可哀想な司の話ドアの鍵を開けた瞬間突然足から力が抜けて、司はガクンとその場に崩れ落ちた。床についた手はブルブルと震え、目からはボタボタと涙が溢れ出す。早く家を出なくては。電車に間に合わなかったら、練習に遅刻して怒られる。
「う゛っ、」
猛烈な吐き気に襲われ、司は手で口を押さえることもできないままその場に吐いた。類にもらった洋服が吐瀉物で汚れていく。大事に手入れをしていたコートも、誕生日にプレゼントしてもらったスラックスも、ほとんど胃液と水だけの嘔吐物がじっとりと湿らせていく。
練習に行きたくない。あんな仕打ちを受けるくらいなら、一日くらい休んでもいいじゃないか。
「だめだ……家を、出ないと……」
休みたいなんて、甘えだ。いくらなんでも自分勝手すぎる。今回の舞台を楽しみに待ってくれている人だっているのだ。
司は無理やり立ち上がり、着替えるために自室へ向かった。新しい服に着替えながら、司は脱ぎ捨てられた衣服たちをぼんやりと眺める。洗濯機は帰ってきてから回せばいいか。時間も無いし。
再び玄関に行くが、ドアノブに手を掛けても何故か力が入らない。もはや鍵を閉める気力すらなく、司はドア伝いにずるずるとしゃがみ込んだ。じわりじわりと視界が滲み、気が付けば涙が頬を濡らしていた。もう、今家を出ても電車には間に合わない。ならいっそ寝てしまおうか。どうせ練習に出たって、いつも通り無視されて、嫌なことをされて、笑われるだけなのだから。
司はドアの前で横になり、背中を丸めて足を抱えた。玄関の床が冷たい。それでも不思議と瞼は落ちてきて、鞄の中でスマホが鳴らす着信音を聞きながら、ゆっくりと眠りについた。
***
三ヶ月前。海外に演出を勉強しに行くことになったよ、と類は嬉しそうに言った。司は驚きのあまり、食べていたハンバーグを飲み込み損ねて盛大に咽せた。急いで水を飲み、なんとか呼吸を整える。
「げほっ、それで、海外に行くって、どういうことだ?」
「実は去年からずっと、向こうの劇団から声を掛けてもらっていてね。丁度こっちでの舞台もひと段落ついたし、三ヶ月程向こうで演出を勉強してみようと思ったんだ。……どうかな?」
「どうかなも何も、すごいじゃないか!海外の劇団から声を掛けてもらえることなんて滅多にないぞ!」
「じゃあ、行ってきてもいいかい?」
「あぁ、もちろんだ!行ってこい!」
「ありがとう、司くん!連絡はきちんとするし、お土産も買って帰るからね」
「別にオレのことは気にしなくていいが……」
「あぁでも、そうか……三ヶ月向こうにいるとなると、その分司くんに会えなくなるのか…………ごめん司くん、もう少し真剣に考えることにするよ」
「やめろやめろ!もう大人なのだから三ヶ月くらい平気だろう!決意が鈍らんうちに、さっさと行ってこい!」
「えぇ……司くんは僕と会えなくても寂しくないのかい?残念だなぁ……僕嫌われちゃったのかなぁ……よよよ」
「泣き真似をするな!全く……オレだって、お前に会えなくなるのは寂しい。が、それよりも類が演出家として成長して帰ってくることの方が楽しみだ。だから応援してるぞ」
「……ふふっ、やっぱり君には敵わないなぁ。ありがとう、行ってくるよ」
眉を下げて嬉しそうに笑った類は、すりおろした人参の入ったハンバーグを口へ運び、やっぱり司くんの作るご飯はおいしいね、などとぬかしていた。野菜にも気付かない程緊張していたらしい。可愛いやつめ。
「あぁ、そういえば、オレも先週新しい舞台のオファーをもらったんだ」
「へぇ……どんな舞台だい?」
「これだ」
司はスマホに届いたメールを見せた。主催の劇団の名前を見て、類は目を丸くした。
「こ、この劇団って!かなり有名なところじゃないか!すごいよ司くん!」
「そうだろうそうだろう!練習期間も丁度類が海外に行っている間だし、帰ってきたら素晴らしい舞台を見せてやれるように頑張るからな!」
「うん、楽しみにしているよ」
愛し子を見つめるような類の視線に少しくすぐったくなりながら、司も気合を入れ直した。類がいなくても、絶対に一人で成し遂げてみせる。もらった役もそこそこ大きな役だったし、成長した姿を見せる良い機会だ。
確か来週顔合わせがあった筈だと考えながら、司はポテトサラダを口へ運んだ。
***
バシャン、と広い会議室に水の溢れる音が響く。司は前髪からポタポタと垂れる水とびしょびしょに濡れた服を交互に見て、ようやく自分に水が掛かったのだと理解した。
「あ、天馬さん、ごめんなさーい!手が滑っちゃって」
若い女性の声と、クスクスと笑う周りの人たち。顔合わせの筈じゃなかったのか、と考えながら、司はくしゃみを一つした。冷房のよく効いた部屋は、容赦なく司の体温を奪っていく。
バケツを片手に持った彼女は、ヒロイン役の役者らしい。確か今回の舞台の主役をやる役者と付き合っていると、以前何かのインタビューで公言していた。
「あの、どうして、水」
「え?だから手が滑ったって言ったじゃないですかー!」
「……そうですか」
何となく、居心地が悪い。主催の劇団に司がお呼ばれの形で参加している舞台だからか、他の役者同士の作り出す圧倒的アウェーの雰囲気が、会議室全体を埋め尽くしていた。
役者がいじめに遭ってショーや舞台の世界から消えていく話は、同じ役者をしていれば嫌でも時々耳に入る。以前類が気になると言っていた役者も、酷いいじめに遭って舞台に立てなくなり、姿を消した。ホームページに記載された引退するという旨のご報告を読んだ類が、許せない、と静かに呟いていたのは記憶に新しい。
だからこそ、司は役者をやめる訳にはいかなかった。こんな低俗な人間のために自分の人生を捻じ曲げるなんて、悔しすぎる。帰ってきたら司くんにもたっぷり演出をつけるからね、と嬉しそうに旅立って行った類のためにも、この舞台だけはやり抜かなければならない。
「すみません。服が濡れてしまったので、着替えてきます」
あくまで冷静を装って、動揺を悟られぬように会議室を出る。まさか自分がターゲットになるなんて、想像もしていなかった。たまたま会議室が入っているビルの中にコンビニがあったので、タオルとTシャツを一枚ずつ買った。トイレで着替え、濡れた髪をタオルで拭く。まだ多少驚いてはいるが、かなり落ち着いてきた。これなら顔合わせに戻れるし、その後の脚本の読み合わせにも参加できる筈だ。
司はコンビニを出て会議室に戻るために歩く。水をかけられたくらいなんだ。もっと酷い実験だって散々類にされてきたじゃないか。大丈夫だ。オレは負けたりしない。司は大きく深呼吸をしてから、ノックをして会議室の重たい扉を開けた。
「遅れてすみません。戻りました」
返事は無い。どうやら外に出ている間に、この中では司を無視することに決まったようだ。誰一人目を合わせてくれない会議室に入り、自分の席につく。幸い脚本には何もされておらず、司はひとまず安心した。
「それでは読み合わせ始めていきます」
舞台監督の声に全員が返事をし、脚本の最初のページを開く。司も同じように脚本を開き、くしゅんと小さくくしゃみをした。寒さにぶるりと体を震わせながら台詞を目で追い、自分の番で読み上げる。それを30分程繰り返して、一度休憩となった。
全員に配られている筈のペットボトル飲料が司の席には無かったので近くにいた役者に尋ねたが、やはり無視されて終わった。今日はたまたま水筒を持参していたので何とかなったが、危ないところだった。次回の練習からも、飲み物は自分で持ってこないといけないな。
休憩が終わり、読み合わせが再開する。特に大きなトラブルも無く順調に進み、最後まで読み切ることができた。次の練習日と練習場所の連絡があり、その日は解散になる。主役の役者にだけでも挨拶をしておこうと思い声を掛けたが、適当にはいはいと返されるだけで全く相手にされなかった。舞台監督と演出家の人にも声を掛けたが、司にオファーをくれた筈の舞台監督までバツが悪そうに司を邪険に扱うものだから、きっとオレのいないところで冷たく対応するように決まったんだな、と考えた。寒い会議室から出たくて、司は荷物をまとめると挨拶もそこそこに早々に部屋を後にした。
家に帰り、夕飯の支度をする。鍋に二人分のうどんを入れたところでようやく、そういえば類は海外に行っているんだったと気付いた。水に浸かったうどんを取り出す訳にもいかず、そのまま司には多すぎる量のうどんを茹でていく。
リビングの机に置いておいたスマホが、突然バイブ音と共にメロディーを奏で始めた。画面には類と表示されている。慌てて火を消し電話に出た。
「もしもし、類か?」
『こんばんは、司くん。今いいかい?』
「あぁ、大丈夫だぞ」
『ありがとう。丁度ホテルに着いたから少しゆっくりしているんだけど、そっちはどうだい?』
「夕飯を作っているぞ。実は、間違えて類の分まで作ってしまったんだ。また帰国したら美味しい料理を作るからな!」
『可愛いねぇ、司くんは。君の手料理を楽しみに、僕も頑張るとするよ。そういえば、今日は顔合わせだったんじゃないかい?良ければ雰囲気とか教えてほしいのだけれど』
「雰囲気か……みんな優しい人たちだったぞ!」
『そっか。なら安心だね。頑張ってね』
「ありがとう。類も、慣れない場所で大変だと思うが、頑張ってくれ!」
『うん、ありがとう。それじゃあまた連絡するからね』
「うむ。またな」
『ばいばい』
電話が切れた。司はキッチンに戻り、コンロに火をつける。類に嘘をついてしまった。司は自己嫌悪で顔を歪めた。本当は、正直に言った方が良かったのかもしれない。それでも、メールを見せた日の類のあの笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。あんなに喜んでくれた類の期待を裏切りたくない。それに、共演者に水を掛けられた、なんて言ったら、類を悲しい気持ちにさせてしまうだろう。それだけは嫌だった。
あと数ヶ月、無視は続くだろうが、それくらいなら耐えられる自信がある。司は別の鍋にめんつゆを注ぎながら、押し寄せてくる不安を必死に抑え込んだ。
***
練習場所が広いスタジオの日もあれば、ホールを使える日もある。その日はスタジオだった。もう脚本はほとんど頭に入っているので、いちいち見る必要は無い。それでも演出のメモを書いたりしなければならないので、常に手元に置いてないと困る。
「じゃあこのシーンはやっぱり上手から出てきてください」
「分かりました」
淡々と伝えられる指示に返事をして、メモをとるために脚本を開いた。瞬間、ページの隙間からズルリと大きなムカデが落ちてくる。
「ひっ、うわぁああああ!」
司の声がスタジオに響き渡った。反射的に脚本を投げ捨て、その場で腰を抜かして座り込む。震えながら両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じて助けを待つ。しばらくして、ポンポンと肩を叩かれた。もう平気なのかと思い目を開けた途端、目の前に飛び込んでくる赤黒い物体と無数の足。
司はひゅっと息を呑み、そのまま意識が遠のいていった。暗くなっていく視界の中で、主役の男がムカデを摘みながらゲラゲラと笑っていた。
耳元で何かが鳴っている。浮上しかけた意識の中で、司はまるで人の声みたいだ、と考える。微かな呻き声と共に目を開けると、頭の横に座り込んださっきの男が、スマホ片手にニヤついていた。スマホからは大音量で人の叫び声が流れていて、少ししてようやくそれが自分の声だということに気付いた。
「お、やっと起きたんだ〜」
「……すみません」
「マジでこれ面白すぎるでしょ。一生聞いてられるわ」
「あ、あの、ムカデは、」
「あ?あんなんオモチャに決まってんだろ」
司はほっと息をついた。相変わらず目の前のスマホからは自分の叫び声が流れていて、あまり良い気持ちはしない。
「その、オレの声のやつ、データ消してもらえませんか?」
「は?」
「あまり、聞いていて楽しくない、ですし、」
ベチンッ、と音が響く。頬がじんじんと熱を持ち始め、司はぶたれた頬にそっと手を当てた。なぜぶたれたんだ。全く意味が理解出来ない。
「お前さ、調子乗ってるだろ」
「……え、」
「神代類に演出つけてもらって、その舞台で有名になってさ。演出家のおかげで売れただけの新人が、生意気にオレらと同じ舞台に立ってんじゃねぇよ」
言わば、逆恨みだった。司が売れ始めたのは類のおかげだと言い張るこの男は、自分より少し若い司がそこそこの数の舞台に立ち始めたのが納得いかないらしい。確かに、類はすごい。最近はテレビや雑誌でも名前を見るようになった。類はオレを、正真正銘のスターにしてくれた。でも、オレだって何の努力もしていない訳じゃない。毎日のトレーニングだって欠かさなかったし、色々な舞台を観に行って演技を吸収してきたのだ。
「類はすごい、ですけど……オレも類の演出について行けるように、頑張ってるんです。だから」
「だからこんなことやめてくださいって?……ぷっ、やめる訳ねーだろ!」
ドッと笑い声が浴びせられる。何も悪いことはしていない筈なのに、司はカァッと顔が熱くなっていくのが分かった。
その後すぐに司の音声データは舞台関係者全員に転送されてしまったようで、あちこちから自分の悲鳴と面白がって笑う声が聞こえてきた。どうしてこんな事をされないといけないんだ。こういう時は、どうすればいいんだ。
今の立ち位置から脱却する術を、司は知らなかった。我慢していれば、いつか終わる。いつかみんな自分に飽きて、この状況もなんとかなる筈だ。そう考えて、司はこぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えていた。
***
スマホが鳴る。ちらりと時計を見やるとやはりいつも通りの時間で、司は小さくため息をついた。電話がかかってくるのはいつも大体同じ時間なのだ。類と表示された画面をスワイプし、電話に出る。もちろん口角を吊り上げて、無理やり声のトーンを明るくして。
『こんばんは、司くん。今大丈夫かな?』
「あぁ、大丈夫だぞ!」
『ふふっ、元気そうで安心したよ。練習はどうだい?うまく進んでいるのかな?』
「もちろんだ!今日も新しいシーンの稽古をしてきたんだが、舞監の方に褒めてもらえたぞ!」
『流石だね』
「類はどうだ?」
『僕も今日、あ、日本だとまだ今日なのかな?時差があるから悩むけれど、……実は、少しだけ演出をつけさせてもらえたんだよ』
「何っ!?すごいじゃないか!」
『ふふっ、ありがとう。言葉も文化も違うからなかなか難しいけれど、とても良い経験になるね』
「そうかそうか。さらに成長した姿を、楽しみにしているぞ!」
『うん。僕も司くんの舞台、楽しみにしているからね』
ぐっと喉が詰まる感覚。楽しみになんて、しないでくれ。期待しないでくれ。いくら有名な劇団の中で演技をしたからといって、必ずしも良い舞台に仕上がるとは限らない。褒めてなんてもらっていないし、練習だって決してスムーズに進んでいる訳ではない。
それでも、類に本当のことを話して心配させるくらいなら、司は嘘をつくことを選んでしまう。類だって、慣れない海外での生活で不安に感じることがある筈なのだから、そこでさらに負担を掛ける訳にはいかない。下手するとあの男は、今から帰るから待っててとも言いかねない。司は大きく息を吸った。
「それじゃあ、この後も頑張ってくれ!」
『ありがとう、頑張るね。おやすみ、司くん』
「あぁ、おやすみ」
プツンと電話が切れる音がした瞬間、ふっと頬から力が抜けるのが分かった。疲れた、と無意識に口から言葉が溢れて、司は驚いた。類に申し訳なかった。嘘をついて笑う自分が、類と楽しく話せない自分が、全部嫌になって、司は開いていた脚本もそのままに部屋の電気を消し、布団に潜り込んだ。枕元ではスマホが再び鳴り始める。画面に類と表示されていた。何か伝え忘れたことでもあったのだろうか。
「……今日はもう、いいか」
笑顔を浮かべるのにも、もう疲れてしまった。司はスマホに充電器を差し込むと、薄手のブランケットを頭まで被りそのまま目を閉じた。少しすると、着信音もバイブ音も、何もかも聞こえなくなった。