【その手を掴む、】Smug bathroom 君はありのまま過ぎる。だからこそ簡単じゃないなんて、思いもしなかった。
【その手を掴む、】Smug bathroom
「なんか今、無性に君を洗いたい」
「はい?」
某月某日ライブラ事務所、ソファに座って淹れたてのココアを呑もうとしていたレオナルドは自分に向かってそんな言葉を投げてきた上司の顔を見上げた。
部下の顔を見下ろす上司、スティーブン・A・スターフェイズの表情は真意が読み取れない端正な顔立ちをただただ見せているだけで
「何を?」
「うん、自分も言いながらちょっと何言ってるのかわかんない」
「いや、だったら言わないでください。胸に秘めておいてください」
「しょうがないだろ、思って、口から出ちゃったんだから」
「自分が何言ってるかわかってます?」
「わかんないってさっき言っただろ」
「…駄目だッこれ堂々巡りになるタイプだ!」
「ほぅ少年にしてはなかなかの名推理だ」
端正な顔立ちが楽し気な表情に変わってソファの縁に片足を乗せるようにしてスティーブンはレオナルドの顔をじっと見た。
「なんすか」
「いや、どうだろうって思って」
「え?」
「君が望むならある程度の手当てもやぶさかではないと思ってるんだが」
二人きりのライブラ事務所、ココアから漂う湯気だけがやけに現実感を醸し出していた。
元来、人は欲に弱い生き物である。
それは、少なからず社会に生きる為に必要なものであり反面、欲ばかりでは社会は成り立たず人間はそれを律する理性を持っている。
これを付けたがそれだけじゃ収まりが悪いのでこれもつけて、後は本人の調整次第
そもそもの人間という生き物の創りがそんなおざなりなものなのに
どうして、それを完璧だなんて思ってしまうんだろう?
「言っておきますけど」
「うん?」
「俺の体、本来ならそんなに安くないんでッ!!」
もしかしたら自分の今住んでいるアパートと広さが変わりないかもしれないなんて思わせるバスルームでレオナルドの言葉が反響した。ハウリングしたようなほわんほわんという響きが収まった後スティーブンは首を傾げて
「なんだか僕が少年を買ったみたいな言い草だ」
「そんなもんでしょーよ」
「金に釣られたのは君だ」
「断り続ける俺にあんた最終的に提示してきた金額覚えてます?」
「記憶力はいいほうだよ」
「自慢しないでください」
「君が聞くから」
事務所で行われた金額交渉―そもそもやりたくない、お金はバイトで稼ぐからと断り続けるレオナルドにじわりじわりと囲うように塀を作り固めて金額と共にその塀を高くしていったスティーブンにレオナルドは今だったら自分がとんでもない金額を言ってもあっさり出してきそうだ。と思ったその直後、払ってくれるだろうけど後々が怖いッ!今もだけどッ!という恐怖に負けたのだった。
「何をそんなに意地になってたんすか」
「いや、なんか引くと負けかなって途中で思って来ちゃって」
「己の負けん気の為にあんた何しようとしてるか冷静になって考えてみてくださいよ」
「そういう君もなかなか負けん気強いよなぁ、素っ裸は嫌だからっていう君の為に海パンを許し用意した」
「それで譲歩したつもりっすか?スティーブンさんは服着たままじゃないっすか」
「大胆だな少年」
「風呂場に不似合いだって言ってるんです」
スーツとネクタイを取っただけで腕まくりしたシャツにベルトを外して靴下を脱いで幾重にか裾を捲り上げたズボン
「ここまで来てやめるってのもなぁ。お互い引くに引けないだろ?」
にこりとして見せたスティーブンにレオナルドは否定できない事実にため息をついた。
ゆっくりとお湯に濡れる髪の毛、頭皮に感じる温かさにレオナルドの体から自然と力が抜ける。
「人に頭洗ってもらうのって結構気持ちいいらしいみたいだぞ」
スティーブンはそう言いながらレオナルドの顔や耳にお湯がかからないようにして髪の毛を濡らしていく。
「それは上手だったらでしょう?スティーブンさん人の頭洗った事あるんですか?」
「うーん、何度か」
「あるんだ」
「でも甘い思い出じゃないよ」
「甘い思い出て」
自分の頭を包むように触れてきたスティーブンの手のひらが動いたかと思うと頭皮に指先がこすれるように当たるのがわかる。
「うぉ」
予想以上の指先の強さにレオナルドは自分の頭が持っていかれそうになって声を上げた。
「痛かったか?」
「いえ、思ったり力が強かったんでがくんってなっちゃいました」
「それはすまん。もうちょっと優しくしよう」
「大丈夫っすよ。こっちが気ぃ抜いてただけなんで」
「そんな風に言うな。せっかくなんだから君には気持ちよくなってもらいたい」
別に気にせず好きにすればいいのに、と言ってもきっとこの人はこちらに気を使うのだろうな。これはもう性分なのか…
レオナルドはそんな風に考えながらいや違うなと自分の考えを否定した。
たぶん、確証はないけどこの人の気の使い方は後天的にできたものだ。もっと言えば気を使うというよりそう見せる事によって自分を守っている。それを鎧にしている。
「痛くないかぁ?」
「…大丈夫です」
白い泡に包まれた髪の毛を無心に洗う上司の姿を見ながらそんな事を考えて、本当に真意が読めない人だとレオナルドは改めて思った。
「普段トリートメントしてるか?」
「あー、一昨日切らしたんすよ」
「お前、それでこんなに」
「やっぱ違います?」
「うちにストックあるから持って帰れ」
「え、別に」
「いいから少しは身だしなみにも気を使え」
言いながらスティーブンは泡を丁寧に流し水気を切るとトリートメントを多めにとってレオナルドの髪になじませていく。
髪の毛が痛くない程度に何度か引っ張られるような感覚、バスタブの淵にうなじを乗せたままの体勢でちらりと見えるスティーブンの顔を薄目で見上げながら
「服、濡れませんか?」
「まぁ、濡れないって事は無いけど」
「ズボンだけでも脱げばよかったのに」
「今更だよ」
そう言ってシャワーの音が聞こえると頭にお湯がかかる感触にレオナルドは目を閉じる。
「……なんで服脱がなかったんですか?」
「大胆だなぁ少年」
「そんなんじゃないっすよ。質問です。純粋な」
「人前で裸になるのは苦手なんだ」
「なんでですか?」
「自分の体に自信が無くてね」
そう言ったスティーブンに「うわ、嫌味かよ」とレオナルドがこぼすとスティーブンは、はははと笑った。
「嘘ですよね」
レオナルドの言葉にスティーブンは「んー?」と呑気な声を出す。
「スティーブンさん」
トリートメントを流し終わりシャワーを止めた後自分の名前を呼ぶレオナルドの顔を上から覗き込む。
「何だい?もしかしてリクエストがあるのかな?」
「自分を曝け出すような行為だからですか?」
聞こえた言葉にスティーブンの頬に一瞬力が入る。
自分を見上げる少年の顔を直視したくないと思う心の機微をスティーブンは感じた。
「貴方、セックスする時でも服は極力脱がなさそうだ」
「…君からそんな直接的な言葉が出るなんて」
ふっと微笑むスティーブンの目をレオナルドはじっと見つめる。
「俺の事は裸にしておいて」
「今回の事は君が裸にならなきゃできない行為だよ。もしかしてこの行為を疑似的なセックスの類だとでも思ったのか?」
スティーブンの言葉にレオナルドはしばし黙った後大きなため息をはいて見せた。
「わかってますよ。スティーブンさんは自分の上司ですから。今日だって時間外労働としてこうして上司の願望を叶えてる。それだけです」
そう言ってふっと顔を正面に戻して自分につむじを見せるレオナルドの背中の無防備さに声をかけようとする前に
「でもまぁ、こんな至れり尽くせりはなかなかない経験っすからねぇ。たまには贅沢ってもんっすよ」
いつものような口調で、へらりとしたような口ぶりで、そう言ってバスタブの中ですいーっと体勢を変えるレオナルドをスティーブンは眺めながら
上司だから…上司の言う事だから君はなんだかんだ文句を言いながらついてきたのか
まるで自分が譲歩したみたいな言い方
そんな言い方しないと僕にはついてきてくれないのか
自分の中に沸き上がった感情にスティーブンは驚いて立ち上がって一歩後ずさった。
バスチェアが床を引きずるように動いて耳障りな音を出す。
「…スティーブンさん?どうかしました?」
振り返って怪訝そうな表情を見せるレオナルドにスティーブンは「いや、なんでもない」と返すだけで
排水溝には流せない、確かな感情がそこにはあった。