防備で結構なことだと、汗ばむ肌をジッと見てしまっていたが。
——更紗琉金が泳いでいる。
紺色の浴衣に隠れていたのが、スイと泳ぎ出てきて。文字通りゲタ吉の真白い肌に朱をさすように、雅な金魚がゆったりと尾を広げている。
「……は、」
心臓がドンと鳴った。
ドクドク血が巡る、自分の身体の中の音しか聴こえない。ヤケに脳に響く音である。
金魚はゲタ吉の鎖骨を飛び越えるように跳ねた。ように見えた。
ふわふわ尾鰭を踊らせ、首筋を辿って上へ。口元に紅(べに)を差し、目元に朱を差し。月白を赤く彩ってゆく。
その時、ゲタ吉の微妙なバランスでもって保たれていた寝姿勢が崩れた。肘が縁から落っこちたのである。
「ンガ」
何とも色気のない声が漏れ出る。
それでハッと正気が戻って、魅入られていたな、と客観的に思えたのだ。
あの、だらしなくてどうしようもないかわゆい倅が、なにだか柳の美貌を纏った幽玄に思える姿だった。霧の立ち込める、朝方の夢のような男。どうしようもなく手が届きそうにもない存在に思えて、水木の背に暑さからではない汗がジワリと伝った。
ゲタ吉は急に落ちた頭にビックリした様子で何度かパチパチ瞬いていたが、ややあって、とろんとした右目を此方(こちら)へ向ける。やはりとろとろと微睡むような声音で言った。
「ア、水木さん。お戻りですか。おかえりなさい」
「あ、ああ……ただいま。髪、濡れたままにしてたんじゃ風邪ひくぞ」
「滅多なことじゃ病気なんかしませんよ」
ゲタ吉は眉を寄せて目を眇(すが)めてゲタゲタ笑った。彼はご冗談を!みたいに笑う時の効果音がこうなのだ。「笑み」の形に作った顔から殆ど動かすことなく、背後に「ゲタゲタ」を背負って笑う。
水木は、肌を泳ぐ金魚などまるで気にしていないように、平生(へいぜい)のように話すゲタ吉に、努めて同じ態度で話そうとした。
突飛なことは日常茶飯事である。
変に騒ぎ立てて、この子がこのような姿を見せることを躊躇うようになってしまったら、と思うとゾッとするのだった。
「その、金魚」
「あ、はい。かわゆいでショ」
「ああ、ウン。綺麗だな。どうしたんだ、ソレ」
「入れ墨禁止の銭湯が増えちまったもんだから、人目につかない内にと思って早めに行ってきたンです。暑くて水風呂に入ったもんだから。この子がはしゃいじゃって、身体のあちこちを沢山泳いでて」
「そうか。なんだ、彫り物したのか」
「いいえ、ちょっと宿を貸してるだけです。数日も経てば満足して、別の場所へ移ってゆくでしょう」
「そういうものか」
「はい」
ゲタ吉は瞼を閉じて唇をムイと突き出す、いつもの気の抜けた表情で話す。
妖怪社会の常識などまだまだ知り得るところではないが、水木は努めて冷静に、凪いで見える表情でウンウン聴いてやった。
応酬の合間にも、自分ごとだというのに更紗琉金は我関せず。優雅にゲタ吉の左目の方へと泳いでいく。
「コラ。そっちは父さんのだ。眠ってるから行かない約束だろ」
ゲタ吉が嗜める声音で言った。
言語を解しているのか、金魚は方向を変えて、またゆうゆうと泳ぎ出す。我が物顔でその肌を暴いてゆく。
それが何とも耽美な光景なのに反して、水木は胃の腑辺りがチリリとしたように感じた。熱いものを無理に直接流し込まれたような、そんな感覚。そしてその熱さは、己ではどうにも冷ますことなどできない。
つまり嫉妬であった。
「……そんな目で見なくったって、あとは全部水木さんのですヨ」
薄い瞼を伏せた囁きに、ギクリと髪の生え際から汗が滲んだ。
ゲタ吉は短くて黒黒しい睫毛を上向かせて視線を合わせると、ふと仄かに微笑んだ。この子が人外じみたことをする度に焦る己の気持ちを見透かしているような。だが情の交じった瞳。
「嗚呼。俺も、全部お前のだ」
その目を見ていると、どうしようもなく安堵してしまう。許された気になるのだ。手放しがたく思って仕方がないのだ。
可愛いお前。人の社会で生きる、人ではないお前。その苦しみが分かっていながら、それでも。
「なァ、妖怪たちの住む森ってヤツに引っ越すか」
「……あんまり人を入れちゃいけないんです」
だから、いつかネ。
ゲタ吉は今度こそニコ!と笑って見せると、水木に甘え掛かるように紫煙の染み付いたシャツに鼻を寄せた。少し湿ったゲタ吉の髪からはシャンプーの人工的な花の香りがする。
更紗琉金はゲタ吉の頸のあたりを旋回すると、濃紺の浴衣の影へと隠れるように泳いで行った。