お見舞いに行く類くんの話司くんが入院して半年が過ぎた。何度も手術をして、その度に頼むから司くんを奪わないでと神様に祈るような日々を過ごした。ショーの練習にはもちろん来られる筈もなく、三人でショーをするしかなかった。
面会に行くと大抵司くんは本を読んだり脚本を書いたりしていて、僕に気付くと嬉しそうに笑うのだ。他愛もない話をして帰る日もあれば、熱心に新しい脚本の説明をしてくれる日もある。寝込んでいる姿はあまり見なかったし、案外そろそろ退院できるんじゃないか、なんて彼のことを何も知らないくせに呑気に考えたりもしていた。本当に、無知だった。
***
その日もいつも通り、学校帰りに病院へ寄った。らしくもなく手土産にお菓子を少しだけ持って、今日はどんな話をしようかな、新しい装置の話でもしようかな、とうきうきしながら病院へ向かうバスに乗った。
面会謝絶の四文字をようやく見なくなってから、二回目のお見舞いだ。前回は天気の悪さからバスが大幅に遅延して時間が遅くなり少ししか話せなかったので、今回こそはちゃんと時間通りに到着してほしい。願いが通じたのか、病院前のバス停に着いたのは時刻表通りの時間だった。
受付で名前を伝えて司くんの病室へ向かう。ローファーが床にぶつかる度に硬い音を立てた。
すっかり見慣れた部屋番号を確認し、大部屋に入る。カーテンで区切られた、一番奥のベッド。緊張で心臓がいつもより速く脈打つ。
「司くん、入るよ」
「おぉ!類か!」
嬉しそうな司くんの声を合図に、カーテンを少しだけ開けて彼のスペースに入る。ベッドの横の丸椅子に腰掛けて、僕は鞄の中を漁った。不思議そうに見つめる司くんの目の前で、小さな紙袋を一つ取り出す。
「はい、お土産」
「ありがとう、類!早速中身を見てもいいか?」
「もちろん構わないよ」
司くんは紙袋の中から丁寧にラッピングされた小瓶を取り出した。ラッピングを剥がし小瓶の中身を見た司くんは、それはそれは嬉しそうに笑った。
「飴だ!」
「良くなったら、少しずつ食べてね」
「そうさせてもらおう」
司くんは飴の入った小瓶を大切そうにベッドの横のテーブルに置いた。そこで僕はふと、小さな違和感に気付いた。
「司くん、メイクをしているのかい?」
「む、やはり分かるか……変か?」
「いや、そんなことはないよ。よく似合ってる」
「なら良かった」
ほっとしたように笑う司くんの顔をじっくりと眺めた。人工的な肌色に、そこはかとない不安を煽られる。
「どうして突然メイクを?」
「お医者さんからようやく許可が降りたからだ!」
いまいち回答がずれている気がするが、本人は気付いていないのか、そのまま話し続ける。
「舞台に立てない日が続いて、なんだか寂しくなってな。少しでもあの時の気持ちを味わいたくて、メイク道具を咲希に持ってきてもらったんだ」
「そ、……っか。良かったね、司くん」
それにしては薄化粧じゃないか、という言葉を寸手のところで飲み込んだ。そもそも顔色が分からなくなるメイクなんて、どうして許可が降りたのだろうか。
「そうだ、類!新しい脚本を書いたんだ!読んでくれないか?」
「ありがとう。ぜひ読みたいな」
脳裏に浮かんだ“死化粧”の文字を、僕は必死に追い払った。縁起でもない。司くんは退院して、また僕たちと一緒にショーをすると決まっているんだから。
「どうした、類。読まないのか?」
「ぇ、あぁ、ごめん。少しぼーっとしてて」
不思議そうに首を傾げる司くんからノートを受け取る。そこに書いてあったのは、前回同様、司くんのいない三人用の脚本だった。
***
咲希くんから連絡があり、司くんはまた面会謝絶の状態になってしまったらしい。家族なら会えるからと、咲希くんはお見舞いに行く度に司くんの写真を送ってくれた。カメラに向かってポーズをとる司くんはやはりメイクをしているようで、それがかえって不気味だった。
日が経つにつれて、今日はお兄ちゃんずっと寝てました、というメッセージが増えていった。そういう日はなぜか写真が送られてこないので、多分司くんが止めてるんだろうなぁ、なんて考えていた。だって彼、カッコいい姿にやけにこだわるし。
司くんに会えなくなって一ヶ月程経った頃、時間制限付きで電話をすることができるようになった。僕はイヤホンをつけて、スマホ画面に映る“司くん”の文字を眺めながら電話をする。画面の向こうからはいつだって明るい彼の声が聞こえてきて、会えないけれど元気そうだという事実に安心していた。
ある日、咲希くんからまた電話が掛かってきた。いつも通り、お見舞いに来たのでお兄ちゃんと話しませんか?と誘ってくる彼女に、ありがとうと返し、司くんと電話を繋いでもらう。イヤホンから聞こえる彼の声はやはり元気で、今日書いた脚本のことを一生懸命話してくれた。早く彼に会って、直接ショーの話をしたい。
うんうんと相槌を打ちながら聞いていると突然、少し待ってくれ、と言われた。看護師さんでも来たのかな、と思っていた矢先、パッと画面が切り替わった。今まで見ていた“司くん”の文字が消え、画面が一面白くなる。スマホが壊れたのかとも考えたが、焦らずよく見ると病室の天井のように見えてくる。もしかして、消音ボタンと間違えてテレビ電話を押してしまったのかもしれない。そんな司くんのうっかりに微笑ましい気持ちになる。今は黙っていて、後で教えてあげよう。きっとびっくりするだろうな。
そんな僕の想像を裏切るようにイヤホンから聞こえてきたのは、看護師さんでも家族でもなく、紛れもない司くんの声だった。
『ぇ、っ、ぅっ、う゛ぇっ』
ただただ苦しそうな声に、僕はその場で固まった。お兄ちゃん大丈夫?と不安そうに聞く咲希くんの声からは焦りは感じられなくて、背中をさする音まで聞こえてくる。もしかして、慣れているのか?だって普通なら、目の前で突然兄が吐いたら驚く筈だ。それから数分間ずっと、司くんはつらそうに声を漏らしながら吐いていた。僕は何も言えなかった。
『ほっ、げほっ、すまん、咲希』
『大丈夫だよ。少し落ち着いた?』
『あぁ……多分、大丈夫だ』
『分かった。今ナースコール押したから、すぐ看護師さん来ると思うよ』
『……すまん、類の電話、切っておいてくれないか?まだ、話せそうにない』
『うん、分かったよ』
弱々しい司くんの声が微かにしか聞こえなくて、咲希くんの声がやけに大きく感じられた。画面が白から黄緑色のカーテンへと変わる。咲希くんが動かしたスマホが、一瞬チラリと司くんを映した。顔は紙のように白く、げっそりと痩せたその姿が、目に焼き付いて離れなかった。最後に送られてきた写真と比べても、変わり果てた姿だった。僕はようやく、メイクは顔色を隠して僕に心配させないためだったんだと気付いた。
『あ!テレビ電話になってる……すみません、類さん!あの、聞こえちゃってましたよね……?』
「えっと……ごめん、聞こえてたよ」
『ですよね!うわぁあごめんなさい!お兄ちゃん、最近あんまり調子良くないみたいで、いつもああやって戻しちゃうんです……すみません、今日はもう話せそうになくて……』
「全然大丈夫だよ。咲希くんも大変だと思うけど、司くん早く良くなるといいね」
『はい……それじゃあ、失礼します』
「うん、ありがとう」
プツンと音を立てて通話が切れた。なるべく司くんに聞こえないようにするためか、咲希くんは終始声をひそめて話していた。
耳元で苦しげな司くんの声が蘇る。今にも死んでしまいそうな司くんの姿を思い出して、僕はどうすることもできない悔しさをため息と共に吐き出した。