つなぎの思い出 扉を開けて姿を現した志保に。降谷は目をパチクリとさせた。
「……なかなか気合い入ってるね」
「当然でしょ。引っ越しは動きやすさを重視しなきゃ。あと怪我をしない為に」
そしてかっちりと手袋をはめた手のひらを見せてくる。発想が実験時の白衣と一緒なのだろうか。志保は、身体中を覆うような作業用のつなぎを着ていた。
いつもきっちりとした格好をしている彼女を思うとそのギャップに驚かされるが、何故だろう、至ってシンプルなつなぎなのに、志保が着ているとどうも可愛く見えて、降谷は首を傾げた。
少々ダボッとしているのも愛らしい。身体は覆われているのに、いつもは下ろされている髪が無造作に一括りにされていることによって、普段目にすることのない首筋が見え隠れするのにも、ドキッとする。
いやいや、何を考えているんだと、仕事帰りに寄った降谷は部屋に上がると、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めてシャツの袖を捲った。するとぼんやりとこっちを見ている志保と目があって、再びその瞳を瞬かせる。志保が慌てたように顔を逸らし、上ずった声を出した。
「わ、悪かったわね。仕事終わりに」
「いや。こっちの都合で来てもらうようなものだから。何をしようか」
志保がこの、自宅兼仕事場から、引っ越すことになったのは。降谷及び警察からの仕事依頼が増え、この移動距離すら煩わしくなったからだった。どうせいずれはもっと都心部に拠点を移すつもりだったから、と言う志保に、せめて引っ越し作業を手伝わせてくれ、と言い出したのは降谷だ。
「そうね。情報機器に関しては梱包はプロに任せるし。やっぱり書籍類かしら。かたっぱしに入れてもらっていいから、お願いできる?」
「了解」
偏見もあるかもしれないが、こんな時男は電気系統の接続などで頼りにされるようなイメージがあるが。彼女に於いて、それは無い。プロ顔負けというか、システムに関しては最早プロか。手袋をはめた手を器用に使って、複雑な回線を扱い、場合によっては分解まで行っている。
そうか、あの手袋は制電用か。真剣に行っている姿は頼もしく、何ともかっこいい。そんなことを思い苦笑すると、降谷は自分に与えられた仕事へと向き合った。爆弾解体には定評のある降谷も(例えが過激)、この場面では形無しだ。でもまあ、力仕事は任せてもらおう。
どんどん詰め込んでいいと言われているので、分厚い辞典から論文集まで、本棚から取り出しては箱に揃えて入れていく。両手いっぱい抱えて出しては丁寧に詰める、そんな降谷の様子に目を向けた志保が、しばらく見つめた後、ボソリと言った。
「…重たいのに無理しなくていいし……もっと雑に扱ってもいいのよ?」
「え、何で。志保さんの大事な本だし仕事の結晶だろう。大切に運ばないと」
積み重ねて持つ姿は大事に運んでいるか微妙だが、決してバランスは崩さないし、箱に詰める時は間違いなく慎重に扱って詰めている。真剣な降谷に志保は頬を少々赤くすると、自分の作業へと再び集中した。
本棚の物は盾など表彰の類いも含めて梱包し終わり、降谷が志保の方へと目を向けると。まず視界に入ったのは、踏み台の上で揺れるつなぎの足元だった。
何をやってるんだ、と見ると天井近くにあるルーターを取ろうとしているらしい。それこそ専門家に任せればいいのに、と思いつつまず危なっかしい志保の様子に焦る。二段のそれなりに高い踏み台に乗ってさらに爪先立ちをしている志保に、何故自分に頼まないんだと焦れる気持ちもあるが、そもそも人に頼るのが苦手な子だった。気づいてやれなかった自分の問題だと反省しながら、降谷はまず踏み台を支える。
「志保さん。代わるよ」
「あ、ありがとう。でも大丈夫。あとちょっとだから…」
よっぽど手元に集中しているらしい様子の志保に、本当に危ないな、と降谷は眉を顰める。高所での作業はいくら踏み台ぐらいの高さとはいえど、決して油断してはならない。大怪我にもつながるし、場合によってはそれじゃ済まないこともあるのだ。
もしもの為にと彼女を見上げて、踏み台を押さえる手にも力を込める。そこでふと、自分の視界に映る彼女の姿が気になった。つなぎ姿だからいいものの、これ下手をするととんでもないアングルなのではないか。いや、この為のつなぎか。さすがだな。いやいや。
無防備なのか用心深いのか、諭せばいいのか、褒めればいいのか。そんなことを思っていたからか、きゃっ…、と志保が小さな叫びを上げて身体をよろめかせた時、一瞬反応が遅れてしまった。
それでもすぐさま、腕を広げて彼女を受け止める。段差から足を滑らせることにより、そこに志保が足をぶつけるのも怖くて、抱き止めるとそのまま後ろへと重心を傾けた。結果降谷が尻もちをつく形にはなったが、志保のことは胸でしっかりと支えることができた。
「……大丈夫?」
胸に顔を埋めて固まっている志保に声をかける。冷静な声は出たが、降谷の頭の中は大騒ぎで大渋滞を起こしていた。危ない、気をつけてほしい、その心配が一番だが、胸と右腕で抱き止めている志保の華奢で柔らかな感覚にも思考が持っていかれる。守れて良かったと、安心するとともにこのまま手放したくない気にもなってしまう。
志保もしばらく動かずそのままになっていたが、顔を上げないまま「…ありがとう、」と言った。
「…気をつけて。危ないだろ」
ようやく降谷からも次の一言が出たが。本当は怒ってもやりたい気持ちだったのに、出た声はやけに優しいものだった。いや、注意はきちんとせねば、と思い直した気持ちは、次告げられた志保の言葉に霧散する。
「……気をつけていたわ、ちゃんと。でも、思ったより近くにあなたがいたから、動揺しちゃって……」
それはどういう意味だろう。自分と、同じ意味だろうか。そんな風に思うのもいたたまれず、降谷はうろたえながらも、体勢を立て直すと、座って志保をその腕に抱き止めたまま、そっ…とその頭を撫でた。本当に大丈夫か?、というつもりでした行為だが、愛しい気持ちがさらに溢れてまごつく。すると胸の中の志保からクスン、という涙声がしたので、さらに慌てた。
「だ、大丈夫か!?」
少し腕を緩めて志保の顔を覗き込むと。瞳を潤ませ真っ赤になった志保と目が合い、降谷の胸は大きく鼓動を打った。
「…大丈夫……あのね、」
小さく息を整えて話し出した志保の声に。その、少し柔らかく彩られた表情に。くぎ付けになりながら降谷は耳を傾ける。
「私、つなぎにいい思い出なかったの……でも、ある意味これには助けられたんだ、と思って着てみたのよ。動きやすいのは分かっていたし」
…その思い出についていろいろ聞きたいのはやまやまだったが、降谷は抑えた。過去のことを志保が心を許して話してくれているだけでも、貴重なのだ。本当は志保の全てを受けとめたい気持ちはあるが、というか今それを強く思ったが、まずは彼女が綴る思いを、聞きたい。
「…そしたらあなたが…受け止めてくれた。それが嬉しくて。こんなに安心しちゃって。でも、すごくドキドキもして…」
そこまで言ってハッ、とした様子で志保は降谷から離れようとした。だけど降谷はそれを許さず、再度腕に力を込めて抱き寄せる。「ちょっと、」という抗議の声がしたが、いや、これで離すのは無理だろう。
「……もうしばらくこうしていよう」
「な、何でよっ、」
「何でって僕も嬉しいから。それがどうしてなのか考える為にも、必要だ」
降谷のおかしな理屈に志保も黙り込む。理系たる所以か、論理的に考えようとして変なところで絆されるのも、危なっかしくて可愛らしい。きっと降谷の鼓動も伝わっているはずだ。
そう思いつつ、降谷は深く息をつく。ビクリと身を揺らす志保の頭を、遠慮がちにもう一度撫でた。彼女のつなぎの思い出を、少しでも塗り替えられていたらいいな、と思う。
自分にとっては。紛れもなく印象に残るものになったと、つなぎ姿の彼女をそっと抱きしめながら。