トラウマオメガバ🎈🌟資料をまとめる司の横で、類がグッと身体を伸ばす。今回の話し合いはかなり長引いたので、疲れるのも無理はないだろう。くぁ、と欠伸をする類を横目に、司はクリアファイルに入った資料を鞄にしまって上着を羽織った。外はほんのり肌寒くなってきている。家に帰り着く頃には、もっと冷え込んでいるだろう。
「それでは、本日は貴重なお時間をいただきありがとうございました!」
「こちらこそありがとう。また色々詳細を伝えますね」
「分かりました。よろしくお願いします!」
フェニックスワンダーランドから電車で40分ほどの距離にある遊園地。司たちの公演の様子を映した動画を観て、ぜひうちでもショーをしてくれと声を掛けてくれたのだ。細かいことは慶介たちに相談しないと決められないが、まずは話だけでも聞いてほしいと相手も譲らなかったので、こうして司と類が足を運んだのだった。
正直なところ、話を聞く限りでは悪い点はほとんど無い。現地に到着するまでやや交通が不便という点を除けば、今の司たちにとって引き受けるデメリットは無いと言っても過言ではない。ステージも広く、設備も整っている。今すぐここで「引き受けます」と答えることができないのが、役者として悔しい。
「あ、すみません。もしお二人が良ければ、うちの施設を見て行きませんか?うちのステージ、色々なアトラクションから見えるんですよ」
職員の提案に、司は二つ返事で頷いた。職員の解説付きでパーク内を回れるのはまたとない機会だ。脚本を書く時に参考にできるし、ステージの見え方は演出にだって影響するだろう。
「類はどうする?」
「うーん……すごく興味深い話なんだけれど、実はこの後、注文していたパーツを受け取りに行かないといけなくてね。残念ですが、今回は遠慮させていただきます」
ぺこりと頭を下げた類に、職員も「いえいえ!またいつでもいらしてください!」と返事をした。
荷物を持って事務室から出ると、類は「帰り、送っていけなくてごめんね」と司にそっと囁いた。類と司は、数ヶ月前から交際を始めていた。誰にも受け入れられずずっと孤独だった類も、ジッと未来を見据えて動くリアリストな司も、“運命の番”なんてこれっぽっちも信じていなかった。どうせ誰かが考えた空想だと頭の隅へ追いやったそれは、二人が初めて顔を合わせたその瞬間事実は小説よりも何とやら、とでも言いたげに姿を見せたのだった。
学生ということもあり、二人は清い関係のまま過ごしていた。深い触れ合いは高校を卒業してから、という決まりを提案したのは、意外にも類だった。それどころか、まだ番にすらなっていない。立場的に弱いΩは、何かあった時には必然的に被害者として扱われることが多い。司の未来への道に傷をつけたくない、未成年のうちはまだ責任が取れないから、と類はそういった関わりを強く拒んだ。司としても、まだ急ぐようなタイミングではないし、何より類がこんなにも自分を思って守ってくれていることが嬉しかった。
無事に園内の散策を終えた司は、付き添ってくれた職員に丁寧に礼をするとそのまま遊園地を出た。帰りはラッシュに巻き込まれるかもしれんな、と考えながら駅へと歩いた司は、やはりホームに溢れかえる人混みを見てげんなりした。この空間はあまり好きではない。電車の中でΩが襲われた、なんて事件はたまに耳にする。まさか自分に限ってそんなことは無いと思うが、やはり少なからず警戒はしてしまうし、何よりあの圧迫感が苦手だった。
ホームにできた長い列に並んだ司は、やがて滑り込んできた電車に押し込まれるようにして乗り込んだ。足の踏み場も無いような鮨詰め状態に、気が滅入る。ぎゅうぎゅうと四方から身体を押し潰される感覚に息が詰まりそうになったその時だった。
「ッ、ぁ、……え、?」
ガクンと足から力が抜ける。幸い人に押されていたおかげで崩れ落ちることはなかったが、周囲の人の壁にもたれかかるように辛うじて立っている司は、あまりに突然の出来事に驚くことしかできなかった。身体が燃えるように熱い。自然と息が上がり、瞳が潤んでいく。
「は、ぁっ、……っ、ん、」
ヒートだった。油断していた。早くここから去りたい。類に会いたい。いつもみたいに抱きしめて、キスをしてほしい。
そんな司の気持ちとは裏腹に、魔の手は確実に伸びていた。
「……ひっ!ん、……ぁ、ん……」
さわさわと尻を撫でられる。やがて手は一本から二本に増え、司はゆっくりと車両の隅に追いやられていった。怖い。嫌だ。やめてくれ。でも、触られて悦んでいる自分の本能が、吐き気を催すほど不快で、気持ち悪い。
司はなけなしの理性で、鞄の中に常備してある抑制剤を取り出し、そのまま錠剤を飲み込んだ。固い何かが尻に押し付けられている。怖い。怖い。怖い。この状況も、呑み込まれていく自分も、何もかも怖い。
司は最後の抵抗とばかりにうなじを両手で覆った。絶対にここだけは見せてはいけない。最悪身体は諦めがつく。でも、でも。類のために、ここだけは取っておかねば。
下半身に感じた苦しい異物感と痛みを最後に、司の記憶は飛んでいる。
ふと気がつくと、電車は終点の駅に到着していた。座席に腰掛けていた司は慌てて荷物を持つと、勢いよく立ち上がった。
どろり。
「は、っ……?」
考えるな。心の奥の自分が、そう叫んでいる。
「はっ、っ、はぁ、……!」
思い出すな。目も耳も塞がれるような、柔らかな拒絶感。でも。
「ぁ、あっ、あぁあ……!」
裂けたような痛みを発する後孔も、腹の中の異物感も、噛み跡だらけの血塗れの手も、何もかも本物で、現実だ。
それから司は、どうやって家に帰ったのか覚えていない。記憶のフィルムの端は、必死に風呂場で身体を洗い、滑稽な格好で何かを尻から掻き出そうとしている自分の姿から後ろが焼き切れている。思い出そうにも、もどかしいほどそれができない。
スマホには類からのメッセージが数件届いていた。「僕は家に着いたよ。司くんも帰ったら一度連絡をしてくれると安心できるかな」「司くん大丈夫かい?」「咲希くんから司くんが帰ってこないと連絡があったけれど、今どこにいるんだい?大丈夫?」それらのメッセージに、司は「すまん、今帰った。疲れていて電車で寝てしまった。心配させてすまない」とだけ返信をした。爪が割れていて酷く痛むが、なぜそうなっているのかは分からない。疲れた。
シャワーを浴びて濡れた髪のままベッドに倒れ込んだ司は、スマホを充電器に繋ぐとゆるゆると目を閉じた。無意識に手がうなじに伸びて、その後すぐにもうこんなことしなくていいんだという謎の安心感に包まれた。自分のことが、自分でも分からない。怖い。
***
ガシャン、とスプーンが床に落ちる音が響いた。類に訝しげに見つめられ、ようやく司は身体を動かすことができた。落としたスプーンを拾い上げると、誤魔化すように笑みを浮かべた。
「すまん、はは……手が滑ってしまった」
シンと静まり返る。せっかくの類とのデートが、これじゃ台無しだ。
例の遊園地での公演を全てやりきったワンダーランズ×ショウタイムは、四人で無事に打ち上げを終えた。夕方頃に解散し、そこから類と司はデートに出かけた。役者として主役を演じきった司と、演出家として舞台を作り上げた類を労うための、二人きりのお疲れ様会だった。高校生ということもあり派手な店には入れないが、普段よりほんの少しだけ背伸びをしたところには行ってみたい。そんな気持ちから二人は、家族連れでも入れるようなイタリアンのレストランに入ったのだった。
最初は楽しかった。ショーのここが良かった、このシーンはこう改善すれば他のショーでも活かせる、と話す時間は、二人にとって何より楽しかった。しかし、事態は急変する。
おかしいと感じたのは、真っ白な大根のポタージュが運ばれてきた時だった。なぜか司の手がカタカタと震え始めたのだ。類に気付かれないようにテーブルの下で手を擦り合わせたり、手首をマッサージしてみたりしたが、一向に良くならなかった。自分でも原因が分からない以上、類に相談するのも気が引ける。それにこの程度、打ち明ける必要は無い。そう判断した司は、スプーンを手に持ちポタージュを口に運ぼうとしたのだった。
そして冒頭に戻る。司の手に握られたスプーンが、天井の照明を鈍く反射する。乾いた笑い声はあっという間に消えて、類は疑いの眼差しを司に向けた。
「体調でも悪いのかい?」
「……い、いや!そんなことはないぞ!」
ぐ、と類の眉間のシワが深くなった。まずい。このままだと自宅に強制送還されて、デート自体が無くなってしまう。体調は悪くない。むしろいつもより元気なくらいだ。何とかして類に、大丈夫だと思わせなければ。
司は持っていたスプーンを半ば放るように机に置き新しい物をを握ると、ポタージュを掬い急いで口に突っ込んだ。元気に食事をしていれば、類を安心させられると思ったからだった。だがその直後、司はスプーンを机に叩きつけ両手で口を覆った。顔から血の気が引いていき、肩がぎくんと強張る。
「ん……んぐっ、」
「司くん……?」
何かを察したらしい類が、スプーンを置いて席を立った。こくこくと喉を動かしながら目を閉じてジッと耐えていた司は、類の手が背中に触れる直前で席を立つと、早足でトイレへと向かった。額に脂汗が滲んでいる。類も慌てて着いて行き、乱暴にトイレのドアを開けた司の後ろから何度も呼びかけていた。
「司くん!大丈夫!?」
司からの返事は無い。個室に倒れ込んだ司は、類の声が聞こえているのかいないのか、何も言うことなく便器にもたれかかった。
「、っ、うえっ、」
ぼたぼたと先程飲み込んだものが零れていく。ぎゅっと瞑っていた目を開いた司は、吐き出されたものを見てさらに顔を真っ青にすると、再び胃液を吐き出した。涙が止まらない。泣きたいなんて思っていないのに。
ずび、と鼻をすすった直後、背中にふわりと何かが触れた。無意識のうちにそれを思いきり振り払った司は、その正体を知って絶望した。右手を押さえた類が、驚いたように目を見開いて司を見つめていたのだ。司の不調を少しでも和らげようと行動した類の善意は、司本人によって叩き落とされたのだった。
己の行動を理解した瞬間、司は気が遠くなった。だって、相手は類だ。類は自分に危害を加えたりしない。そんなこと分かっているのに。それでも、頭では分かっていても、類を拒んでしまった。そのことが、司を酷く動揺させた。
「っひゅ、……ごめ、なさ、」
「司く、」
「ごめ、なさい、!っぁ、オレ、ちがう、から!」
「司くん落ち着いて」
「ちがう、っ、オレは……!ぜんぶ類にっ、……」
全部類に、あげたかったのに。
その言葉が頭の中に響き、司は全てを思い出した。あの日、知らない人に触られて、抵抗することも叶わず犯されて、中に出された。類が守ってくれた身体が、いとも容易くぐちゃぐちゃにされた。その記憶が蘇り、取り戻しのつかないことをしてしまったのだと司は自分を責めることしかできなかった。
心配そうに顔を覗き込む類は、司の肩に伸ばしかけた手を引っ込めると、咄嗟に手に掴んで持ってきていたスマホを開いた。
「司くん、ご家族に連絡して迎えに来てもらおう。体調が優れないのに無理をさせたくはないよ」
「…………いや、平気だ」
「……はぁ……平気に見えないから言っているんだ」
「類に、謝らないといけない」
「え……?」
よろよろと立ち上がり向き直った司は、大きな両目に涙をいっぱいに溜めて、類と目を合わせた。
「っ、オレ、……妊娠、したかもしれない」
「は、……?」
ガツンと頭を殴られたような衝撃に襲われ、類は目を見開いた。妊娠?司くんが?どうして?
「……えっと、ごめん、どういうことだい?」
類の困惑した表情を見て、司はくしゃりと顔を歪めた。類は分からなくて当然だ。事情は何も話していないんだから、こちらには説明する義務がある。しかし、あの地獄のような出来事をもう一度思い出して口に出すなんて、耐えられる自信が無かった。
司は深く深呼吸をすると、へらりと笑った。少しでも心を軽くするためには、もう笑うしかなかった。
「今日、ショーをした遊園地で話を聞いた日があっただろう?その日の帰り道、電車でヒートが来て犯されたんだ。中に出されたから、赤ちゃんができたかもしれない、というだけの話だ」
「な、にそれ……」
呆然とする類を前に、司はあぁ、と声を漏らした。絶望的な話しか出せなかったが、良いことだってあったじゃないか。
「ここは、ちゃんと守ったぞ」
柔らかい手つきでうなじを撫でた司を見て、類はその場に崩れ落ちた。あの日、自分が先に帰ったから。きちんと司を見ていなかったから。そのせいで司は大きな傷を負った。恐らくポタージュを吐いてしまったのは、自分を汚したものと酷似していたからだろう。お願いだから、そんなに辛そうに笑わないでくれ。
「……病院とか、……検査は?もうしたの……?」
「な、さけない話なんだが、まだできていない」
ポロリ、と涙が司の頬を伝った。目の前の少年は怖いのだと、類はやっと理解する。壁に手をついて立ち上がり、真っ直ぐに司を見つめた。
「じゃあ今から検査薬を買って、僕の家で調べよう?」
司はフルフルと首を振った。ぱたた、とくすんだタイルに涙が落ちて行く。
「……検査薬、は、……っ、その、…………」
「なら病院に行こう。そっちの方が確実性が高いから」
類の発言に少しだけ迷う様子を見せた司は、やがてふるふると首を横に振った。
「デート、終わっちゃうだろう?」
この期に及んでなんでデートなんて気にするんだ。類は思わず手が出てしまいそうになったが、愛しい恋人に対してそんなことできるはずもなく、ただグッと息を詰まらせることしかできなかった。
「ッ!そんなもの、これから何度だって行けるじゃないか!」
「赤ちゃんができていたらどうするんだ」
司の瞳は真っ黒だった。いつものように輝いていない。恋人をこんな風にしてしまった第二の性が恨めしくて、悲しくて、何もできない自分の無力さが情けなかった。
「赤ちゃんができていても、デートはできるよ」
「オレは類以外の赤ちゃんなんて欲しくない」
今までの彼なら、軽率に命を否定することはしなかった。きっとこうなるまで追い詰められてしまったんだ。類は胸が苦しくなった。この数ヶ月、司は一人でずっと耐えていたんだ。その恐怖は計り知れない。
「……とにかく、病院には行こう。司くんはそうなることを望んでいないけれど、もし赤ちゃんができていたとしたら、……大変だよ」
司は唇を噛み締める。ぺたんこの腹をぎゅっと抱え込むと、こくんと小さく頷いた。はらはらとこぼれ落ちて行く涙が、次々とトイレの床に水玉模様を作る。
***
あれから司は満員電車に一人で乗れなくなった。カタカタと震える手を握りしめるのはいつも類の役目で、その柔らかな手に触れる度に世界はなんて冷たいんだと実感した。
司は妊娠していなかった。医師から結果を聞いて、安心のあまり座っていた椅子から倒れそうになった司を支えたのは、記憶に新しい。
牛乳も、シチューも、ヨーグルトも、司は飲み込むことができなかった。それを情けないと、ごめんなさいと誰に言うでもなく泣き叫ぶ司は、やがて人の前で食事をすることをやめた。同じテーブルで料理を楽しんでいる誰かを傷付けるくらいなら、一緒に食べなければいい。そう結論付けて、何かと理由を探してはこっそり逃げていた。
類は、自分にできることはないかと聞いてみたが、側にいてくれるだけでいいと微笑まれてしまった。力不足を痛感する半面、他の人にはできないことを任されているという自信が、たったそれっぽっちの小さな自信で、司の隣に立つ自分を許せていた。