燐ニキ60min『ナンパ』 リュックを背負い直して、青に変わった信号を認識した僕は左右を見渡してから横断歩道を小走りで駆け抜ける。左手に握りしめられた答案用紙は6時間目の数学の授業で返却されたもの。74点。勉強嫌いの僕にしてはなかなかの高得点だ。
数日前、小テストを控えて教科書とにらめっこしては頭を抱えていた僕を助けてくれたのは夏の頃に拾ったおにいさん。おにいさんはとっても頭が良い。僕が放り投げた教科書を拾ってペラペラとめくり、「なるほどな」と呟くと1問1問ていねいに解法を教えてくれた。不出来な僕がすぐに理解できなくても、根気強く付き合ってくれた。
おにいさんは教え方がとっても上手で、落ち着いた声で、穏やかな表情で教えてくれるその様はまさに"お兄ちゃん"って感じだった。そういえば故郷に弟がいるって言ってたっけ。僕にもお兄ちゃんがいたらこんな感じだったのかな。
そんなこんなで、僕は見事におにいさんに教えてもらった成果を挙げることが出来た。早くおにいさんに報告をしたかった僕は、学校終わりでペコペコになったお腹がぐぅ、と不満を訴えるのもお構い無しに力強く足を踏み出した。
交差点を渡って街角のパン屋さんを曲がる。今日はおにいさんと食料の買い出しのために待ち合わせしていた。もう少し。
角を曲がると、おにいさんが待ち合わせ場所に立っていた。鮮やかな赤髪にスラッとした立ち姿。おにいさんは遠くからでも分かるくらい、カッコよくて存在感を放っていた。僕は思わず笑顔になって、おにいさんの元へと駆け寄ろうとした。そのとき。
おにいさんより少し年上くらいの、派手な髪色をしたお姉さん2人組がおにいさんへと声をかけた。顔を少し赤らめて、食い気味におにいさんとお話している。おにいさんはまだアイドルデビューしてないから、ファンとかではない。ということは。
僕はびっくりして止めていた足をそっと動かすと、気づかれないように少しずつ3人の元に近づいた。会話が漏れ聞こえてくる。
「ねぇ、ちょっとだけでいいのでぇ。わたしたちと遊びません? 奢っちゃうからさ!」
「悪いけどニキと待ち合わせしてっから」
「ニキって誰? 友だち?」
「友だち……、いや、俺の命の恩人だ」
「命の恩人? 何その言葉使い! ふふ、お兄さんおもしろーい!」
(これ、ナンパってやつ……?)
僕の僅かな知識の引き出しにも収まってるソレ。僕はまだ中学生だからしたこともされたこともないけれど、おにいさんなら納得だ。カッコイイもんね。
でも、なんかやだなぁ。だって、おにいさんは元々僕と待ち合わせしてたんすよ。今日はテストの結果を報告して、頑張ったなって褒めてもらって、一緒に買い物行って、美味しいご飯を作ってお礼する予定だったんす。
僕はほかの人におにいさんが取られちゃうんじゃないかってモヤモヤして、またぐぅぅとお腹が大きく鳴った。そのお腹の音に気づいたのか、おにいさんがこちらをくるりと振り返る。僕の姿を見つけて、目を丸くなった。綺麗な天色の瞳と、やっと目が合った。
「ニキ」
名前を呼ばれて、僕は衝動的におにいさんの元へ駆け寄る。
「おに……っ、りんね、くん! お待たせっす!」
「おまえ……、呼び方」
「今日は一緒にお買い物行って、お家でご飯食べる約束してたっすもんね! ほら、行こう燐音くん!」
「お、おう……」
「おねえさん達、悪いけどこのひとは僕と先に約束してたんす、だから燐音くんをとっちゃダメっす! 燐音くんは僕の……だいじなひとなんで! それじゃあさようなら!」
突然割り入ってきた僕に驚いた様子のお姉さん達に一方的に捲し立てると、僕はおにいさんの腕をグイグイ引っ張ってその場から離れた。
しばらくグイグイ引っ張られていたおにいさんは、待ち合わせ場所が見えなくなるくらいの場所でようやくニキ、と僕の名を呼んだ。僕は足を止めておにいさんを見上げる。
「ありがとな、助けてくれたんだろ」
頭をぽんぽんと撫でられて、僕は照れくさくて少しはにかんだ。
「なはは……、なんか急に割り込んじゃってすんません。せっかく……、その、ナンパされてたのに」
「いや、どっちにしろニキが来たら、ニキを連れて巻くつもりだった。ニキが最優先に決まってるだろ」
「ふふ、それならよかった……。……はぁ、なんか無駄に疲れた〜っ。お腹すいちゃったっす」
僕はおにいさんから手を離すとぐーっと伸びをした。その姿を見たおにいさんは僕の左手に握りしめられたものをじっと見る。
「それ、なんだ?」
「あ、これ……。テスト返ってきたんすよ! この前、おにいさんが教えてくれたやつ! 見て見て、良い点とれたっす〜!」
「お、ほんとだ。……はは、ニキ、頑張ったな」
「えへへ……。でも、これも全部教えてくれたおにいさんのおかげっすよ! ありがとう、おにいさん!」
感謝を伝えられたおにいさんはとても優しい表情をしていた。そして、にこりと綺麗な笑みを浮かべると僕と少し距離縮めて、穏やかな口調で語りかける。
「燐音」
「んぃ?」
「おにいさん、じゃなくて燐音って呼んで」
「……えぇっ?」
「さっきは呼べてただろ? な?」
「さ、さっきのは咄嗟に出ちゃって……」
「俺は構わないから。ほら、俺はニキにとって"だいじなひと"、なんだろ? なぁ、呼んでくれよ」
「それも咄嗟に……、もぅ、分かったっすよぉ……」
おにいさんの瞳はなんだか熱かった。そんな瞳に一心に見つめられて、なぜか僕の頬にも熱が溜まってくる。
「……燐音くん」
名前を呼ぶだけなのに、なんでこんなにドキドキしちゃうんだろう。名前を呼ばれたおにいさんは——、燐音くんは、熱をともした瞳で、とても満足気に微笑んでいた。
これが初めて燐音くんをナンパから助けてあげた時の思い出。それからも僕と待ち合わせする度に、ナンパされる燐音くんを目撃したのは数え切れない。ちなみにアイドルとしてそこそこ売れっ子の燐音くんと僕はコズプロによる徹底した変装の指導もあって、本人曰く今まで天城燐音と気づかれた上でナンパされたことはない、らしい。変装してても俺っちの魅力が溢れちゃってるンだよなァ☆とは本人談。……まぁ、否定はしないけど。
数年前のあのときと違って、良くも悪くも都会に染まってチャラくなった燐音くんは女の子のお誘いにノるかのような素振りを見せて、いつも僕の反応を試しているようだった。もう、自分で断ればいいのに。
今日も今日とて女の子に誘われて「どうしよっかなァ」なんて思わせぶりな態度をとりながら、チラチラと僕を見遣ってくる燐音くん。僕が助けに入るまで自分から動くことは無さそうだ。
このままだとこの後予約してるレストランのディナーに遅刻しちゃう。久しぶりのデートなのだ、今日は。楽しみにしてたんだからね、もう。
僕ははぁ、と溜息をつきつつ、燐音くんと女の子の元へ近づき、燐音くんの腕をぐいと引き寄せる。
「燐音くん、お待たせ」
「ニキ……☆」
「今日は一緒にディナー食べて、お家に帰ってイチャイチャするんでしょ。ほら、行こう燐音くん」
「きゃはは、いいぜェ。てなわけでェ、ごめんな、おね〜さん?」
「おねえさん、悪いけどこのひとは僕と先に約束してたんで。燐音くんは僕の大事な……、恋人なんで」
燐音くんがナンパされているのを見てモヤモヤするのは数年前から変わらない。それを見透かしたように、ナンパされた後の燐音くんは僕にとても優しい。優しく優しく、愛を囁いては僕の身体に教えこませてくれる。これは数年前と違うこと。
そう、僕は堂々と燐音くんを"大事な人"と言えるポジションを手に入れた。燐音くんは、僕の大事な恋人。そして僕も、燐音くんの大事な恋人。……我ながらちょっと照れくさいけれど。
ナンパ現場から少し離れて、僕は恥ずかしくなって燐音くんの腕を振りほどいた。……けど、燐音くんはすぐに僕の手を掬うと指と指を絡めて手を握ってきた。所謂恋人繋ぎってやつ。それだけで僕の気持ちは少し上を向いてしまうから、自分ながらチョロいなって呆れてしまう。まぁいいや。これからは誰にも邪魔されない二人の時間。燐音くんと僕は少し早足に、街角を通り抜けた。