キスの味はまだ知らない 夜の学校で花火をしよう、と言い出したのは、いまや誰だったか思い出せない。それは面白そうだとクラス中が沸き、あっという間に日取りが決まった。
「――面堂さんも来るわよね」
嬉々とした表情の女生徒に腕を掴まれ、満更ではない気持ちのままに一度は思い悩む素振りを見せる。こんなのただのポーズだ。来られないのぉ、との愁いの表情を横目で見た。
「――ああ、その日入っている予定はすべてキャンセルしよう。あなたたちの泣き顔なんて、見たくはないですからね」
前髪を払い口角を上げると、女生徒が「きゃあ」と顔を綻ばせた。彼女の肩を優しく撫で、瞬きをする。視界の端で欠伸をする諸星あたるは、こちらを見ようともしない。
夜の学校で花火、とあれば、間違いなくこいつも来るんだろうな。
そんなことを思って、諦めにも似た気持ちをため息で散らした。
夏はこれからというのに連日日差しは馬鹿みたいに強く、風に揺れる夏服が眩しい六月のある日の話。
来たる六月某日。綺麗に湾曲した三日月が藍色の空に浮かぶ綺麗な夜だった。
二年四組のメンバーが続々と校庭に集まり始め、誰かが点呼を取っていた。始まりの合図なんてあってないようなもので、気付けばあちらこちらですでに小さな花火大会が始まっている。静かな夜にぱちぱちと鮮やかな火花が浮かんでは消え、方々から感嘆の声が上がった。
花火、というから、さぞかし盛大な打ち上げ花火かと思ったら、見たこともないような「ちゃち」な花火セットがいくつも用意されていた。見るからに頼りないおもちゃみたいな束に触れ、妙に感動した。これが発火し綺麗な火花を散らすなんて信じられない。
「…花火なんて、打ち上げ花火しか見たことなかった」
「…は、嫌味か」
いつの間にか隣にいたあたるが、あからさまにため息を吐き出す。何故かこの一瞬は、この時間だけは、二人のまわりに誰もいなかった。数メートル先から聞こえる歓声と笑い声が、次第に遠ざかっていく。
「面堂くんさぁ、うちに転校してきてようやく人間らしい生活送れてんじゃないのか?」
あたるがふっと鼻で笑う。その横顔を横目で見つめた。
「…何が言いたいんだ?」
「いや別にぃ。みんなと花火、なんてしたことないんだろ、と思って」
しんそこ馬鹿にしたみたいな顔で笑われて、腹立たしい以外の何物でもないはずなのに、どうしてかその言葉が胸に残った。
「面堂、線香花火って知ってるか?」
聞いておきながら、返事は必要としていない口ぶりだった。あたるが線香花火を手に取り、その場にしゃがみ込む。
「これが風情ってもんよ」
そのへんにあったマッチを使い、こよりのような先端に火を付ける。じんわりと滲む火が、程なくして鈍い音を立て、ぱちぱちと弾け始めた。闇の中で灯る火の玉を二人で眺める。程なくして力を使い果たした線香花火は、蜜のような小さな玉となって、ぼとりと地面に落ちていった。
「…これで終わりか?」
あまりの呆気なさに思わず呟くとあたるが「これで終わり」と鷹揚に笑った。
「ずいぶんと儚いんだな」
「儚いものに美を見出すってのが日本人だろ?」
「ほう、美か、お前には似ても似つかん言葉だな」
「喧嘩売ってる?」
「うん。売ってる」
至近距離で目が合うと、あたるが口をへの字に曲げた。お前は一言なにか言わな気がすまんのか。項垂れながらも、勝負するか、と目を細める。
「勝負?」
「先に落ちた方が負け」
無理やり線香花火を渡されて、勝ったら牛丼一か月分おくれ、と言われた。先ほど見た限りでは、この線香花火の命は儚い。ひとたび風が吹けば、かんたんに落っこちてしまうだろう。
「僕が勝ったらどうする?」
「知らん。どうせ俺が勝つし」
「どこからくるんだ、その自信は」
「だって、俺が勝つのが目に見えとる。あ、言うとくけどルール無用だぞ。なんでもありのデスマッチじゃ」
にゃははと笑って同時に先端に火を付ける。そのタイミングでどんと背中を押され、前方に突っ伏しそうになったが、すんでのところで堪えた。大仰な動きを取ったことで、あたるが手にしていた線香花火が揺れ、あっという間に地面に落ちていった。
「あっ、俺の線香花火っ…」
「ほおう、これが自滅というやつか。自業自得、神は悪行を見ているということだな」
恨めしそうにあたるが面堂を睨みつける。つくづく、百面相の似合う男だ。ころころと変わる表情が、実のところ面堂は見ていて嫌ではない。
「…何が神だよ、あほらし」
手持無沙汰な手を空で揺らし、女神様の言うことなら聞いてやらんこともない、などとふてぶてしいことを言ってのける。
「きっと女神様は美人だぞ」
含みのある顔で笑いつつ、面堂の手元に視線を移した。
「…ところで面堂。お前の線香花火、ずいぶんとしぶといな」
「…あっ、おい、揺らすな」
「息を吹き掛けてもびくともせん。このしぶとさ、お前みたいなやつだな」
「馬鹿、粘り強いと言え。お前の方こそよっぽどしぶといだろ」
「あほ言え。僕ちゃん、繊細だもんねぇ。………と言っとる間に落ちたわ」
あたるのちょっかいが影響というよりは、単に寿命のようだった。ぽとり、と落ちていったオレンジ色の玉が、地面に溶けていった。ささやかな線香花火とはいえ、消えてしまうとあたりは暗くなる。あちこちで級友が灯す花火の光が、あたるの頬を黄色く染める。
「――何が欲しいんじゃ」
突然聞かれて、一瞬何のことか分からなかった。それが、線香花火の勝負の話だと気付くのは、ほんの三秒後のこと。
弾かれたよう顔を上げ、あたるの方を見る。その横顔はつまらなさそうな仏頂面で、焼けてしまった線香花火のこよりをねじるようにして遊んでいた。
こくん、と上下に動く喉仏。闇に映える白い肌。薄いくちびる。唇の端は乾燥していて、ときおりあたるが自らの舌で舐め取る。赤い舌先が闇夜に映り、痺れるほど官能的だった。キスをしたらどんな表情を浮かべるんだろうか、どんな声を出すんだろうか、どこを触れると気持ち良くなるんだろうか。それらを想像をしては、罪悪感が募っていく。
理性を保つために俯いていると、あたるが訝しげな表情を浮かべた。
「なんだよ、早く言えよ」
「…いや、別に」
何もいらん、と突っぱねるように言うと、あたるの目がみるみるうちに丸くなった。
「ほう、珍しいこともあるもんだな」
驚きと安堵のちょうど中間くらいの声色であたるが笑い、線香花火に再び火を灯す。