さよなら東京タワー 365日の月日は想像していたよりも短かった。
暦としてはもう残暑の挨拶を述べる頃だ。だけど僕は生まれてこの方、八月の終わりに残暑を感じたことはない。現に、八月も下旬に差し掛かった今日の気温も三十度を超えて、アブラゼミの声は鳴き止むことを知らなかった。
肌を焼く日差しの下で、僕は手を合わせた。『伊月家』と彫られたまだ新しい墓石。この下には、父さんと母さん、それから一年前の今日に亡くなった麻里の三人が静かに眠っている。
二十歳を超えてから、一年経つのが年々早くなっていくように思う。あの日麻里を見送ったのも、未だに昨日のことのようだった。僕に生きてと託した麻里の声を思い出す。
大丈夫だよ麻里。俺は今、ここに生きている。だから父さんも母さんも心配しないで。
周囲の木々が風に揺られて心地よくざわめく。家からは多少離れることになっても、市街地から離れたこの場所を選んでよかった。目を閉じたときに鼓膜を揺らすこの音が僕は好きだった。
気がつくと、風はいつの間にか止んでいた。Tシャツの下で、背中に汗が伝うのがわかる。墓前に供えた食べ物を回収し、桶を持って立ち上がる。
「じゃあ、また来るよ」
小さく挨拶だけして僕はお墓を後にした。
今日はもう一箇所、行かなければならない場所がある。たったの一夜を共にした相棒を見送った場所だ。
エレベーターの開いた先にはかつて見た光景とは程遠い景色が広がっていた。光降り注ぐ展望フロアには平日だというのに人が溢れている。あの日以来初めて訪れた東京タワーに、一年前の面影はすっかりなくなっていた。
共に渋谷を駆けたKKに墓はない。パスケースを彼の家族に返しに行ったときにも、結局それは分からなかった。もっとも、当の家族たちにとってKKはすでに亡くなった存在だ。たとえ形ばかりの仏壇や墓を作っていたとしても、そこにKKは眠っていない。
あの事件のあと、KKの遺体が見つかったのかどうかさえ僕に知る由はなかった。
僕にとって東京タワーは彼の墓標だ。ここなら実際に骨が埋まっていなくても、飛び降りた先で眠った彼を弔える気がした。
壁際に設置されていたベンチに腰掛ける。あの日とは違い四方から聞こえる生きた人々の声が、どうにも不自然なようにさえ思える。
葬式も墓も、遺された者への慰めだ。別れを惜しみ骨を埋めることで、故人への想いを昇華していくための儀式にすぎない。父さんにも母さんにも、麻里にも手を合わせる場所はある。一人で遺された世界でも想える場所があるだけで、少しくらいは僕の傷も癒された気がする。
心の中で祈れば故人に弔いは伝わります。麻里の納骨が終わったときに、お寺の住職は言った。だけどKKに眠る場所はない。住職の言うとおりに心の中で祈っても、空を掴んでいるようで虚しさが募るばかりだった。
腰掛けた先にあるガラスの向こうには、KKと二人で取り戻した日常が広がっている。目を閉じて相棒を想う。共に駆けた満月の夜を思い出す。
あの夜から一年。この場所に来てようやく、少しは彼を弔えた気がした。
その日東京タワーをあとにしたのは、もう閉館のアナウンスが流れ始めた頃だった。
それから八月二十二日は家族のお墓参りのあとに東京タワーへ赴くようになった。月日が経って世界が少しずつ変わっていっても、僕の東京タワーはあの日のまま。僕はそれに幾度となく安堵した。
今やあの日の出来事は全て夢だったのではないかと疑うことがある。だけどここへ来るとあの夜のことがありありと蘇って、KKは確かに存在したのだと思い出せる。
故人の記憶が少しずつ薄れていくのは当然なのだろう。家族の記憶すら、日を重ねるにつれて薄くなっているものもある。だけど、ほとんど何も遺していかなかったKKの記憶は僕の頭の中にしかない。いつかそれを忘れてしまうときがきてしまうのが、僕はたまらなく怖かった。
◇ ◇ ◇
「ねえパパ、ママ、ここいきたい!」
テレビを指して、膝に乗せた娘がねだる。昨今珍しく東京タワーが特集された番組には、見知った展望フロアが写し出されていた。
僕は即答できなかった。ここ数年あの場所へは行っていない。結婚して子供が産まれて、お墓参りのあとに、家族でもないうえ墓もないあの人の元へ行くのはどうしても憚られた。
これは僕のエゴでもある。相棒を見送ったあの場所に誰かを連れて行く勇気はなかった。
娘は僕を見上げる。東京タワーで売っている限定のくまのぬいぐるみが欲しいと訴える。僕は結局断る理由も見つけられず、翌週の日曜日に連れて行く約束をした。
たかだか東京タワーへ行くだけだというのに、それまでの一週間はどうしても落ち着かなかった。一体何年ぶりだろうか。もう忘れてしまった彼との会話も一つや二つじゃない。あそこへ行っても、前みたく思い出せないかもしれないことが怖かった。
土曜日の夜に夢を見た。赤い月と誰もいない渋谷の街。僕は歩いて東京タワーへ向かっていく。引き寄せられるように展望フロア行きのエレベーターに乗って、開いた扉の先に居たのは果たしてKKだっただろうか。背中を向けて立っていた人物は、僕を振り返った気がする。
家族と共に来た東京タワーは相変わらず賑わっていた。展望フロアまでのチケットを三枚購入してエレベーターに乗りこむ。今朝見た夢が頭にチラついて僅かに心拍数が早くなるのを感じる。
夢の中で会った人物がKKだった確証はない。だのに、この扉が開いたときに彼の後ろ姿がある気がしてならない。数字の上がって行く電子板を睨みながら、僕は右手にある小さな手をギュッと握った。
一分もしないうちにエレベーターは展望フロアへ到着する。一人で来ていたときよりも扉の開く時間がやけに遅く感じた。
ゆっくりと陽の光が差し込んできて、幼い感嘆の声が上がる。繋いでいた手を振り解いて一目散にかけて行った子は、かつて僕たちが飛び降りたガラス窓へと張り付いた。すごいすごいとはしゃぐ舌足らずな声を聞くと、思わず口角が緩む。
もう僕にとっての東京タワーは、彼を弔うためだけの場所ではなくなってしまったことを自覚する。
「ごめん」
無意識に溢れた言葉に答えるように、煙草の匂いが香った気がした。KKの吸っていた煙草の匂いなんて僕は知らない。だけどきっとこれはKKの匂いだ。一瞬だけ肩を叩かれたような感触がして、僕は息を呑む。
先ほどの謝罪の撤回は間に合うだろうか。代わりに小さく「ありがとう」と呟いた声は、誰に聞かれることもなく喧騒へと消えていった。
◇ ◇ ◇
我ながらいい人生だったと思う。病院のベッドの上で大切な人たちに見送られながら人生を終えられることがこれほどまでに贅沢だったとは夢にも思わなかった。
妻を遺して逝くことに不安がないわけではなかったが、子供たちとの仲も良好だし、彼女一人がしばらく生活できるほどの遺産は遺したつもりだ。
現世にもう、未練はない。最期の息を吐き出す。僕の人生の幕はゆっくりと閉じていった。
昔の話だ。黄泉の世界には何度か足を踏み入れたことがある。鼻をかすめる朝露と香の匂いは、もうほとんど忘れかけていたあの時の記憶を鮮明に思い起こさせた。
「随分いいツラになったじゃねえか」
暗闇の中で懐かしい声が聞こえる。とっくに忘れていたはずの声だった。だけどその声を聞いた途端に彼との記憶が鮮明に蘇る。それに呼応して、ベッドの上で眠ったままだった意識がゆるりと浮き上がった。
「うん。最高の人生だったからね」
「ああ、全部知ってるぜ」
目を開けた先にあったのは、あの日見たのと変わらないままのKKの姿だ。差し出された手を握る。初めて触れた手は存外暖かい。それを支えに引き起こされて、ようやく僕も二十二歳のあの日と同じ姿をしていることに気がついた。もうとっくにKKの歳も両親の歳も追い抜いて、満足に動かせなくなっていたはずの身体が軽い。
「生きたよ。みんなに託された分まで」
「ああ。暁人、お疲れさん」
目尻を下げて表情を緩めたKKに、僕は頷いて笑った。