例えば、彼がくしゃみをした拍子に、持っていたコップが割れるとか、近くのゴミ箱の中身が弾けるとかを、たまに見ていたので、無意識にそういうことが起こるものなのだと、知識としては理解していた。
大変そうだな、と声をかけると、「花粉の時期はもっとひどい」とも零していたことも覚えていた。
「なるほど……?」
朝起きて歯を磨いている途中で、鏡に映っている姿が自分のものではなく、隣で寝ていた筈の恋人のものになっていると気付いたときも、慌てずに原因についてあたりをつけられたのは、そういう知識があったからかもしれない。生身の手を顔の前まで持ち上げながら、もう一度、なるほど、と呟く。それ以外に言葉が出てこないあたり、冷静なふりをしているだけで静かにパニックを起こしている可能性も大いにあった。鏡を見たときに、思いっきり口の中に残っていた歯磨き粉を飲み込んでいたし、むしろそっちだろう。
「入れ替わったように見えるけど、そういうことでいいのか?」
声を出しているのは自分なのに、聞こえてくる声がいつものものではない。
静かに混乱している俺にしつこく起こされた浮奇……の中身が入っている人物は俺の顔と声で不機嫌そうに鼻をかみながら「いや、」と返してくる。
「そんな複雑なことを無意識に、寝てる間にできるとは思えないし、そもそも俺にそんな力はないと思うから、ヒュプノだと思う」
「なるほど?」
「俺とふぅふぅちゃんがお互いの姿になっているって見えるように強い暗示がかかってるだけで、実際には自分の身体のままのはず。現に俺、鼻詰まってるし。そっちは平気でしょ?」
「確かに……」
言われてみれば、指先の感覚はいつも通りな気がする。それでも生身の手脚があるように感じるし、ふれると柔らかい気はする。
「でも、じゃあ催眠を解いてくれれば戻るんだな?」
入れ替わりなんて、マンガやアニメの定番ではあって興味深くはあるが、自分が巻き込まれるとなるとなかなか居心地が悪かった。すぐに戻れるんだろうと軽くなりかけていた気持ちは、「すぐは、難しいかも」という低い声に沈められた。
「それが、自分にもかなり強くかかっちゃってて、さっき解こうとはしたんだけど、力がうまく使えなかった」
だから、しばらくかかると思う、という言葉に三度目のなるほどを呟いた。
周囲に与える影響はどうなっているんだろうかという話から、お互いのペットの様子を見てみることにした。
「相棒。あーいぼう」
「あー……迷ってるね」
少し離れたところかからトタトタと駆け寄ってきた愛犬は、いつものように身体を押しつけてこないで、目の前で立ち止まってしまった。
「相棒、俺だよ」
声が聞こえると俺の方を見上げるが、まだ動かない。もう一度呼びかけると、頭をぐりんと傾けてしまった。
「いつもと声が違うように聞こえてるっぽいな」
「匂いでもわかんないのかな」
「さぁ……匂いが俺でも、見た目と声が浮奇だったらやっぱり混乱すると思うけどな」
「そっか」
「相棒、こっちおいで」
手招きをすると、ゆっくりと近づいてはくれるので、いつものように頭を撫でると、ようやくどすん、と重そうな尻を床に落とし、舌を出してこっちを見上げてきた。
「ん? どうだ? 俺だってわかったか?」
「んー……ちょっと良くわかんないね」
「まぁ唸られなくて良かったよ」
うきにゃはどうかな、とアパートの中をうろうろしてみるがなかなか見つからない。
全部の部屋を覗いて、彼のために置いてある寝床を確認したり、ブランケットをめくったりして、数十分。
「あ、いた!」
自室の方のベッドの、下の奥の方にいるのを浮奇が見つけたので、二人で床に膝をついて、薄暗いスペースの中に頭を突っ込む。
「なんでこんなとこにいるの?」
「なんか……めちゃくちゃ怒ってないか?」
名を呼んでも、小さな塊は不機嫌そうなしかめっ面で目を光らせていて、隅っこから動こうとしない。
「どうしたの、ねぇ。こっちおいでよ……わっ」
手を伸ばすと、明らかな威嚇の声を出されて浮奇が手を引っ込める。
「めちゃくちゃ影響受けてるね」
「そしてめちゃくちゃ責められている気がするな」
「不可抗力なんだけど……」
癒やしの毛皮にさわれなくて、浮奇は(俺の顔で)しょんぼりとしながら床から身体を起こした。
動物だけでなく、人への影響もあるようで、いつもよりも少し遅い時間に朝の散歩に出掛けてみると、すれ違う近隣の住民には『あれ?』という顔をされる。「珍しいね」とか、「ファルガーは寝坊?」と声をかけられる。
結果を伝えると、浮奇は渋い顔をしたあと、「ちょっとシュウと話したいかも」とスマホでアプリを開いた。
暫くチャットでやりとりをした後、浮奇はビデオ通話でシュウと繋いで、俺に画面に映るよう手招きをする。
「やぁシュウ」
「どう? どう見える?」
「あー……」
画面に映ったシュウは部屋着に眼鏡とリラックスした格好をしていた。俺たちを見ると、言葉にならない声を出しながら何度か目を細めたりする。
「どう?」
「うん、入れ替わってるように見えるね」
「クソだるい……」
「僕はこういうのは利きにくいから、すごーく集中するといつもの二人に見えるけどね」
画面の向こうの彼が付け足すので、浮奇がシュウを指定した理由がわかる。それに、不可思議な状況は見慣れているからか、随分と話が早い。
「すごいね、画面越しでも影響あるの。能力を複合して使ったの?」
「いや、それが、なにをどう使ったらこうなったのかわかんなくて」
「どういうこと?」
浮奇が手短に経緯を話すと、ケラケラと笑われてしまった。
「寝てる間にって、すごすぎない?」
「困ってるんだけど」
「まぁ……力になれそうなことがあったらいつでも言って」
「どーも……」
周囲の動物にも、人にも影響があり、画面越しでも相手には入れ替わっているように見える。
通話を切った後、頭の中で状況を整理しようとしていると、浮奇がハッと息を飲んだ。
「配信……」
「……!」
お互いに顔を見合わせてからそれぞれスマホに飛びつく。SNSを開いて、相手の名前を検索してホーム画面に飛ぶ。
「……あぁ、良かった、コラボだ!」
「助かった、マイクラじゃなかった!」
元に戻らないなら、とりあえず直近の仕事を乗り切らねばならない。寝て起きたら戻っているかも知れないし、そうなると面倒なので、ひとまずシュウ以外の仲間内には言わないことにした。
浮奇の今夜の配信と、俺の翌朝の配信に向けて打ち合わせをしたあと、お互いに喋る練習をする。
「スパチャは今度まとめて自分で読むよ」
「じゃあ、メンバーの名前だけ最後にまとめて読むね」
「助かる」
「俺の方は三人でコラボだし、なんとかなりそう」
「最初の挨拶は特に決まってないよな?」
「無いよ」
「じゃあ大丈……あっ、ちょっと待て、最後……ハミングをするのか!? ……俺が!?」
「わぁ……それ練習しとこっか」
「……この日だけ、」
「ダメ」
「……浮奇」
「短くてもいいから」
「あぁ……」
しばらく(ちょっと厳しめの)音程指導を受けたあとはお互いの喋り方の練習をした。
長く一緒にいるからか、これはそう難しくなくて、ようやく少しだけ、なんとかなるかもしれない、という気がしてきた。
「ふぅふぅちゃんの口癖は真似しやすいや」
「そっちこそ。驚いたときの真似は任せろ」
高めの声で短く叫んだ後、低く悪態をつくと、パチパチと拍手を贈られた。
「よくできましたぁ」
「お、思ってないな?」
「別に? 心配するな」
「はは! それも良く言ってるな、俺」
「うききぃ」
「……それは誇張しすぎだろ」
「配信中はこうだもん。うきぃ、うききぃって」
動画で見るならともかく、直接自分の声が甘ったるく浮奇の名前を呼んでいるのを聞くのは、なかなか精神にくるものがある。仕返しに、こっちも吐息をたっぷりと混ぜて向こうの真似をすると、楽しそうにしていた顔がむすっと口を尖らせた。
「ふーふーちゃん。ふふちゃん」
「……俺そんなに甘ったれてないんだけど」
「そっちこそ」
「……」
「……」
睨み合いはいつもよりも若干長引いた。
だって仕方が無いだろう! 自分に睨まれたって余計に腹が立つだけで、いつもみたいに退く気になんてならない。
腹立たしい顔をしてこっちを見てきている身体の中には浮奇がいるんだということを自分に言い聞かせて、ようやく、両手を持ち上げてみせた。
「あとは各々動画をみて予習でもしておこう」
「はーい」