再会 辺り一面の霧が晴れた時、自分が立っていたのは山の頂であった。
そこがどれくらい広い場所であるのかは分からない。そもそも山であるのかすらも曖昧である。けれども目下に白雲の海が広がっていたので、多分そうなのだろうなと思った。
煙にも似たそれの下を覗き見ることは叶わなかったので、ひとまずここを歩いてみようと思い立った。というのも、それほど遠くない場所に東屋があったからだ。人と思しき影もある。その誰かが話し相手になってはくれまいかと思ったのだ。随分と長い間、誰とも話していなかったような気がしたからだった。
地面を踏みしめる足の感覚すらもどこか懐かしい。呼吸の度に肺へと入り込む涼やかな空気は、ふわりふわりと浮き沈む意識を薄靄からやさしく引き上げるようだった。
視界の隅に映り込む薄紅は、極東の地で咲くという木々の花だろうか。爛漫と呼ぶに相応しい盛りを迎えたそれは、ひらひらと花弁を舞い散らせている。
東屋に近づいていくうちに、先客の姿がどのようであるか知れた。
まず最初に思ったのが、胡散臭い風体をしているなあということだった。中折帽に裾の長い外套、目元がはっきり見えないあたり眼鏡か何かも掛けているらしい。おまけに髪も長かった。別所で出会っていればまず近寄らない人種であるように思ったが、何故だか今はそんな気も起きなかった。
あまり目にしたことのない色の布地に包まれた手には茶杯があり、その長い足は一見無造作に投げ出されているように見えて、そうではないように見える。言葉を選ばず表現するのであれば、気品漂うペテン師と、まあそういったところだった。なんとも矛盾に満ちている。
そのうち近づいてくる自分に気づいたのか、視線がついと投げて寄越される。「おや、お客さんで」発された声は穏やかであった。
「どうも。……ええと、お兄さん」
「そんなに若く見えますかい?いやあ照れますね」
場所ならまだ空いてますよ、座りますか。
そう続けた彼の言葉に甘えて、少し間をあけて腰を下ろす。座るのも随分久しぶりかもしれないなあと思った。
ここはやはり山頂であったらしい。雲から突き出すように在るのだろう。見下ろす限り白が漂い、下の様子を見ることは出来なかった。
「茶は如何です」
「え、頂いていいんですか?」
「構いませんよ。ここに人が来たのは久しぶりですからねぇ」
言って、男は茶を淹れてくれた。どこから出したのかも分からぬ茶器から、小さな器に美しい琥珀が注がれていく。どうぞと差し出されたそれを受け取って、口をつけた。美味かった。
「美味いですね。茶の先生でもやってらっしゃる?」
「そんなんじゃありませんよ」
笑って手をひらひらと横に振った彼が、小脇に置いていた自分の杯にも同じように茶を注いだ。
互いに無言のまま、時折茶を啜る音だけがあった。眼前の風景にはこれと言って鑑賞するに値するものはなかったが、背後から吹いてくる暖かな風だけで心は満たされた。僅かに鼻先をくすぐった香りは、きっと先見た美しい花々のそれをのせているのだろう。
またすうっと視線が向けられた。
「お兄さん……と言うと、こんがらがっちまいますかね。おれのことはリーと呼んでください」
その言葉に甘えて、リーさんと呼ぶことにした。自分のことは■■と呼んでくれと返した時やっと、自分は話し相手がほしくてここに来たのだったと思い出した。
「■■の兄さんはどうして此処に?言っちゃなんですが、あんまり見るもんもないでしょう」
「気づいたらここに居たんですよ。そしたらリーさんが見えて。随分誰とも話していなかったような気もしたから、話し相手になってくれないかなと」
「なるほど」
緩やかに相槌を打つ姿に、聞き上手だなと思った。多分、人の話を聞くのに慣れているんだろう。よく見れば自分よりも歳上であるようだった。隣に座っていると何故だか安心するのはきっとそのためだろう。
「リーさんこそ、どうしてこんなところに?」
「人を待ってましてね」
「人、ですか」
「ええ」
「どんな人ですか?」
「ううん、言い表すのに些か困っちまうような人なんですが……そうですねえ。大事なひと、ですかね」
それは問いの答えではないのではないか、などと無粋なことを言うことはできなかった。そう言う彼が、随分優しい目をしていたからだった。
「もう長いこと待ってるんですが、一向に来る気配がないんですよ。困ったもんです。同じように待ってる人もいたんですが、みぃんな帰っちまいました。ま、ここは花以外何にもないですからねえ」
「……自分も待つのをやめようとは思わないんですか?」
「はは、それが思わないんですよ。不思議なことにね」
それに一人ってわけでもありません。たまに知り合いが様子を見に来てくれるんでね。
そう続けて、彼はまた一口茶を飲んだ。
「■■の兄さんは、これからどうされるんです?」
「どうしようってあては特にないんです。何も浮かばなくて」
「そりゃ大変だ。そうですね……ここを出たら、ずうっと真っ直ぐ進んでいくといいですよ。そのうち着きます」
「どこに?」
「はは、行ってのお楽しみですよ。茶器ならそのまま置いといてください」
そう言われてはじめて、自分の持っていた杯がもう空であったことに気がついた。ご馳走様でしたと頭を下げれば、いいえと柔らかく返ってきた。
「おれもちーと歩いてみます。今日は客が来ましたし、もしかしてってこともあるかもしれないんでね」
「そうですか……それじゃ、またどこかで」
「ええ、またどこかで」
それぞれに立ち上がって、東屋から出る。彼と話してから不思議と、どこに行くべきか分かっていた。
ゆらゆらと尾を空に泳がせる後ろ姿を見送って歩き出す。
この先にきっと自分を待ってくれている人もいるだろうという確信が、胸にはあった。
目の前には濃い霧が立ち込めている。向こう側には何も見えず、何があるのかも分からない。
けれど胸には予感があった。
今日こそ出会えると、あの人が来てくれるだろうという、予感が。
ころりと霧から転がり出たものがあった。
ちいさな頭蓋骨であった。ところどころ煤けたそれをゆっくりと拾い上げる。焦げたような匂いがした。
土をかるく払ってやり、目の前まで持ち上げる。こんなに小さかったんですねえと、囁くように呟く。
真珠のように美しい白に、そっと口付けを落とした。
本来であれば、唇がある場所であった。
春を抱きしめたような心地がした。温くも爽やかな風がぶわりと吹いて、腕の中で渦巻いた。ばたばたと外套がはためく音がする。しっかりと地面を踏み締めた足は、少しも揺らがなかった。
無意識のうちに閉じていた瞼を静かに持ち上げる。
そこには待ち望んだ人がいた。
虚には自分の愛した輝きがあり、腕にはたしかな重みが伝わっている。再び出会えたならば二度と離すまいと決めた。
色付いた二枚の花弁がふるりと震えて、言葉を吐き出す。
「……何年待たせた?」
「さあ。途中で数えるのをやめちまったもんで」
「嘘だろ君」
「ははは」
半目になったその人を地面に下ろしてやる。自分よりもずうっとちいさな身体をまたこうして見下ろせる日を、あの場所で一人待ち続けていた。もう諦めた方がいいとどれだけ言われても、ここで待たなくてもいいのだと言われても。
だって、この人が戻ってきた時に最初に見るのは自分が良かったから。愛したものたちにまた会うために登ってくるだろうこの人を、すぐに迎えてやりたかったから。
「また会えましたね、ドクター」
薄らと涙を浮かべる男に、微かに目を見開いたその人は小さく微笑んだ。
いっとう愛しいものを見つめる瞳だった。
「リー。ずっと待っていてくれて、ありがとう」