「我慢」 主、我慢ですよ。
長谷部は私によくそう言ってあやしてくれた。私が他の審神者や政府の役人に人見知りを発動させた時、転んで膝をすりむいて泣きそうになった時、夕ご飯が待ちきれずつまみ食いをしようとした時。
全部全部甘い思い出だ。長谷部は、私よりたくさんたくさん長生きしている長谷部は、私を導いてくれた。
そんな長谷部に、私は恋をした。
ある時恋仲の刀剣男士と審神者を見かけ、それが羨ましくて「恋ってどんなものなの?」と長谷部にしつこく問いかけた。すると長谷部は私のほっぺたに優しくキスをして、「今は、ここまでで、しまいです」と言ったのだ!
驚いた。長谷部の唇の柔らかさがずっとほっぺに残っている気がして、ごしごしと長谷部にキスされた場所を何度も何度も手でこすったし、顔も洗った。それでも記憶から消えなくて、いつの間にか私は長谷部を自然と目で追うようになった。
手練れの長谷部には私が凝視していることなんてお見通しで、すぐに振り向かれてしまう。そのたびに私は長谷部なんて見てませんというふりをしたけれど、それすら長谷部には気付かれていた。長谷部は自分と顔を合わせようとしない私に、嫌われたんじゃないかと思ったらしい。そんなことないのに。長谷部ったら馬鹿だよね。
私が長谷部を好きなことは、歌仙や堀川達にはバレていたのに、当の本人は気付かないなんてなんだかおかしい。歌仙は長谷部を指して、「あれは野暮天だからね」と言っていたけれど、やぼてんってどういう意味だろう。
長谷部、長谷部。私にとってお父さんのような、お兄ちゃんのような頼りになる存在。そんな人を好きになっていいのかな? そもそも私はまだ十歳で、長谷部は……ええと、いくつなんだろう? 人の肉体を得たのは六年前だけど、長谷部はそれよりもっと大人だ。そんな長谷部に私が対等に扱ってもらえるかな?
私は長谷部と仲直りはできたけれど、そこから先へは進めずにいた。どうしたらこの気持ちを、長谷部にわかってもらえるんだろう?
私がよく読む雑誌に、バレンタインデーの特集が載っていた。二月十四日は好きな異性にチョコレートを贈る日だって。二月十四日は近い。早速私はお菓子作りが得意な光忠や小豆に頼み込んで、チョコレート菓子を作る特訓を始めた。歌仙にもお願いしたけど、「僕は和菓子が専門なんでね」って断られちゃった。
厨房は広いけれど、百人以上がいる刀剣男士達のご飯の用意を邪魔したら悪いから、ご飯の仕込みの時間帯からずらして厨房を借りることにした。
二人とも教えるのがとても上手だけど、包丁なんてほとんど触ったことのない私は、チョコレートを細かく砕くことだってむつかしい。
そんな時、私が厨房で何やらやっていることを聞きつけた長谷部が、エプロンを持ってやってきた。
「主、俺に手伝えることはありますか?」
「長谷部は来ちゃダメっ! 来たら絶交なんだからっ」
「はぁ……」
長谷部は困惑したまま、厨房の入り口に突っ立っている。前みたいに長谷部が私に嫌われてるって勘違いしたら嫌だ。でも理由を話すのは恥ずかしいし、どうしよう……。
「主はいま、おとなのかいだんをのぼっているさいちゅうなんだ」
小豆がにこやかに長谷部に言う。
「大人の、階段?」
「小豆、変なこと言わないで!」
小豆のフォローになっていないフォローに、私は頭に血が上るのを感じた。小豆ってどこかおっとりしていて私も子供扱いされるけど、こんなのってないよ!
「長谷部君はバレンタインデーって知ってるかい?」
隣にいた光忠が長谷部を振り返る。
「ばれんたいん? いや、知らん」
「今月の十四日のことなんだけど、日頃お世話になっている人にお菓子を贈る日なんだよ。その日に向けてトレーニング中なのさ」
光忠、ナイスアシスト! 後で思いっきり褒めてあげよう。すると長谷部は納得がいったようで、こくりと頷いた。
「なるほど。ならば俺もぜひ参加させて頂きたいのですが、いかがでしょうか?」
長谷部は目を輝かせている。腕まくりまでしてやる気満々だ。って長谷部がやる気になってどうするの!?
「だからっ、今は私がここを使ってるから、長谷部は入っちゃダメ! 入ったら許さないんだからね!」
私がムキになって叫ぶと、長谷部はうらめしそうにぽつりと呟いた。
「燭台切や小豆はいいのに、俺は駄目なのですか?」
「えっと、その……光忠と小豆は私の先生なの! だからいいのっ」
完全にしょげ返ってしまった長谷部を前に、胸がチクチクと痛む。他の本丸の審神者さんによると長谷部は主命だと言えば素直に命令に従ってくれるそうだけど、私の長谷部は意外と頑固なところがある。
「ごめん、長谷部。できれば練習は小豆と光忠とだけでやりたいの。だから長谷部は我慢して」
私はぺこんと頭を下げた。こういう時は命令を出すより、素直にお願いするのが長谷部にとって一番いいと私は知っている。
「承知、致しました。主、怪我などされぬよう、包丁の取り扱いには重々お気を付けください。小豆、燭台切、くれぐれも主を頼むぞ」
「もちろんだ」
「任せてくれ」
渋々といった様子だったけれど、長谷部は諦めてくれた。でもお小言と釘差しは忘れないところが、なんというか長谷部だなあという感じだった。
そして二月十四日。私は景趣を冬の庭にしていた。ホワイトバレンタインなんて、なんだかロマンティックだと思ったからだ。私は本丸の中の林にある東屋で、長谷部を待っていた。
吐く息が白い。
長谷部の部屋の障子の隙間に、手紙をそっと差し込んでおいた。
『長谷部へ
今日の十四時に東屋に来てください。 主より』
精一杯可愛らしい便箋を選んで、キラキラ光るラメペンで書いた人生で初めてのラブレター。長谷部は気付いてくれたかな。ううん、きっと気付いていてくれるはずだ。
そして私の下げたポシェットの中には、今日の為に手作りしたチョコレートがある。といっても、板チョコを細かく砕いて湯煎して、ハート形にしたものなんだけど。初心者でへたっぴの私にはこれが精一杯だった。でもその分清光にお願いして、ラッピングを凝ったものにした。なかなか可愛くできていると思う。長谷部、早く来ないかな。
腕時計を確認すると、時刻は十三時四十五分だった。約束の時間まであと十五分。
すると、遠くからこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
「主ー!」
私に向かって手を振るのは、長谷部だった。もう来てくれたんだ!
私の姿に気付いた長谷部は駆け足でやってくる。それが嬉しくて私も「長谷部ー!」と返す。
「お待たせして申し訳ありません。寒くはありませんでしたか?」
「ううん、全然待ってない。長谷部早かったね」
「こんな雪の日に主をお外で待たせて、風邪を召されては大変ですからね。執務も片付けて参りました」
どや顔で言う長谷部がおかしくて、私は笑った。
「それでご用件は何でしょうか?」
長谷部がにこにこと私に尋ねる。いきなり本題に入ろうとする辺りが、長谷部らしい。でもできれば、心の準備をさせてほしい、かな。
でもこの寒い中長谷部をいさせるのも悪いだろう。私はすうっと息を思いっきり吸い込み、意を決してポシェットを探った。
そして綺麗にラッピングされたチョコレートを、長谷部に手渡す。
「あのね、長谷部にこれ、受け取ってほしくて……」
「これを俺に?」
長谷部が目の前に突き出されたチョコレートの入った箱と私を、交互に見つめる。それがあまりにも恥ずかしくて、なんだか泣きそうになる。
「光忠が言っていたでしょ? 今日はバレンタインだって。あのね、バレンタインにはね、もう一つ意味があって」
「そうでしたか。それはどんな意味でしょう?」
長谷部が穏やかな眼差しで私を見つめる。それが恥ずかしくて、私は足元を見つめて、もじもじと言葉を続けた。
「好きな人に、思いを伝える日」
私がそう言うと、長谷部が息を吸うのを聞こえた。
私はがばっと顔を上げて、長谷部と向き合う。驚きに目を見開く長谷部に、私は半ばヤケクソになりながら声を発した。
「長谷部のことが、好きなのっ。ほっぺにチューされた時から、ずっと……」
そう言う私の唇を、長谷部の白手袋をした人差し指が止める。
「長谷部?」
「主、その先を言ってはなりません」
「長谷部、どうして!」
「今の主はまだ幼い。とてもとても幼いのです。まだ恋とは何か、存じ上げていないのではありませんか?」
「そんな、そんなことないっ……」
涙目になりながら否定する私に、長谷部はゆるゆると首を横に振る。
「俺は主に幸せな人生を歩んで頂きたいと思っております。この閉じられた本丸という空間だけでなく、演練場で現世で様々な人間と出会う機会がこれから増えてくるでしょう。そうして主の伴侶にふさわしい人間を見つけてくださることを、願っています。そして俺は主の成長をいつまでも見守っていたいと、そう思っています」
「私が、人間だから……、長谷部に恋しちゃいけないの?」
長谷部の言葉は私を暗に拒絶するものだった。確かに長谷部達は神様だから大切にしなさいと、政府の役人さんからこんこんと説明を受けた。でもどうして人間は神様に恋しちゃいけないんだろう。
「俺は主の幸せを誰よりも願っております。もし、そう、もし──」
「もし?」
「もしも主が心身共に成長されて、人との出会いを重ねても俺を思うお気持ちが変わらなかったその時は、俺を生涯の伴侶としてください」
「どういうこと? 今じゃダメなの? 私が子供だから?」
ぐずっと鼻をすする私に、長谷部がよしよしと頭を撫でてくれた。
「主、我慢ですよ」
「がまん……」
「主のお気持ちはとても嬉しいです。ですがそのお気持ちに応えるには、俺も主も成熟しておりません。ですから“その時”が来るまで、我慢ですよ」
「長谷部も子供なの?」
長谷部を見上げると、長谷部は苦笑いをした。
「ええ。歌仙に言われましたよ。俺の主を思う気持ちが父性愛なのか恋愛感情なのかもわからないなら、俺もまだ子供だと。ですから、これは宿題ですね」
驚いた。こんなに大人な長谷部もまだ子供だったなんて。
「宿題、嫌い」
「我慢ですよ、主」
拗ねてみせるけれど、長谷部の決心は変わらないようだった。長谷部に渡そうとしたチョコレート、無駄になっちゃったな。
そう思ってチョコレートを引っ込めようとした時、長谷部は懐から何かを取り出す仕草をした。
「俺からも主にお渡ししたいものがあります」
「?」
長谷部はすぐに懐から何かを取り出して、私に差し出してくれた。クッキーだった。透明な袋に入っていて、紫色のリボンがしてあるので中身がわかる。茶色いクッキーがいくつか入った袋だった。
「本日は『日頃お世話になっている人にお菓子を贈る日』だと伺っておりましたので、僭越ながら俺から主にご用意させて頂きました。お口に合えばよいのですが」
長谷部から贈り物をされるなんて、思ってもみなかった。光忠のフォローがこんなところで働くなんて彼には足を向けて眠れない!
「これ、受け取っていいの?」
「はい。俺も主の贈り物を受け取ってもよろしいですか?」
「うんっ、はい、どうぞ!」
プレゼントを交換し、ありがとうを言い合う。
「その、私初めてチョコ作ったから、へたくそなんだけど、おいしいと思うよ」
「ありがたき幸せ……! 主から賜ったものはどんなものでも宝物です。大切に食べさせて頂きます」
「長谷部は大げさだなあ」
「そんなことはありませんよ。それと……そちらのクッキーは、俺の手作りなのです。菓子作りは何分初めてなもので、お口に合えばよいのですが」
「長谷部の手作りなの!?」
私は驚いて長谷部を見上げる。長谷部は寒さに鼻先を赤くさせながら、はいと頷いた。
「俺も空き時間に菓子作りの教本を見ながら特訓致しました。味は悪くないかと……」
「一人で作ったの? 長谷部すごい!」
「ふふ、ありがとうございます」
私がきゃっきゃとはしゃいでみせると、長谷部は嬉しそうに目元を和ませた。
「主、城内に戻りましょう。ここは冷えます。温かいココアを淹れますので、一緒に召し上がりませんか?」
「うんっそうしよう」
私は長谷部の腕にぎゅっとしがみつく。このまま幸せな時間がずっと長谷部と過ごせればいいな──と思いながら。
鉄の臭いがする。
普段は和やかな雰囲気の本丸が、一変した。
本丸に存在する四部隊を遠征に出してしばらく経った頃、時間遡行軍が城門を破って襲ってきたのだ。今ここに残っているのは、顕現したばかりの人達が多く、襲撃に対処するのに精いっぱいだった。
執務室の床の間にある歌仙があつらえてくれた花瓶が、大太刀の一薙ぎによって粉々に破壊された。
私の目の前にぎこぎこと耳障りな音を立てて、時間遡行軍の短刀と大太刀が立っている。真っすぐ私を見ている。
「あ……」
死ぬ。私はここで殺されちゃう!
ぎゅっと目を閉じる。
「圧し切る!」
聞き慣れた声に私ははっと目を開けた。
私の目の前にいた遡行軍達は、グゥウと無念そうな声を上げて消え去っていった。
「主、ご無事ですか!」
「長谷部!」
長谷部だ! 長谷部が助けてくれたんだ!
「お怪我はありませんか? 来るのに手間取り申し訳ありません!」
「私は大丈夫だよ……あっ!」
長谷部の頬には切り傷があった。そこにそっと手を触れる。
「長谷部、怪我してる」
「問題ありません。後で主に直して頂ければ、元通りです」
私はこの時気が付かなかった。本当は長谷部の脇腹も敵に切り裂かれて、しとしとと流血していることに。
「時間がありません。主、こちらに」
「どこ行くの!?」
強引に手を引っ張られるまま、速足で長谷部に追いすがる。
「城門は破壊されてしまったため、主を現世へお戻しすることはできません。ですがここなら……!」
長谷部が先導した場所にあったのは、本丸の奥にある鉄製の大きな扉だった。私も数えるくらいしかここに来たことがない。
「歌仙から聞かされていました。主に万が一のことがあったら、ここをシェルター代わりにして籠城するようにと。ここには敵もいません。さ、主、今の内に中へ」
「うん」
長谷部が重そうな扉を開けると、私はその隙間に身体を滑り込ませた。
私は長谷部に向かって手を伸ばす。しかし長谷部は困ったように笑うばかりで、一向に入ろうとしない。
「長谷部?」
「そこに入るのは主だけです。俺は残敵のせん滅を……敵を倒して参ります。他の連中の援護に向かわなければなりません」
「そんなっ! 長谷部怪我してるんでしょう? 今出て行ったら死んじゃうよ!」
私も敵の数を正確には把握できていなかったけれど、本丸を踏み荒らす不穏な気配は感じ取れていた。そしてその数が、今本丸にいる刀剣男士達の数よりも多いことも。
「主、どうかご健勝で。幸福な人生を歩んでください」
「やだっ! やだ、長谷部! 行かないで! 一人にしないで!」
「主、我慢ですよ」
長谷部は私を安心させるように笑いながら、けれど扉を封じた。
重い音を立てて扉が閉まる。
「長谷部! 開けて! まだそこにいるんでしょう! 開けて!」
どんどんと鉄製の扉を叩く。けれど返事はない。
「長谷部! 私のこと、ずっと見守っていたいって、言ったじゃん! 嘘つき! ここを開けて!」
私の声は鉄製の扉に吸い込まれ、闇へと消えた。