【夏五】孤独な海月 小学校の遠足で訪れた水族館で、真っ白な海月を見た。薄暗い丸い水槽の中に、ふよふよと1匹だけ漂っていた。仲間はいないのだろうか、家族は――幼心に、広い水槽の中で彷徨う海月が寂しそうに見えて、なんだか私まで悲しくなったのだ。
すべて消し去ったと思っていたのに、意外にも記憶は残っているものだ。不意にそんな過去を思い出したのは、思いもよらなかった邂逅のせいである。
「なにしてるんだい、悟」
思わず声を掛けてしまうくらいには、奇妙な状況だった。
偶然、たまたま、旧知に出くわすことはある。猿どもが溢れかえった駅構内で、薄汚れたビルとビルの隙間で、忘れられて朽ちていくばかりの廃屋で。
けれどまさか、呪霊に乗って移動中の空の上で、かつての親友と出くわすとは思いもよらなかった。
自身の立場を十分理解しているので、旧知を見かけたからといって気軽に声を掛けることはない。しかしさすがに元親友が空中でひとり横になって浮いていれば、誰だって気になってしまうはずだ。
「あっれぇ、すぐるだぁ、久しぶりぃ」
あの別れが何もなかったかのような気安さで、元親友――五条悟は私を見つけると横になったままひらひら手を振った。警戒は解かないまま、長年愛用しているエイ型の呪霊に命じてさらに近づいてみる。
高専にいた頃は、非術師に目撃されてはいけないということで、事前に申請したときや特別な事情があった場合以外飛行型呪霊での移動を禁じられていたが、今はそんなことを気にする必要はない。猿どもが見て怯えようが騒ぎになろうが私にはどうでもいいことで、車や電車、バスに乗るよりもよっぽどマシである。
手を伸ばせば届きそうなところまで近づいて、気づく。
「…君、酒飲んだのかい」
思いがけず、アルコール独特なにおいが他ならぬ五条から漂っている。しかもかなり強く。
「下戸じゃなかったっけ。飲めるように――」
なってたらこんなことにはなっていないか。ひとり納得している間もふらふらと、右へ左へ漂う。夜の帳の中に真っ白な男。やはりあのときの海月が思い浮かんだ。
「なぁすぐるぅ、こっからムラサキぶっ放したら、あの月ハカイできると思うかぁ?」
笑いながら、指先を半分欠けている月へ向けた。突拍子もないバカなことなのに、同時に可能かもしれないと思えてしまうのが五条悟という男だ。
「消してどうするのさ」
「んー?なくなったら星がきれいに見えるかなぁって」
所詮は酔っ払いの戯言、本気ではないのだろう。だらりと腕を下ろして、またゆらゆらと漂い始めた。
「こんなところでひとり、なにしてるんだい」
最初の疑問に戻る。周囲を窺う必要もなく、ここには五条以外いるはずもない。なにしろだだっ広い太平洋の上なのだ。半分の月が、海面にゆらゆらと揺れている。
「ぼくの生徒がねぇ、なんとかってりゅーせー群、みえるらしいよって言うから、みにきたんだけどねぇ」
なーんも見えない!ケラケラと笑う。だからか、と合点がいく。星を見るのに邪魔だから、月を壊そうという単純な構図だ。
白い月明かりを映して、細められた青の双眸がキラキラ光る。今日はいつものサングラスをつけていないのだと今更気づいた。
間近で見れば、白い頬がすっかり赤く染まっている。一体どのくらい飲んだのか。さほど飲んでいないけれどこの状態なのか。
本来ならば、酔っ払いの戯言に付き合ってやる義理はない。しかも相手は、元親友とはいえ、おそらく――いや確実に私の処刑執行人に命じられている男だ。
私には果たすべき大義がある。帰りを待つ家族もいる。さっさとここから離れるべきだ。わかっているが―――どうにも離れがたい。
今の五条はどこか不安定で、ひどく危なっかしく見えた。その方が、大義をなすためには有利だろうとは思うが、私は彼を憎んでいるわけでも殺したいわけでもない。
むしろ五条悟という男は、我々呪術師の象徴のような存在なのだ。
「…その生徒に、日にちまでは聞かなかったのかい」
流星群の話は、私も美々子と菜々子に聞いて知っていた。ピークは確か、明日だと言っていたはず。特段興味がないので軽く流したが、それは覚えている。
「その子ねぇ、死んじゃったの。今日!」
呪霊に踏みつぶされて、ぐっちゃぐちゃ。ケラケラケラケラ笑って、笑いながら。突然充電がなくなったように動きが止まり、糸が切れたように真っ逆さまに落ちていった。
あまりに唐突で呆然としながらも、体は自然と動いていた。あと少しで海面に叩きつけられるというところでキャッチする。こちらはかなり焦ったというのに、当の五条は呑気に寝息をたてて眠っていた。まったくこの男は。形の良い鼻を、思いっきり抓ってやりたくなる。よくよく考えれば、この男にはオートの無下限術式があるのだ。海に叩きつけられたところで死ぬことはない。
ため息をついた。抓る代わりに、その少し染まった頬に触れる。――触れられた。無下限が効いていない。酔っぱらったせいで術式がうまく働かないのか、それとも―――都合のいいことは考えないようにする。
とにかく今、私は、五条悟に触れることができる。温度がなさそうな見た目とは裏腹に、アルコールのせいか皮膚は熱い。
「…だから言っただろう、猿どものせいで、呪術師は無駄に消費されていく」
君の大事な生徒も、仲間も―――君自身も。
「さて、どうしたものかな」
細長い体を抱きかかえたまま、再び浮上する。本当は真っ直ぐ家に帰るつもりだったが、予想外の拾い物をしてしまった。むにゃむにゃとなにかを呟く無防備な男を海に投げ捨てる選択肢は、最初からない。
「―――ぐ、る」
耳元で繰り返される言葉は、聞こえなかったふりをする。――いや、もとから酔っ払いの戯言だ。目を覚ましたときは、なにも覚えてはいないだろう。それならば。
「すべて、夢にしてしまおうか」
額に唇を寄せる。当然、答えは返ってこない。ふふ、と上機嫌に笑ってスピードを緩め、穏やかな海の上を飛び続けた。
「あたまいたい…」
「自業自得だ、バカ」
医務室に入るなり耐えきれずにベッドにダイブしたら、まるでゴキブリでも見つけたような目が見下ろしてきて、次いで思いっきり舌打ちされた。この同級生相手に優しい言葉と態度は最初から期待していない。珍しく使われていないベッドを少しの間占拠する許しを与えてくれただけありがたいことだ。
「下戸のくせに、なんで飲むんだよ」
「いやー、ジュースだと思ったんだよねぇ」
瑞々しいリンゴのイラストに惹かれて買ってみたら、中身はチューハイで。それでも甘くて飲みやすいから、一気に空にしてしまったのだ。
「昨日のこと全っ然覚えてないんだけどさあ、ちゃんと自分のベッドに寝てたの、さすがじゃない?」
「―――お前がそう思いたいなら、それでいい。せっかくだ、しばらく寝てろ」
おっかない顔のまま、静かに引かれた白いカーテン。
前言撤回。彼女は十分すぎるほどに優しい。流石の僕でも、アルコール棚とそれ以外の区別は付くことも、全身に色濃く残された痕跡にも、気づかないふりをしてくれる。
ひとりきりになったベッドの上で、両目を覆う包帯を取る。ズキズキと鈍い痛みの向こう側、目を閉じればまだすぐそこに、アイツがいるんじゃないかと錯覚する。
もういっそ本当に、なにも覚えていなければよかったのにね。