嵐の後「…ねえ知ってる? 台風も、ど真ん中にいるとね。強い風も雨も何も感じないのよ」
それは常識として把握されていることだ。台風の目に入るとどんな嵐の中でも、瞬間穏やかな青空が広がることもある。だが彼女が言っていることは、そういうことではなかった。
「黒い渦のような殺伐とした環境もそれが当たり前だとね。異常や異変に気づかずのうのうと過ごせるのよ」
それが、私よ。そうして出来た、異端者だわ。
そう言って。彼女は、姿を消した。
台風一過の朝。昨晩までの荒れ模様が嘘のように、空は青く澄み渡り眩しい日差しが降り注いでいる。
降谷も連勤明けの朝を、迎えていた。台風接近の前から任務で詰めていたのだが、引き続き非常時対応の体制に入っていたわけだ。大きな被害が出なくて良かったと、一息つく心地で水たまりが光を浴びて輝く、路面を歩く。
嵐が過ぎると。暗雲を全て取り払ってこうして、目映く美しい世界に出会わせてくれる。彼女だって。そうして光の当たる場所に、元々与えられて当然だったありふれた幸せに、出会っていい、出会うべき存在であるのに。
彼女、宮野志保が姿を消して。5年の月日が経過していた。
もちろん容易く姿を消せる立場には。彼女は、いなかった。
でもそれが実現できてしまったのは。公安警察という組織を凌駕する、同等の機関か国家権力が動いたのと、公安内部にも綻びがあったからだろう。だいたいの見当は降谷にもついた。でも彼はその事実を受け止めた。彼女のもっと身近な人たちが。それを受け入れて、いたからだ。
彼女は、どうしているのだろう。あんな後ろ向きな発言を残し。姿を消したのに、不穏で不安な予感は、何も抱かなかった。悔しいが。見当がついている彼女の行き先に、相応の信頼を、降谷自身も置いているのだ。実は秘密裏に裏も、取っていた。
……不安なのは。このまま二度と会うことがない可能性。それが頭に過ると。足元から崩れ落ちるほどの不安定さに襲われる。
雨上がりの景色が水滴とともにぐらりと揺らぎそうになった時。そこに華奢な黒のパンプスが映り込んだ。
濡れた路上に立つその足先から目線を上にあげると。目に飛び込んできたのは、思い描いていた、かの女の姿。
「………」
黙って見つめてくる降谷に。記憶よりもさらに輪をかけて美しくなった面輪をすっ、と伏せて。彼女が、志保が言葉を紡ぐ。
「…別に。気まぐれで来ただけよ。驚かせたなら、ごめんなさい」
何故謝るんだ。それも姿を消したことではなく。姿を見せたことに対して。
──『君が、好きだ』
『知れば知るほど好きになる。目が離せなくて気になって仕方がない。君のことが大切なんだ』
『俺のそばに、いて』
あの頃ようやく叶った彼女との邂逅を経て。
降谷の感情は初めて知ると言ってもいい、激情の渦に飲み込まれていた。渇望と憧憬が交差し、扱いきれない熱く逸る気持ちが、刹那的な彼女の姿に不安を煽られ、溢れ訴えることしか、できなかった。
それを最後に、彼女は姿を消した。…彼女は。明らかに降谷からも、逃げたのだ。
志保の意思を、選んだ道を。尊重しようと身を律し自らを抑え、長い年月を過ごした。だけど。
降谷はすっ…と、志保に向けて手を差し出した。
「…待ってたよ。ずっと」
その手を彼女は驚愕で見開く瞳で見つめ。そしてみるみると涙を溢れさせる。
「ば…、ばっ、かじゃないのっ!?」
「……うん」
そうだな、莫迦な男だよ。君を近くで支えることさえできず。みすみす見送ることしかせず。
…だけど。待ってた。信じてた。
2人の中で通じ合い、引きつけ合った鮮烈な印象は。互いに何にも代えがたい忘れがたく必然であった、ものだと。
求めずには、いられないんだと。
…その時は。君も戻って来てくれると、信じていた。
手を引っ込めようとしない降谷に。涙で濡れた瞳で、その手を信じられないもののように見つめていた志保だったが、やがて震える自らの手をそっ…と重ねてきた。
わずかに触れた瞬間。降谷は力強くその手を捕らえ、思い切り志保の体を引き寄せた。
互いに感極まって声にもならない。ただ自らの胸に、この腕の中に、志保がいて彼女もか細い腕を降谷の背に添えてくれた時。
あるべき場所に、互いに戻ってきた気がして。そのぬくもりを、幸福を確かめるように大切に抱きしめた。