One is always sorry after the event 昼下がりの阿笠邸のリビングで、降谷は差し出されたコーヒーに口をつけた。
対面のソファに座る人物は、宮野志保。この家の主である阿笠博士にとっては娘同然の存在であり、灰原哀から元の姿を取り戻した今も、彼と二人で暮らしている。
「ごめんなさいね、呼び出したりして。仕事、忙しいんでしょう?」
「君が気にすることじゃないさ。それに、時間が無ければ来ないよ。僕の予定がアテにならないことは、わかってるだろ?」
何度、彼女との面談日程に変更連絡を入れたことか。
同じことを思い出したのか、志保はクスクスと笑ってみせた。
「ふふっ、そうね」
大人びた表情の多い志保だが、笑顔はあどけなく、歳若い娘相応のものだ。
あの組織が壊滅し、科学者シェリーこと宮野志保が公安の保護下に入って二年。
彼女の保護観察官となり月に一度の面談に訪ねてくる降谷に対し、当初向けられていた警戒心と猜疑心はいつの間にか姿を潜め、様々な表情を見せてくれるようになっていた。
時には今日のように、相談相手になってほしいと呼ばれることまで増えてきた。
そのことに、降谷自身大きな喜びを感じてもいる。傷だらけの野良猫が懐いてきたよう感覚……と言ったら、彼女は怒るだろうか。
信頼の眼差しで降谷に語り掛ける志保の姿を見る度に、妹がいたらこんな感じだろうかと感慨深くもなった。
そうして、彼女の亡き姉である明美のことを思い出しては、彼女が進むべき道を見つけるまで見守ろうと、職務を超えた庇護欲を抱えるようになったのは、いつの頃だったか。
「それで? 相談したいことって?」
「ええ。前々から話していた進路のことなんだけど……」
彼女は手ずから淹れたコーヒーに口をつけながら、神妙な面持ちで語り始める。
志保はこの春、大学三年生になる。組織が崩壊し、ある種彼女の前に敷かれていたレールを失った形になった彼女は、将来歩むべき道を決めかねていた。何度か相談に乗ったこともある。その度に焦ることは無いと諭し続けてきたが、今降谷を見つめる瞳は強い意思のようなものを秘めていた。
歩みたい道が決まったのかと、降谷も彼女に倣うように、居住まいを正す。
「あなたが、前に言っていたじゃない。科学だけが歩む道とは限らないって。研究が好きなのも確かよ。でも、この三年間と灰原哀として生きた半年間を思い返して、私にはもっとしてみたいことがあると思ったの」
「ああ。君が決めた道であれば僕は応援するよ。どんなこと?」
「私、子どもが好きみたいなの。子どもを育てたいのよ」
なるほど、と降谷は内心頷いた。
確かに、彼女がまだ灰原哀として暮らしていたとき、少年探偵団の面々たちの面倒をよく見ていたようだし、大学祭に招かれて様子を見に行った時、迷子になった子どもに親身に接していた。彼女が子ども好きなのは間違いないだろう。
となると、子どもに関わる仕事か。保育士や幼稚園教諭、教師といった代表的な職業が頭に思い浮かぶ。
大学に編入する際、進路が定まっていなかった彼女は無難に英文学科を専攻したから、英会話教室で教鞭を振るうという道もあるだろう。この流麗な声で、幼い子ども達に接する姿は、ありありと想像できる。一見クールそうに見えても一人一人を想いやり慈しむ先生か。教職。素晴らしい仕事だ。
ふむ、と降谷が勝手な想像で納得していると、志保は「それでね」と話を続けた。
「だから、私と子作りをしてほしいのよ、降谷さん」
……。
……………。
………………………。
たっぷり三分間、降谷は己の思考を停止した。
否、たったの三分で済んだのは彼の明晰な頭脳ゆえとも言える。
けれども、発せられた言葉の意味を理解できたところで、その意図についてはまるで理解できなかったし、感情的には耳にした言葉すら受け入れることを拒んでいた。なので。
「…………今、なんて言いました?」
何故か出会った頃のように敬語口調になって、聞き返す。
彼の様子を注意深く観察していた志保は、手にしたカップをソーサーに置いて背筋を伸ばした。
「私と子供を作ってほしいの」
「聞き間違いじゃなかった……!!」
がくり、と降谷は肩を崩して頭を抱えた。
そんな彼を目の当たりにしても、志保は特に動じた様子はない。この反応は予想済だったのだろう。いや、予想してくれなくては困るが。
「私相手にその気にならなければ体外受精という手もあるけど、手続きが面倒で費用も膨大だし、出来れば性行為の方が手っ取り早くていいわ。妊娠するまで、何度かチャレンジしてもらうことにはなるけど、いちいち時間はかけなくてもいいし」
ハタチの娘さんが性行為とか言うな、という言葉をギリギリ呑み込んで、降谷はなんとか頭を上げた。
「………まず、ひとつ確認だけど」
「ええ」
「僕たち、男女の関係ではなかったよな?」
「当り前じゃない」
「だったら何故僕を相手に選ぶんだ!? いや、他の相手を選ばれても困るが!」
「なんで貴方以外の人を選んだら貴方が困るのかはわからないけど」
言われてみれば何故困るんだ?とは思ったものの、そこに言及している場合ではない。
「そうね……誰が父親であれ私の子どもであればいいのは確かだけど、どうせなら私が子どもの父親のことを思い出しても、嫌悪感を抱かない人がいいと思っただけよ」
ぴん、と伸びたほっそりとした指先が、降谷の鼻頭を指し示す。
「貴方は厳しいけど優しいし、見た目も良いし頭も回るわ。折角なら、そういう男のDNAの方がいいでしょう?」
「理屈としては理解できるが、感情としては理解しかねる……」
「そうよね。完全に私の都合だから勿論貴方にも断る権利はあるわ。迷惑をかけるつもりはないし、貴方の将来を縛るつもりもないけど。……でも、私生子にはしたくないから認知はしてほしい。そうなると結局、貴方の戸籍に傷がつく形にはなるのよね」
「……いや、待て。なんで結婚しない前提なんだ?」
「えっ。結婚?」
「その反応はおかしいだろ……」
考えてもみなかった、というキョトンとした声をあげる志保に、降谷はこめかみに寄りまくった皺を解す。
「だってそんなの、貴方に迷惑がかかるじゃない。まあ、認知してもらう時点で迷惑なんでしょうけど……」
「そういうことは一人で決めるものじゃない。大体、子どもが欲しい、だけで僕に抱かれることになるんだぞ。それは君的にアリなのか?」
敢えてはっきりと告げてやると、志保はこくんと頷いた。
「必要なプロセスだもの、問題無いわ。でも私、経験が無いから貴方を愉しませてあげられるかは正直自信が無くて。貴方が快楽を優先したいのなら応えるから、教えてもらえると助かるのだけど」
頭が痛い。
襲われたいのか、この小娘。いや、実際そうしろと言われているわけだが。
しかも処女と来たものだ。それなら尚更のこと。
「……頼むから自分を大事にしてくれ」
疲れ切ったため息と一緒に零れた言葉には、混じり気の無い本音だけが込められている。
「やっぱり……ダメかしら?」
降谷の答えは想像していたのだろう。
志保は気落ちしつつも、取り乱してはいない。
眉を下げて落ち込んでいる様子に、降谷は何度目かになるため息を吐いた。
目の前に座る志保は、一言で言えば綺麗な子だ。
滑らかそうな白い肌や、ほっそりとした四肢に見合わず出るところは出ているスタイルの良さ(勿論その中身を見たことなど無いが、衣類の上からでも無意識にサイズを図ってしまうのは男のサガだ)も、世の男どもには間違いなく魅力的な存在に違いない。
でも、志保の本当の良さはそんな外見のものではなく、内面に持つわかりづらい優しさと、不安定ながらも自らの歩む道を探ろうとする、強さ。
そういったものを見もしない、邪な考えの男たちに同じことを提案されるのも冗談ではない。
「……返事は、保留だ」
「保留? 検討してくれるってこと?」
「ああ」
ぱぁ、と喜びにあふれた顔に、降谷は思わず手を伸ばしそうになって、慌てて自制した。コホン、とひとつ咳ばらいをしてから、続ける。
「保留期間は二年。君が大学を卒業するまで。それまでは、デートをして、手を繋いで、いろんな話をする」
「えっ?」
「それと、子どもを作るなら籍を入れる。これが僕の最低条件だ」
降谷の言葉に、志保は困惑した面持ちを見せた。
なんでそこで困るんだ。性行為をしてほしいとまで言ってきたくせに……と呆れていると、志保は言いづらそうにぼそぼそと言った。
「そ、そんなの。普通に付き合って、結婚するみたいじゃない」
「みたい、じゃなくて、そうだ。僕はきちんと段階を踏みたい」
「でも、それって。子どもが欲しいっていう最終目標から外れているわ。普通に、あ、愛し合う、みたいよ」
「だから、僕はそうしたいんだ」
口に出して、ああ、と得心がいった。
「僕は君を大事にしたいし、君に僕を好きになってほしい。僕の、恋人になってほしい」
―――ちゃんとした形で、愛し合いたいんだよ
降谷の(志保にとっては)唐突な愛の告白に、志保の顔が茹でダコのようになるのは数秒後の話。
……余談だが。
やがて、彼女曰く『普通の』恋人となった志保が甘えてくる度に、「二年間は手を繋ぐだけ」という己の発言を、彼は後悔することとなる。