ほどける想い 重い足取りのまま帰宅した哀は、阿笠邸の頑丈な玄関扉を開けた。
思いがけず背負うのに慣れたランドセルの重さは、未だ感じることはあれど。この扉を開ける時は、戻ってこれた、そして戻ることができる場所があることに安堵して、身も心もふうっ、と軽くなるのに。この日は開けたとたんガクッ、とさらに鉛を乗せられたかのように身体が重くなったのを感じた。
「…あなた…何してるのよ」
おかえりなさい!と明るい笑顔で迎えてきた男の姿に、哀は頭痛まで覚えた。
「博士にお願いして、キッチンをお借りしてご飯作ってました。哀さんあまり食べていないと聞いて」
「いらぬお世話。…博士」
「哀くんポアロのハムサンド食べたことないじゃろお…食べやすいから是非にと思って」
「はい、本当に是非、哀さん。もうすぐできますから」
「…そんな格好までして! 何考えてんのよ」
博士が相手の肩を持つと分が悪いので、咄嗟に話の方向性を変える。そうやって噛みついた哀に、相手の男、降谷は柔らかく眉を下げた。
「…いや、少しでも。警戒心を和らげて貰えたら、と思いまして」
「……その格好のあなたに私がどれだけ神経尖らせていたか忘れたの」
「はは…、そうでしたね。つい…」
決まり悪そうに鼻の頭を掻くこの男は、どこまで本気なんだろう。でも、心底困ったなあ、という様子の降谷に、哀は自分の気が緩んでいくのが分かった。
あの頃よく見た、お店で着るようなナイロン製のものではなく、デニムのオックス生地で大きな胸ポケットもある、無駄にお洒落なものを着けているのも意味が分からない。ジャケットを脱ぎ半袖Yシャツとネクタイの上に、そのエプロン姿の男をジロリと見上げ、息をつきつつ哀はランドセルを下ろしに行った。
戻ってきた哀は、自身もギンガムチェック柄のエプロン姿だった。それに目を丸くする降谷を意に介さず、背伸びして冷蔵庫を開ける。
「やっぱり、そんなことだと思ったわよ。それ、博士のリクエスト? 山盛りのポテトフライ」
玄関扉を開けた時から、その匂いの方が勝って漂ってきていた。
「あ、これ、ポアロのメニューには無かったものですが、ガーリックたっぷりのポテトフライ。元気でますよ、フライというより揚げ焼きなので。カロリーも調整済みです」
揚々と語っているが、小学生相手にガーリックでスタミナをつけようとは、如何なものか。博士はそれはそれは大好物だろうが。焦りつつもへへへ、と嬉しそうな博士を横目に哀は再度ため息をつく。作ってる当人にも仕事着で揚げ物とか何考えているのかと問いたいが、確かにこれならエプロンは必須アイテムだ。
「夏野菜もたくさん残ってるのに。同様にちゃんと食べてもらうわよ」
腕に抱えながら出すのはピーマンに人参、茄子にトマト。ひょいっ、とそれを哀の腕から取り出す男に眉を寄せた。
そちらを見ると。嬉しそうな笑顔。
「いい心掛けですね。手伝いますよ」
余計なお世話!と、叫びたいけれど。キッチンから彼を追い出すのではなく、飛び込んでいったのは自分の方だ。哀は目を逸らしながらも重い玉ねぎを彼に渡した。
作るのは野菜スープ。もっとあっさりしたものでもいいのだが、これだけの野菜を入れるのでコンソメスープにした。トマトを入れることで酸味が足され食べやすくなる。たんぱく質が足りませんね、と言う降谷によって、ゆで玉子まで用意されていた。ランチだからそこまでこだわらなくても良さそうだけど。
慣れた様子で踏み台に上がり、見事な包丁さばきで野菜を切る哀に、降谷は唖然とした様子だった。トマトの湯むきを丁寧に行う手を止め、言葉を落とす。
「…すっかり子どもの姿が板についてますね」
「……何よ、嫌味? こんなスピードで野菜を千切りにする子どもなんているかしら」
「それはその器用さにも驚かされますが。逆境にも屈さず順応する姿が眩しいです」
哀の手の動きも一瞬止まる。降谷の瞳は優しい光を灯し、再びトマトの薄皮へと向いていた。哀もまた、まな板の音を立てながら。呟く。
「…逆境、だったのかしら。この、姿が」
「……君にとっては逃げ出すまでのあの環境の方が。よほど逆境でしたよね」
包み込むような声音でそう言われ。哀はビクッ、と身を揺らした。包丁の動きはゆっくりになる。湯むきしたトマトを脇に寄せ、降谷が哀が細切りにしていたピーマンを受け取った。
降谷の千切りの音はリズムを刻むように心地よく響く。
「……だから。君が下す選択には誰も介入できない。君自身の意志が尊重される」
哀は唇を噛みしめた。反論も主張もできずにいると。水を切った茄子をください、と言われる。
哀は少し踏み台をずらし、流しの前に立つ。薄切りにして水にさらしていた茄子のボウルを手に持ち、ザルに返そうとして…気もそぞろだったのか、大量に水を自分に引っ掛けてしまった。
「ひゃあっ、」
「わ、大丈夫…?!」
珍しく慌てた様子で降谷が一二歩と近寄ってくる。哀の薄手のエプロンの前部分はぐっちょりだ。チェックの菫色が濃紫になるそれに、拭くよりも脱ぐ方が早いと判断したのであろう彼の手が、哀のエプロンの後ろ紐に伸びる、その瞬間二人の時が止まった。
哀を包むように腕を伸ばした降谷との距離は近く。踏み台に立つ哀と降谷の目線も近い。
哀の真っすぐな凛とした瞳に。吸い込まれるように見入っていた降谷が急にバッ、と身を引いた。
「……あ、……」
明らかに戸惑っている男の様子に。驚いて動揺するのは哀の方。
ただ動けないでいる哀を、その次の瞬間には降谷は脇に手を入れ、抱え上げる形で踏み台から下ろした。
その明らかに子どもとしての扱いに、文句を言う隙もなく降谷は背を向け、キッチンの端にある床拭きモップへと向かう。
「早く着替えておいで。後はやっておくから」
結局言い返すことも謝ることもできず、おとなしく言われた通りキッチンから出ていこうとして、哀は足を止めた。
「……あなたには。私は誰に見えたのかしら」
その深い傷みや強さを抱えた瞳には。どのように、誰に重ねて。自分は映っていたのだろう。
同じようにエプロンをしていても。あの穏やかな店員の時とはまるで違う様子の、彼には。
振り返ると。モップを手にきょとんとしている瞳と目が合った。
「…え。君は、君でしかないけど」
「え」
あの瞳は。思い出と重なったわけではないの?
「哀さんは、哀さん。そして哀さんは……」
そこで、再び彼の瞳に惑うような色が差した。でもそれを晴らすように。優しく笑う。
「どんな姿でも。君は君だ」
その笑顔に。言葉に。哀の胸はいっぱいになって、どんどん顔も赤く染まっていく。それを慌てて逸らした。
…私は私。どんな姿でも。だからこの人は。ちゃんと私の中に本当の私を……
それが伝わって。どうしようもなく熱が身体を心を巡って。沸き出るように涙も浮かんできて哀は小さなエプロンを握りしめる。
リビングでくつろいでいた博士が。哀くんどうしたんじゃい、と駆けてくる時には、哀はあったかく綻ぶような笑顔を向けていた。
濡れたエプロンをほどきつつ。身も心もほぐれていくのを感じながら。