夏五版ワンドロワンライ第123回お題「ポン・デ・リング」「夏油様」
「はい」
左右両方から差し出された、小さな丸い球体。それがすぐに、美々子と菜々子が食べていたドーナツの一粒だと気付く。
信者からの貢ぎ物ではなく、帰り道、2人が食べたそうに見ていたので夏油自身が購入したものだ。夏油としては、あんな猿だらけの場所で、猿が作り出した菓子など御免蒙りたいが、彼女たちに強制するつもりはなかった。食べたいものは、食べていいのだ。これまでは、叶わなかったのだから。
だから2個だけ購入して、そうして3人で暮らすアパートに帰ってきて、お茶を淹れておやつの時間にした。
で、冒頭に戻る。きっと自分たちだけが食べていることを気にしているのだろう。
「――私はいいから、2人だけで食べなさい」
苦笑して、双子でありながら色が異なる髪を撫でる。互いに顔を見合わせて、そうして1つずつ口に入れる。
そんな微笑ましい光景を眺めながら、記憶は勝手に、消してしまったはずの過去の1ページを見せてくる。
気の早い蝉が、喧しく鳴き始めている。汗が額を、頬を、背中を伝っていく。今すぐこの暑苦しい制服を脱ぎ捨てたいところだが、我慢できるだけの理性は残っている。帰りに寄るコンビニでコーラを買おうと決めた。炭酸が飲みたい気分だった。
「すぐるぅ、ほい」
隣を歩いていた同級生が、なにかを夏油の口元に差し出した。突然のことで一瞬焦点が合わなかったが、すぐに正体がわかる。
つい数分前、移動中に有名なドーナツのチェーン店の前を通った。夏油としては誰もが知っている店だと思っていたのだが、隣にいた同級生はその「誰もが」の中に入っていなかったのである。
さすが御三家の箱入り坊ちゃんである。しかしそこで売っている菓子が一体なんであるのかはさすがに知っていたので、空気のように甘い物を吸い込む少年の目は、幼子のようにきらっきらに輝いてショーウィンドウの中を見つめていた。
だからつい、言ってしまったのだ。
「食べたいなら、買っていこうか?」
そうして目に入った好みのドーナツを次々買いこみ、上機嫌で帰路についたのである。帰るまで待ち切れずに、歩きながら袋の中を漁り頬張っていた、ところまでは見た。
その後ちょうど担任から電話が入って対応し、通話を切ったところで――丸いなにかが差し出されたのである。
聞かなくてもわかる。さっきのドーナツ店で買った、数珠型ドーナツの一粒だ。真っ白に砂糖がまぶしてあって、見るからに甘そうである。
「…私はいいよ。悟が食べな」
「えー、めっちゃ美味いのに」
全部食べていいと言われて喜ぶかと思ったのに、意外にも拗ねたように口を尖らせる。
そこで、思い至った。この少年は、もともと自分のものを誰かに分け与えるなんてことはしない男だった。なにより自分だけが食べてて申し訳ない、なんて考えるはずもなく。
――美味しいものって、好きな人と分けあうとさらに美味しい気がしないかい?
数日前に口にした、我ながらこっぱずかしい言葉を思い出す。まさか、と思った。自惚れかもしれないと考える。けれど。
気づいたら、差し出されたままの一粒のドーナツを、口に含んでいた。
……うん、あまい。
「美味しいよ、ありがとう」
途端にみるみる口角は上がり、見惚れてしまうほどの笑顔に変わる。眩しいと思ったのは、照り付ける太陽のせいだったのか、それとも。
「夏油様?」
遠慮がちな小さな声に、我に返る。心配そうな目が4つ、夏油を見上げていた。
「どうしたんですか」
「―――なんでもないよ」
誤魔化して笑って、また頭を撫でる。久しく食べていない甘さが、口の中いっぱいに広がった気がした。
「先生、なに食ってんの」
「んん?エンゼルクリーム♡好きなんだよねぇ」
「ずっる、俺たちの分は!?」
「ちゃんと向こうにあるよ。好きなの食べな」
「やったー!」
「俺オールドファッション」
「私ポンデね」
我先にと走っていく生徒たちの背中を見送りながら、手に付いたクリームを舐めとる。
エンゼルクリームってさ、誰にも分けずに独り占めしても許される感じがいいよね。ポンデリングってなんか分けなきゃ、って感じがするけど。
以前そんなことを言ったら、硝子に呆れられたっけ。お前はなんでもひとりで食うだろって言われて反論はできなかった。
でもしょうがない。分け合いたい相手は、もうどこにもいないんだから。