傘は君が持ってね 夜の散歩が好きだ。猫の遺伝子がそういう気分にさせるのか、元々そういう性格なのか、朝が早いのよりも、夜が遅い方が好きだった。どの季節でも、夜の方が良い匂いがする気がする。最近は春が近いから、寒すぎず暑すぎずで服を選ぶのが楽しくもなってくる。
最近よく一緒に飲みに行く人が、近くにいると言うので、チャットで喋りながら街の方に向かうまでは、気分は上々といっても良かった。
「……最悪なんだけど」
人通りの多いところまでついてすぐに、ザァッと周りで音がし始めて、冷たい雨が降りかかる。
急いで近くのお店の出入り口の傍に避難をさせてもらう。少しだけひさしがついていて、身を小さくしていれば雨は当たらなかった。
背後を見ると、ショーウィンドーの中には最近発売されたというハードカバーがいくつか並んでいた。
「はー……どうしよ」
髪を軽く叩いて水滴を落として、濡れた手を腰のあたりで拭う。服に合わせて鞄を選んだから、今日はハンカチを入れる余裕が無かった。
目的地まではまだ結構距離がある。雨に降られたから雨宿りをしている、とメッセージを打ったきり、返事が返ってこなくなった画面を見ていると、「良かったらどうぞ」と声をかけられた。
顔を上げると、大柄な人が、俺に向かって黒い傘の取っ手の方を差しだしてきていた。長めの白髪に、焦げ茶の丸い耳。熊だ。
お店から出てきたのか、反対側の手には茶色い紙に包まれた本らしきものを持っていた。
そしてその人の顔には見覚えがあった。勤め先のカフェに来てくれる人だ。良く来てくれて、お気に入りの席がいくつかあって、種類の少ないお茶ばかり頼んでいる。顔と身体がちょっと好みだから、同僚に頼んでよくテーブルに行かせて貰ってるけど、注文に関すること以外はあんまり話したことがない。
どうしようかと黙っていると、俺が警戒していると思ったのか、彼は大きな手を開いて見せた。
「あ、怪しいものじゃない。結構降ってるし、これからどこかに行くなら困るんじゃ無いかと思って」
俺はこれから帰るだけだし、と身体に対して比較的小さい声で、その人は付け足した。
「せっかく綺麗にセットした髪が、濡れて台無しになったら大変だ」
「……そういうことも、言えるんだ」
「え?」
「いつも、一人で座って、むすってしてるから、もっと気難しいのかと思った」
そう伝えると、ふわっと緩むみたいに目の前の顔が笑った。
「客一人一人の顔を覚えてるのか? すごいな」
「そ、んな感じ。うん、そう」
正確に言うと、ひとりひとり覚えてるわけではないんだけどね。
相変わらず傘を差し出されたままだけど、思っていたよりも気のよさそうなこの人を、自分のせいで濡らすわけにはいかなかった。せっかくだけど、と傘は彼にそっと押し返した。
「申し訳ないから、これは大丈夫です」
そうすると、今度は目を丸くされた。意外に表情豊かな人なのかな。
「……なにか?」
「あぁ……いや、意外と丁寧に言葉を返してくれるから」
一瞬嬉しくなりかけてから、言われたことをゆっくりと頭の中で転がした。
「それって、俺が、誰にでも自分が好きなように話すやつだって思われてるってこと?」
「あー、いや、その……」
片脚に体重を移して腰に手を当てて彼を睨むと、気まずそうに目をそらされた。まだ口の端で笑ってるけど。
「……まぁ、正解ではあるけど。あんた……あなたは、店のお客さんでしょ」
「いや、今のは完全に見ためで判断した言葉だった。君の言うとおりだ。悪かった」
そう言われると、こっちだって見た目で判断はしていたことを思い出して、黙ってしまう。
お互いの声が止むと、急に雨音が大きくなった気がしてつい顔を上げた。
「あー、じゃあ……お詫びにこの先にあるカフェで一杯おごるから、そこで雨宿りするってのはどうだ?」
おすすめのメニューを聞いて、つい彼の顔を見た。
「ん? 好きなのか、エッグタルト」
「……好き、だけど」
「それはよかった」
「……」
何も言ってなかったのに、見抜かれて少し悔しい。尻尾を左右に揺らしている間、彼は黙って待っていてくれた。
「……あん……あなたも、一緒に座ってくれるなら」
心配そうだった目が、また優しく笑った。
「浮奇がいいなら」
あと、あんたでいいぞと言われたけど、俺はそれどころじゃ無かった。
「どうした?」
「名前、知ってるの?」
「……あー……店で、呼ばれているのを何度か聞いているから」
「ふーん……?」
「気持ち悪いなら、悪かった」
「え、きもちわるいのかな?」
「俺に聞かないでくれ……」
「んー……?」
考えてみると、気持ち悪くはなかった。むしろ……良い気分が、戻ってきてるかも?
今度は、迷子にでもなったみたいな顔をしている彼を見上げる。
「……どうすればいい?」
「うん」
鞄を持ち替えて、彼の隣に立った。
「そっちの名前を教えてくれるなら、いいよ」