【イルアズワンドロ周回遅れ】悪周期 戦いは、苛烈を極めていた。
新たな魔王がその座に就いてから、まだ日が浅い。支配は行き届いておらず、各地で小競り合いが頻発している。様々な勢力が、中央の目の届かないのを良いことに、その隙に影響力を広げようとしてはぶつかり合っているのだ。
些細な勢力争い程度のことはなるようになるであろうと静観していたけれど、しかし、関係のない集落が巻き込まれて被害がでているとなれば黙ってはいられない。魔王は自ら側近を伴い、少数精鋭の手勢をつれて鎮圧へと乗り出した。
はじめは投降を呼び掛け、話し合いでの解決を促そうとした魔王だったが、そんなことで場が収まるのならば最初から戦になどなっていない。いがみ合っていたはずの西軍東軍双方が結託し、魔王軍を追い散らそうと襲いかかってくる。こちらの軍勢はごく少数。いくら精鋭揃いとはいえ、数を頼みに押し切れると思ったのだろう。実際、前線に立つ兵たちは、烏合の衆を前に、倒されこそしないものの数の差に翻弄されて攻め倦ねている。
「――仕方ないな――」
魔王は、すっとその眼差しを鋭くした。頭の中のスイッチを切り替えると、その身に纏うオーラが一変する。穏やかで優しい王の顔から、傲慢で強欲な、魔界の主の顔に。
「アリス」
「魔王様の、お心のままに」
魔王は、側に控える腹心の名を呼ぶ。その声音に含まれた意図を過不足なく読み解いたアリスは、王に傅くことが至上の喜びであることを示すように胸元に手を当てる。それから、絹のような髪を結わえている青いリボンに手を掛けた。しゅる、と軽やかな音と共にリボンは解け、艶やかな髪が背に広がる。
と、見る間にその足下から、どす黒い靄が立ち上り、彼の美しい姿を刹那、隠した。
「破壊……」
黒い霧の向こうから、恍惚の混じった声が響く。靄が、まるでアリスの身体に吸い込まれるように消えていった後、そこには麗しき魔王の腹心は存在していなかった。
在るのはただ――美しい、獣。
にたり、と三日月の形に歪んだ真っ赤な口。ルビーの色の瞳から光は消え、しかし陶酔に潤んでいる。
「行け、アリス」
魔王が、敵軍に向けてその腕を振るう。それに呼応するように、美しき獣は地を蹴った。
一迅の風が戦場を駆け巡ると、その軌跡をなぞるようにばたばたと敵が倒れていく――味方も一部巻き込まれているかもしれない――アリスはすれ違いざまに相手の兵の頭を鷲掴み、放り投げる。一瞬のうちに周囲の何人もが巻き込まれ、一塊の団子となって吹き飛んでいく。
そうしてできた隙間へ、まるで踊るような足取りで突っ込んで行くと、軽やかに地を蹴り宙に舞い、ひらりとロングジャケットの裾を風に靡かせながら、大きな仕草で宙返りをして、その勢いのまま大地を殴りつけた。
地面は割け、砕け、大小無数の飛礫となって所構わず飛び散り、その直撃を受けた哀れな兵士たちは次々と地に伏せる。
最早そこにあるのは戦ではなく、一方的な蹂躙だった。が、それでも抵抗しようと言う意志の残っている者たちは、アリスの手の届かぬ距離から遠巻きに、魔術での攻撃を試みようとする。
しかし、それを見逃す入間ではない。
素早く、腰に提げている羽根の束から一筋を抜き取り、意志を籠めて弓とする。魔力を矢の形にしてつがえ、力一杯引く。
――貫け。
瞬時に、シンプルで強烈なイメージを脳裏に描き、放つ。
狙い違わず、一度に放たれた複数の矢は、アリスを狙っていた術者たちを次々と大地に縫い止める。
そうして、敵軍が完全に沈黙するまでに、さしたる時間は必要なかった。
「アリス!」
入間の鋭い声に呼ばれた獣は、ぴたりと破壊を止め、地を蹴る。すっかり動かなくなった玩具の数々に背を向け、声のする方へと。その、本能を剥き出した瞳に、新たな遊び道具を映して。
「破壊……!」
己の主の姿すらも破壊の対象としてしか見えていない様子で、拳を振りかぶるようにして入間めがけて降ってくる。その拳をまともに受ければ、いかな魔王といえどもひとたまりもないだろう。
しかし入間は、身構えるでもなく避けようとするでもなく、無造作に大きく両腕を広げた。そして、一度ゆっくり目を閉じると、穏やかな笑顔を浮かべる。その身に纏っていた張り詰めた空気が一瞬で和らぎ、暖かで優しいものへと変わった。
「アズくん」
落ちてくる獣を招き入れるように、柔らかな声でその名を呼ぶ。
すると、毒気を抜かれたかのように、彼の振りかぶった拳は力を失って弛み、瞳には理性の光が兆す。
どさり、とその両腕の中に落ちてきたアリスを受け止めると、入間は白いジャケットの背中を、子供でもあやすかのような仕草でぽんぽんと数度撫でた。
「お疲れさま、アズくん、もういいよ」
「――いるま、さま――」
まだ少し意識が胡乱な様子のアリスを腕に抱きながら、部下たちに負傷者の救護やらの後始末を言いつける。二、三の指示を出し終える頃には、アリスの瞳にははっきりと自我が戻ってきた。
「気がついた?」
「――はい。引き上げていただき、ありがとうございます」
しっかりとした声で受け答えをしたアリスは、入間の腕の中で身じろぎをひとつした。それが、もう大丈夫だから放して欲しい、という意思表示だとわかっていながら、入間はアリスの背中に回した腕に力を込める。
「い、入間様……っ」
窘めるようなアリスの声に、入間はくすりと悪戯に笑って見せた。
「折角だし、もうちょっとだけ、このまま居ようよ」
「……入間様……ここが戦場であることをお忘れですか……」
「もう戦場じゃないよ。アズくんが全部ぶっ飛ばしてくれたから」
「……」
入間の言葉に、アリスはいろいろと複雑そうな表情を浮かべて見せた。存分に魔王の矛として武力を行使できた満足、理性がぶっ飛んでいる間にやり過ぎたのではないかという不安、人前で魔王に抱き留められた格好のままである事に対する羞恥、そして最後に、魔王に何を言っても無駄なのだろうという諦観。
「……わかりました……どうぞ、お気の済むまで……」
戦後処理が進む中で、そんな風に腹心を労っている――少なくとも端からはそう見える――魔王のことを、一部の口傘ない部下たちが「猛獣使い」等と呼んでいることが本人たちの耳に入るのは、もう少し先のことだ。