甘やかすのはよくないけれど 繋いでいた手が、ぴくり、と反応する。悪い予感がして前を向くと、果たして美女が歩いてきた。
坂本探偵事務所のあるターミナル駅の、繁華街のメインストリートでのことである。
顔立ちは控えめながら、パーツの配置が整っている。派手な服装ではないのに、恵まれた身体のラインがわかる。
以蔵の好みは幅広い。顔自体ももちろん、身体から連想される触り心地も重要なようだ。
(――そんなこと知りたくなかったんですけど!)
立香が手を引っ張ると、以蔵は飴色の瞳をこちらに向けた。好色さを隠さない視線に、立香は思わず血管の浮いた手の甲をつねる。
「痛っ」
顔をしかめる以蔵に、
(心が痛いのはこっちなんだから!)
と、内心で怨みごとを言う。
「立香、どいた」
「どうしたも何も」
立香と以蔵のいさかいなど知らぬ風に、美女は二人とすれ違う。そちらを振り向く以蔵には、何ら反省の色がない。
満足したのか、視線を立香へ戻した以蔵は、
「腹減ったか、ほいたらタピオカでも飲むか。おまんも好きじゃろ」
駄々をこねる立香をなだめる、という態度で接してくる。立香の心を波立たせた、という自覚はないようだ。
「……」
そっぽを向く立香に、以蔵も少しは違和感を持ったようだ。
「おい立香、ほんにどいた」
「……」
「何どくれゆう」
「わからないならいいです」
「言わんとわからんろう」
心配げに見下ろして来るのが、また癇に障る。
「わしはアホやき、言うてくれんことはわからん」
「……わたしなんかより、綺麗な人でも見てればいいんじゃないですか」
立香が言うと、以蔵は後ろを振り返ってから立香を見た。
「今の見ちょったがか。目ざといのう」
今日の以蔵は、律儀なほど的確に地雷を踏む。
「好きな人が何を見てるか、気にならない人はいません――わたしの隣で、可愛い女の人見て」
「嫉妬かえ」
以蔵は余裕げに笑った。
立香は以蔵の手を握り直し、己よりひと回り大きな身体を引っ張るようにして歩き始めた。
「おい、ちょ、立香、どいた」
「こんなとこで喧嘩なんてしたくない」
「買い物はえいがか」
「いい」
「おまんが行きたい言うたがに」
「いいから」
ここから以蔵の部屋までは、歩いて十分もかからない。
隙あらばこぼれそうな涙をこらえて、立香は前を向いて足を進めた。
三階までの階段を上り、以蔵の部屋のダイニングで、立香は飴色の瞳を見上げた。
「以蔵さん」
「なんじゃ」
「わたし、人よりも堪忍袋の緒が丈夫な方だと思う。でもね――さすがに限度があるよ」
視線に力を込めると、以蔵は狼狽をあらわにする。
「何ぃ言う。てんご言いな」
「ふざけてるように聞こえるんだ?」
以蔵は濡れた身体から水滴を飛ばす犬のように首を振る。
「言うたろう、わしにはおまんだけじゃ」
「でも、他の人は見るんだね」
「……えい女に目が行くがは、男の本能やき……」
本能。便利な言葉だ。
胸に熾る炎は、あっという間に燃え盛る。
「じゃぁ、わたしがイケメンさんのこと目で追っかけてたらどうする」
「決まっちゅう、ほがな男は殺す」
飴色の瞳に、物騒な光が点る。
しかし今の立香の心には、想われていることへの歓びなどは湧かない。
「自分を棚に上げるね……以蔵さん、わたしがよそ見するの許さないよね。わたしもそう思うって、なんでわかんないかな?」
「うぐっ……」
苦しげに喘ぐ以蔵を見ていたら、常々思っていたことが口をついた。
「以蔵さん、わたしのこと試してる?」
「試す……?」
「こうやって、わたしの前で女の人にちょっかいかけて、どれくらい加減すればわたしの心が離れていかないかって試してない?」
以蔵は弾かれたように背筋を伸ばした。
「ほがなことはしちょらん!」
前のめり気味の大きな声で詰め寄る。
『試し行動』について、立香は臨床心理学の授業で学んでいた。
特に淋しい環境で育った幼児に顕著な行動である。
目の前の相手の愛情が信じられなくて、『どこまで悪いことをすれば相手が自分を見限るのか』と測るために悪いことを繰り返す。
おもちゃを投げたり、わざと飲みものをこぼしたり、というのが代表的な行動だ。
相手が許してくれれば『ここまでやっても嫌われなかった』という実績になる。そして更なる試し行動に出る。
もし怒りを買ったら、『どうせこの人は最初から自分を愛していなかったのだ』と、責任を転嫁する。
大人でもたまに、恋愛相手へこういう行動を起こす者がいる。
話を聞く限り、以蔵の両親は普通の域を出ない程度に息子へ愛情を注いでいた。
しかしメンタルに疵を与えるのは毒親だけではない。
素面の時は話してくれない、『武市先生と新兵衛』の件がある。
ひと頃はかなり荒れた生活をしていて、友人知人をいっぺんに失ったとも言う。
無意識のうちに立香を試し、かつて出会い別れた者たちとの違いを実感しようとしているのかもしれない。
それだけ立香が求められている――ということだが。
(……だからって!)
愛情ゆえの行為でも、許されないことはある。
ただ互いへの愛情を持ち寄り、互いの心身で温め合いたい――立香の望みは、そう大それたものではないはずだ。
頻発するわけではなくても、愛情を信じられていないと実感してしまえば、立香のメンタルは相応にすり減る。
独りの夜、無性に泣けてしかたなかったこともある。
「のぅ立香、聞きや。なんべんも言うちょる、わしにはおまんだけじゃ。わしかたけ怠惰なろくでなしを好いてくれる女がそうそうおらんこともわかっちゅう。やき」
伸ばされた手をよける。以蔵は傷ついた顔になった。
(ほら、いつもこう)
立香にひどいことをしているくせに、まるで被害者のように振る舞う。意識してかしていないかはわからないが、自分の意のままにならない立香に非を見出している。
「以蔵さん、わたし、帰る」
幸い、まだ上着は脱いでいなかった。以蔵の手から己のトートバッグを奪い、立香は玄関へと足を向ける。
「立香……てんごうじゃろ? たったあればぁのことで」
以蔵は『たったあれくらいのこと』としか認識していない。
「以蔵さん、わたしのこと莫迦にしてるよね」
「ほがなこと……おまんが何言いゆうがぁわからん……」
「じゃぁね」
「待ちぃ」
再度追いすがる手から逃れ、立香はドアを抜けた。
階段を降りている間に、以蔵からのLINEの爆撃が襲う。
『悪かった』
『泣くな』
『すまん』
『許しとうせ』
一階に着いた立香は、返信を送った。
『何が悪いかわからないなら謝らなくていいです』
スマホを操作し、通知を切る。
早く帰ろう。電車に乗りたい。
住宅街から繁華街へと向かい、最寄り駅へ通じるターミナル駅を目指す。
歩きながら思い出してしまうのは、以蔵の不誠実な態度だ。
立香というものがありながら、次々と美人に目移りする。自分の罪について考えることもせず、頭を下げれば立香が許してくれると思っている。
涙が出てきた。
「ぅ……」
立ち止まって、嗚咽を飲み込む。
こんな街中で泣いたら不審者だ。
ハンカチで目頭を押さえ、ゆっくりと深呼吸すれば、なんとか感情の波はやり過ごせた。
目尻の赤みを意識しながら電車に乗り、最寄り駅の改札を出る。
駅前のスーパーは特売日で、新鮮な野菜が店頭に並んでいた。
旬のなすにりんご、キャベツにブロッコリー。
青々としたセロリもある。
(なんとかして以蔵さんの香味野菜嫌いを克服させたいな……)
と考えてから、去り際の以蔵を思い出す。
茫然として、それでいて立香を手離したくないと語る表情。
つい以蔵のことを考えてしまう自分に絶望する。
どんな目に遭わされても。
たったひとつの宝物を見る目。触れる手。
それが己に注がれていると思うと、身体中が熱くなる。
立香を愛していても美人に目が行ってしまうのは、息を吸うようなものなのだろう。
許したいと思う自分を見つけてしまう。
しかし、ここで許しては以蔵は何も変わらない。
(わたしだけ、見て)(他の女なんて見ないで)
足早にスーパーから立ち去り、なかば駆け足で家路を急ぐ。
玄関を開け、上着を脱ぐこともせずにベッドへダイブする。
「ぅっ……うぇっ……ぁぁぁ……」
こらえていたからか、泣き声を止めることができない。
「以蔵さんのばか……ばーか……」
枕を抱きしめ、枕カバーの涙の染みが手のひら大になるほど涙を流す。
ひっく、ひっくとしゃくり上げ、ようやく少し落ち着いてきたから、放り投げていたトートバッグからスマホを取り出す。
スリープを解くと、まずLINEのメッセージ画面が表示された。
以蔵からのメッセージは、最初の十分ほどは頻繁に、だんだんペースが落ちている。
『すまざった』
『わしが女見るがぁつらいか』
『許しとうせ』
『お前を試したりはしてない』
『とぎにさせとうせ』
『もう女は見ん』
『ようにする』
『わしが悪かった』
『お前のいやがることはせん』
『ように頑張る』
標準語と土佐弁が入り交じるメッセージに、ほんの少し笑いが込み上げる。
『電話くれ』
そのメッセージが最後だった。
通話ボタンを押すと、呼び出し音もそこそこに以蔵が出る。
『わしじゃ』
「もしもし……LINE見たよ。以蔵さん、正直だね。『ようにする』とか」
以蔵は照れたように笑った。
『おまんに嘘ついて、づかれとうない。おまんは嘘つく方がづくき』
「わたしのこと、わかってるね」
『好きな女のことじゃ』
そう言って、以蔵は言葉を改めた。
『のぅ立香、おまんはわしのどこがえい? さいさい目移りして、おまんを泣かす男の、どこが』
その言葉に、立香はしばし言葉を止めた。
考え込む立香に、以蔵は小さくこぼす。
『ほうか、もうわしに愛想ぉ尽かしたか』
「そんなことっ……」
『のぅ立香。わしはおまんが好きじゃ。おまんととっと一緒におりたい。やけんど……わしがおまんにふさわしい男かどうか、わしにはわからんがじゃ』
「えっ」
立香は耳を疑う。普段あれほど立香へ執着を見せる以蔵が。
以蔵は苦しそうに言った。
『わしはおまんを幸せにしたい。おまんの笑うた顔が見たい。やけんど、おまんを泣かすことしかできんなら……わしは……』
「以蔵さん」
立香は、どんどん沈んでゆく以蔵の言葉を止めた。
「以蔵さんは……確かに、すぐに女の人見るし、止めないと際限なくお酒飲むし、減煙もしないし、ギャンブルするし」
『えいとこないの』
以蔵は声に自嘲を乗せる。
否定を否定するため、立香は勢いをつけて言った。
「でもでも! 以蔵さんってとっても真面目。坂本さん、わたしと会うたびに以蔵さんのこと褒めるよ。お竜さんも文句言うけど、以蔵さんを認めてる」
『あいつら……ほがなことはわしに言いや』
「それに、わたしのこと、その、愛してくれてる。以蔵さんに頭撫でられると、気持ちいいんだよ……」
『立香』
「以蔵さぁん……好きだよぉぉ……」
止まっていた涙が、またあふれる。
『立香、立香……しょうすまん』
「好きなのぉ……」
ぐずぐずと鼻を鳴らす立香の耳に、低い声が語りかけた。
『おまんの涙ぁ拭いちゃりたい。おまん家に行きたいわしを許してくれるかえ?』
以蔵は意外なことを言う。普段、『嫁入り前の娘んくなんぞに通うたら妙な噂が立つ』と言うのに。
『車で迎えに行っちゃるき、わしんくに来ぃ。わしがとっとそばにおるき……おまんが許してくれるなら、やけんど』
「許す、許すぅ……」
そう簡単に許しては、以蔵に対しての罰にならない。もっと立香の苦しみを伝えなければ。
そう冷静に主張する自分の声が、どんどん小さくなる。
以蔵が好き。以蔵とくっつきたい。以蔵から愛されたい。
そんな爆発的な感情に、全身が塗りつぶされる。
『こがなわしが、えいか』
「以蔵さんが、いいの」
『しゃんしゃん行く』
「信号、守ってね」
『努力する。切るけんど、おとなしゅう待っちょれよ』
「はい」
立香がうなずくと、通話が切れた。
ベッドに横たわると、肌寒さが足許から忍び寄ってくる。
暖まりたい。好きな人の体温を感じたい。
結局、今回もつれなくできなかった。
しかし、自分に嘘をついてまで罰を与えることはできない。正直さ、素直さが立香の取り柄のひとつだ。
(あぁ……)
ため息をつき、LINEのメッセージ画面を読み直す。
『もう女は見ん』
その場の勢いかもしれない。立香に見限られたくないという必死な思いが生み出した、急場しのぎの言葉なのかもしれない。
それでも、そんな言葉にすがってしまうほどには、立香は弱い。
(ばかだね、わたし)
しかし、以蔵を好きな自分が、立香は好きだ。以蔵のダメさを踏まえて、いいところを見つけられる自分が好きだ。
それが立香の甘さである、とわかってはいても。
早く以蔵に逢いたい。
胸を満たすのは、単純な願いだけだ。