居酒屋以蔵繁盛記(ステークホルダー編)『土佐居酒屋以蔵』のドアを開けると、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
ロゴ入りエプロンを着けたアルバイトの安藤リカルドが声を上げるが、
「……あ、藤丸さん」
と言い直す。
その言葉が聞こえたのか、以蔵が厨房から顔を出した。
「おう、よう来たのう」
頭にタオルを巻いて、ロゴの入った前かけを着けているのは立香が働いていた時と同じだ。夏になりかけているから、既にTシャツ姿になっている。
「……来ちゃいました」
立香はとろみ素材の、身体の線が出ない長袖ブラウスにワイドパンツを合わせている。
オフィスカジュアルはカジュアルと言う割には気を遣う。学生時代に着ていた服は役に立たず、結局着回しのできる服を何着か買った。
スーツで働ける男の人はいいな……と思うこともある。
バッグをカウンター下の荷物置き場にしまうと、リカルドがおしぼりとお通しの切り干し大根の煮物を差し出してきた。
「かばん重そうっすね」
トートバッグは丈夫で、タブレットやA4サイズの書類が入る。
「荷物置いてから来てもよかったんじゃないっすか」
「一度座っちゃうと動けなくなるから……」
研修が明けて、営業に配属された立香にはやることも覚えることも山のようにある。今日は初めて会議の議事録をつけた。前もって作り方を調べたとはいえ、実際の業務とはやはり違う。
これから先輩について営業の現場を回ることになるが、その前に学ぶことはいくらでもある。パワーポイントの作成方法やデザインの基礎などは大学で学んだものの、ビジネスにおける基本的なことは何もわからない。プレゼンの際の効果的なスライドの見せ方や文字の適切な大きさなどを会社で共有されている資料から引き写して勉強する。
くたくたになって帰宅して、メイクを落として入浴して夕食を摂ってベッドに倒れ込んで、気づけば朝だ。
ノー残業デーの水曜日も、放っておけば肉体的な疲れを取ることに時間を取られてしまうのはわかりきっている。
心の栄養を摂るために月二回は『土佐居酒屋以蔵』に顔を見せたいのに、少し休むつもりで朝まで寝落ちしたら切なすぎる。
ため息をつく立香に、リカルドは微笑んだ。
「いつものっすか」
「いつものっす」
長財布から、A4の紙を縦二等分、横六等分した紙を取り出す。
「店長、生一丁」
「わしが出すき」
三ヶ月以上働いているリカルドも既にビールサーバーの使い方は習っているはずなのに、立香が『ドリンク券』を差し出す時はいつも以蔵がビールを注ぐ。
「ほれ」
「ありがとうございます!」
差し出されたグラスを受け取り、正面を見ると以蔵もグラスを持っていた。
「乾杯」
「はい、乾杯」
カウンターの内と外でグラスを合わせ、麦わら色の液体を喉に流し込む。弾ける炭酸と、ほどよい苦味が舌を刺す。
立香がひと口飲む間に、以蔵はグラスの中身を半分にしていた。
「大将、飲みすぎですよ」
「こがぁなん、まだまだ序の口じゃ」
心配する立香を、以蔵は笑う。己の健康を微塵も疑っていないところを、アルバイト時代から気にしているのだが。
そもそも、本来なら以蔵が自分の分のビールを飲む必要はない。
「おまんに一人で乾杯さすわけにはいかんき」
と、初めてドリンク券を使った時に言ってくれた。
それだけ、立香をねぎらいたいと思ってくれている。卒業したアルバイトのことを、今も気にかけてくれている。
そのことに、立香の胸は温かくなる。
三月にドリンク券をもらってしばらくは、『かえって気を遣わせてしまったのでは?』と不安になって使うのをためらっていた。
けれど、もらった厚意を無碍(むげ)にするのもそれはそれで失礼だ。
だから、己のペースで居酒屋以蔵に顔を出すことにした。
その代わり。
「大将、注文いいですか。揚げ出し豆腐ひとつお願いします」
立香が頼むと、以蔵はため息をついた。
「ほいじゃき、言(ゆ)うちゅうろう。おまんはビールだけ飲んじょきゃえいがじゃ。ほんためのドリンク券じゃき」
「そんなわけにはいきません。わたしだってもうお給料もらってるんです、このお店のアルバイトじゃなくてお客さんなんです」
「あー……めった。揚げ出し豆腐、一丁」
そう言って、以蔵は厨房に戻った。
立香は改めて、ビールを呷る。
成人してから、女子会やゼミの飲み会で飲酒を始めた。甘いカクテルは口当たりがよく、ビールは苦かった。
よく、「大人になったらビールのおいしさがわかるよ」なんて言われるが、就職しただけではまだ大人になりきれていないらしい。