night flight 突き抜けるような青空に白い飛行機雲が細切れに浮かぶ。初フライト日にして見事な快晴。隅々まで掃除の行き届いた空港は光が反射するほど美しく、下ろしたての革靴がよく馴染んだ。
「――まさか、あの面堂くんが我が社に入社してくれるとは」
人好きのする柔和な笑顔を見せたあとに、少しずれた眼鏡を押し上げる。面堂が入社したばかりの航空会社の社長が直々に、フロア内を案内してくれていた。
「てっきり、お父様の会社を継ぐのかと」
「ああ、いずれは、そのつもりです」
いわゆる王手と呼ばれるたぐいの空港会社ではなく、リーズナブルな運賃を取り柄にしている会社だった。とはいえ業績はすこぶる良く、業界内でも一目置かれた存在だった。パイロットとしての経験を積むための布石として申し分ない。
「そう言っていただけて光栄です。知見を広げるためにも、ぼくもたくさん勉強させてもらいます。…ところであの、先ほどから視界の端っこに妙な男がちらついているんですが――」
「妙な男?」
面堂の言葉を受け、社長が訝しげに首を傾げた。
ええ、と歯切れの悪い返事とともに押し黙る。なんだ、あの男は。底抜けに明るい声と顔でCAを口説きまわっている。品のないやつ、というのが第一印象だった。
「…ひどい間抜け面だ。CAさんに声を掛けているようにも見えるが…」
平日の空港は旅行客もまばらで、反響しやすいつくりゆえに、人よりもよく通る声が鼓膜を突き破ってくる。乱れた神経を整えるようにして深呼吸をし、高い天井を見上げた。窓からびりびりと響くのは、耳をつんざくようなジェット機のエンジン音。鼓膜が震える感覚は、ここで働く醍醐味でもあるのに。
社長が立ち止まって面堂の視線の先を確かめる。眼鏡の奥で一度だけゆっくりと瞬きをして、「ああ、諸星くんですね」と平然と言ってのけた。
「もろ、ぼし?」
「ええ、彼もうちのクルーです」
にわかには信じがたい台詞を前に、一瞬気圧される。すぐに頭を降って応戦した。
「クルーですか。…あの、機長服を身に着けているように見えるんですが、まさかあいつもパイロットなどということはありませんよね?」
「いえ、おっしゃる通り。彼もパイロットですよ」
きみとおなじね。
柔和な笑みを浮かべつつ、眼鏡の奥の瞳は意味深長な色をしていた。
「…冗談が過ぎますよ」
「冗談で空が飛べますか?」
ごほん、と咳払いをした社長が、「面堂くんは機長の平均年齢を知っていますか」と尋ねた。急に矛先の変わる質問に一瞬面喰ったが、すぐに言い返す。
「それくらい知っています。四十歳前後、でしょう」
「ええ、その通り。確か、面堂くんは、国内の最年少記録を樹立したとか」
「ああ、ご存じでしたか。ええまあ、そうです、むかしの話ですがね」
旅客機の機長パイロットとして、法的には二十一歳から搭乗できると決められているが、数年にも及ぶ訓練や試験などの壁があり、現実的には難しいとされている。よほどの才能がない限り。
「いやいや、いまだ破られていないでしょう。すごい記録ですよ。天賦の才があるとしか言いようがない。私はね、面堂くん。そのお話をきみのお父上からお聞きしたときに、心臓が震えるような、心が躍るような、そんな喜々とした感情を抱いたんです。その面堂くんが、まさか我が社に来てくれるなんて――」
しんそこ嬉しそうに頬をゆるませた社長が、感慨深そうに天井を見上げた。うんうん、とひとりで感動にふけったあとに、「言い忘れていたんですが」と声のトーンを落とす。
「――じつは、諸星くんもそうなんです」
「………え?」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。彼もそう、と社長が笑う。その声が途中からスローモーションになり、ひどくもたついて聞こえる。
「いや、ですから、諸星くんも、きみと同じ齢で機長としてフライトを成功させてるんです」
彼の場合、アクシデントが重なったので公式記録ではないんですけどね。そう早口で続けた社長が、おもむろに「諸星」と呼ばれる男を呼んだ。
「諸星くん、ちょっと――」
ちょうど良かった、彼を探す手間が省けました。独り言のように呟く社長の横顔を眺めていると、面堂に言わせれば「間抜け面」を引っさげた「諸星」がやってきた。
「いやあ、まいったまいった。モテちゃって大変」
「そうですかね。ほっぺた、痛そうですけど」
「これっくらい平気じゃ。で、なんの用です?」
右の頬にくっきりと手形をつけて言う台詞だろうか。近くで見るとますますアホ面で、面堂よりもいくぶん幼く見えた。軽薄そうな喋り口調と面持ちをしているのに、意志に強そうな瞳ははっと息を飲むほど明るい。
「彼、諸星あたるくん。うちのクルーです」
「…はあ」
「そして、彼が面堂終太郎くん。あの面堂財閥のご子息です。縁あって我が社で共に働くことになりました」
「…ほお」
わざわざ愛想を笑いをしてまで仲良くするつもりは毛頭なかった。出会った瞬間に嫌悪感が走り、相成れない関係だと本能的に悟る。社長の手前だというのに握手をする気にもなれなかった。二人して無言で様子を伺っていると、社長が突拍子もないことを提案した。
「――で、突然ですが、君たち二人にはバディを組んでもらおうと思います」
突然すぎる申し出に一瞬思考が停止する。は、と声を荒げたのはあたるが先で、なんでこいつと、とあからさまに嫌そうに眉を寄せる。それには面堂も同感だった。
「あまりにも突然すぎる。容易には受け入れがたい」
「でも、もう決めちゃいましたもん」
「おれも初耳じゃ」
「ええ、お二人にはいま初めて言いましたから」
優しそうな顔付きをしているが、なかなか腹の底が見えない社長だった。にこにこと嬉しそうに笑いながら、すでに息がぴったりですよ、と火に油みたいなことを言う。
「面堂くんが機長で、諸星くんは副操縦士。国際線の場合は二人で機長を務めてください。異論はないですね?」
あたるが副操縦士、という点に関して言えば異論はなかったが、それでも不満は不満だった。
「今日会ったばかりのやつとバディなんて組めますか」
「それでも、組むんですよ。きみたちはプロでしょう」
「いや、しかし――」
「そんなに不服ですか?」
僅かに剣呑さを滲ませた社長が、はあと盛大にため息をついた。それから視線を上げて、面堂とあたるを交互に見る。
「面堂くんは少々ロジカルに考えすぎる部分がある。マニュアルも大切ですが、たまには自分の感性に頼るのも大事ですよ。その点、諸星くんは感覚で行動するところがありますからね。お互いに勉強になるのでは」
互いに足りない部分を補い合える、良い関係になると思うんです。
思わずあたるを見ると、あたるも面堂を見ていた。虹彩の色がはっきりと分かる距離で。息を飲み込む。
「…いや、しかし」
「しかしもへったくれもございません。これは上司命令です」
はやくフライトの準備をしてください。早口でまくしたてられ、あたると一緒に控室へと向かった。本日夜のフライトが、まさか二人の初バディになるなんて。人生何が起こるか分からない。
ボーイング413の初離陸はつつがなく終わった。
国内線ということもあって機内は比較的穏やかで、ベルトサインを外すと、コックピットの後方からわっと乗客の声が聞こえてきた。眼下に浮かぶ夜空は暗くて多少怖かったが、頭上のライトがあるから平気だ。
「――どうしてぼくが貴様なんかと」
ハンドルからは手を離さず、ぶつぶつと文句を言うと、右隣の席に座るあたるが呆れたようにため息をついた。
「初対面ってのに、ずけずけものを言うやっちゃな」
運転に集中せえ。ふうと息を吐きながら、ネクタイを緩める様子を横目で眺めた。アホ面だという第一印象から相違はないが、ふいに真剣さを帯びた表情は儚げで大人びて見える。アイロンの利いたシャツは清潔感があって、自堕落な感じとのギャップが妙に色っぽかった。
しばらく沈黙を分け合っていた二人だったが、大きな機体が揺れ始めたことで風向きが変わる。乱気流に巻き込まれていると分かったときにはすでに雲のなかに突っ込んでいて、横殴りの雨風に当てやられた。
――ベルト着用のサインが点灯いたしました。この先、気流の悪いところを通過する予定です。お席にお付きの上、腰の低い位置でシートベルトをお締め下さい。
客室乗務員のアナウンスが聞こえると、緊張感が増した。ぐっと姿勢を正して操縦機を握り、機体の揺れが最小限にとどまるように努めるだけだった。
ふいに、視界の右端のほうでぴかっと稲光が走った。あまりの眩さに片目が見えなくなるほどの衝撃で、ふらついているとまた光った。その瞬間、機体の電磁力がショートしたのかふっと灯りが消えた。もちろん、コックピットも。運転席に設置されたモニターは予備電力のおかげで通常通り機能している。とはいえ、暗闇には違いなかった。
「――真っ暗じゃ」
あたるが、ぽつりとつぶやく。窓を打つ雨はまるで嵐。光のない空の上はひたすらに怖かった。ごおごおとけたたましい音とともに激しく揺れる機体。雨と風に加えて雷まで。自然の揺らめきの中心を走りながらも、乗客の命を守るために懸命に前に進むしかないのに、震え出す体と指先。
「………諸星」
「なんじゃ」
出会ってからこっち、初めて名前を呼んだ。諸星、ともう一度言うと、鬱陶しそうに「なんじゃ」と返された。
「ぼくは、ぼくは…」
背に腹は代えられず、暗所かつ閉所恐怖症だということを打ち明けると、あたるが目を見開いて呆れた。「よおパイロットになれたな」と臆面もなく言われたので、うるさいわと言い返すことしか出来ない。怖くて涙が出るのに。ひとりじゃないことが、こんなにも安心するなんて。
「…うっ、うっ…」
堪えきれず涙を流していると、あたるの深い息が聞こえてくる。難儀なやっちゃな、とやさしい声がした。かと思えば、操縦桿を握る面堂の手の甲にあたるの手が重なる。かちゃん、と音がして、ハンドルが動いた。がちゃん、がちゃん。聴き馴染みのある操縦桿の音が面堂の心を余計にかき乱した。その動きがやさしくて、あったかくて、触れる素肌が熱くて、脳も痺れて。涙で瞼も重い。指先から伝わる温度が心地よくて。
「…お前、よおパイロットになれたな」
天候が悪くなったらいつもどうしてたんだ。さすがにこんな状況で面堂の気を逆なでするつもりはないらしい。妙に落ち着きをはらんだ声によって、ぐちゃぐちゃだった脳が少しずつクリアになっていった。
「いつも…ライトを…常備している…」
「ふうん、今日は?」
「さっき…ひっく…驚いた拍子に…どこかへやってしまった…」
「ああ、これのことか?」
ぱっと目の前が明るくなった。飄々とした表情で、あたるがライトを照らす。暗闇のなかで、あたるだけが勝ち誇ったように笑う。
「貴様、そのライト、どこから…」
「足もとにおっこちとった。少しはましになったじゃろ」
相変わらず外は横殴りの雨で、それでも面堂の手元は明るい。次第に呼吸も落ち着いて、涙も止まった。いま自分がすべきことが明確になった感じだった。あたるを見てから漆黒の前を見る。息を吸って、それから吐き出す。
「………あ、」
「素直にありがとう、って言えた方が良いぞ」
「う、う、うるさい、誰がお前なんかに」
「ああ、もう、なんでもええわ。とりあえず、運転に集中してくれ」
重ったるい雲の隙間に、わずかに一筋の光が見える。ここを抜ければ運行も安定するだろう。ほっと胸を撫で下ろしたタイミングで、あたるが「なあ」と面堂を呼んだ。
「…なんだ?」
「きさま、空を見たことはあるか」
「あほ、あるに決まっとろう」
「ちがう、こっから見える空のことじゃ」
お前が言う見ているのはどうせうわべだけだろ。含みをはらんだ声で言って、あたるが一瞬だけ瞼を閉じた。すると、嘘みたいに乱気流を抜けた。眼下に広がるのは、胸のすくような蒼くて煌めく星空。眩いほどの月光にちょっと感動した。今まで生きてきたなかで、いちばん近いところで月を見た気がする。
「――ほれみてみい。特等席じゃろ」
いっとう輝くあれは金星だろうか。北斗七星もオリオン座もなにもかもはっきりと肉眼で見分けることが出来る。
「空を飛んでる気分がする」
すぐ近くであたるの声がした。子守唄みたいにあどけなくて、モーニングコールみたいにやさしかった。耳のうしろがさわついて、胸が高鳴るような声で。あたるを見ていたら目が合った。瞳がゆっくり笑う。
「――おれに見惚れるひまがあれば前を見んか」
くつくつと喉を震わせながら馬鹿にされたので、誰が見惚れるかと言い返した。背もたれに体重を預けたのか、リクライニングの音とともに、あたるの深い息遣いが聞こえてくる。
「次は一人で運転できるか?」
鼻歌交じりな声が癪に障る。出来るに決まっとろうと跳ね返すように答えると、あたるがまた笑った。出来るに決まっている。でも、傍らにいて欲しいと、少なからず思う。この場合、思ってしまった、と言った方がおそらく正しい。
視界に映る、きらりと煌めく月が赤くて美しかった。大小異なる星々がそれはそれは煌めいている。無数の発光体が二人を照らす。何万光年かけてようやく届いた光。
あらしが過ぎ去り、忘れられない夜がやってきた。