あなたの過去に触れられなくても 同じ『事務所』と名がついていても、古ぼけた雑居ビルの一室に構えられている坂本探偵事務所とは雲泥の差だ。
武市瑞山個人と勤王党の管理を兼ねた事務所は、都心のオフィスビルのワンフロアを借り上げている。
受付カウンターの女性に、
「田中新兵衛さんと約束をしている藤丸といいます」
と告げると、女性はすぐに受話器を取った。ほどなく、カウンターの向こうから巨体が現れた。
新兵衛は苦虫を噛みつぶしたような顔で立香を見下ろす。
「……こちらへ」
きびすを返した新兵衛について行くと、応接室のひとつに通された。立香に奥のチェアを勧め、新兵衛は正面の下座に着いた。
応接室へコーヒーを運んで来た女性職員が、隠しきれないぶかしさを立香に向ける。彼女が退出してからも、しばし沈黙が部屋に流れる。
「お久しぶりです」
「……久しいな」
立香の挨拶に、新兵衛は無愛想に応じた。
強面に浮かぶ敵愾心は、本来以蔵に向けられるべきものなのだろう。以蔵の恋人という立場を背負う立香にそれを向ける理由はわかる。
しかし、ここで折れては今日立香がアポイントを取った意味がない。立香は丹田に力を入れた。
「それで、何用だ。以蔵と別れる気持ちの整理がついたか」
「前お会いしたときはまだ以蔵さんとつき合ってませんでした」
「その情報は今必要なものか?」
三白眼で睥睨する新兵衛に、
「一応、けじめとして……」
「そんなことはどうでもいい。私も君が憎いわけではない。で、以蔵と別れるのか? 以前も言ったが、そのつもりなら助力は惜しまん」
立香個人のことはそこまで嫌っていないのかもしれない。ただ、以蔵と交際するなどという(新兵衛にとっての)愚行を疎んじているだけで。
それでも。
「別れません。以蔵さんはわたしの大事な人です」
新兵衛は鼻を鳴らした。
「わざわざそれを告げに来たのか? 私も暇ではない、用件が済んだなら失礼する」
「違います! 最後まで話を聞いてください」
腰を浮かしかけた新兵衛だが、座り直して立香を見る。
「手短にお願いする」
「――武市先生や田中さんと以蔵さんの間に、何があったんですか?」
立香の言葉に、新兵衛は前髪に隠されていない右目を見開いた。
「……何があったか、だと」
「はい」
「以蔵から聞いてはいないのか」
新兵衛の言葉は問い詰めるものだ。立香は圧力から逃れるように首を振った。
「以蔵さんは、素面の時には先生たちの話をしません。酔った時だけ、絞り出すような声で先生の名前を呼びます。それがどんな意味なのか、わたしは知りたいんです」
「……くだらんな」
新兵衛は大きくため息をついた。
「それを知ってどうするつもりだ」
「どう、って」
返答に窮する立香を、新兵衛は鋭く見やる。
「以蔵をだしにして、武市の情報を収集する魂胆なのではないのか」
「そんなこと……そんな、何のために」
「以前君に会った時よりも、武市のメディア露出が増えているのはわかっているだろう」
立香はテレビやSNSで流れるニュースを思い出す。
勤王党は今や完全に地方政党から脱し、いくつかの市町村や都道府県の議会に議員を送り込んでいる。国会議員の武市も議会や委員会で頭角を現し、端正なルックスもあって老若男女からの注目を集めている。
正直、以蔵のことがなければ遠い世界の人だと思っていただろう。
だが、それがどうしたというのか。
困惑する立香へ、
「君が武市と以蔵の間柄の証拠を掴み、あの怠惰で放漫なろくでなしの所業と合わせて暴露系You Tuberにでも売れば、興味を持たれるだろうということだ」
「――!」
頭に血が上る。
言葉を失う立香に、新兵衛は続ける。
「以前も言っただろう。武市は清廉なイメージを持たれている。その幼馴染みが君のような大学生を慰み者にしている、などと知られたら勤王党は深刻なイメージダウンに見舞われる。しかもやつは末席だったとはいえ元党員だ」
「……」
「証拠は集めているのだろう? 以蔵の横暴で変態性欲をにじませたLINEのスクリーンショットなどを溜めておけば、以蔵に愛想を尽かした時に役立つ。あの男は公人ではない。油断しているという意識もないままに不利な証拠をばらまき続けているはずだ。……それとも」
新兵衛は一度言葉を切った。
「君はもう武市と以蔵の過去を知っているのかもしれない。何も知らない体で私たちから話を引き出し、都合のいい物語を作る。君と以蔵のただれた関係は、さぞや大衆の耳目を惹くだろう。盗聴の音源があれば、ゴシップ好きの気に入る物語を好きなように捏造できる。実は以蔵も一枚噛んでいるのかもしれん」
「盗聴って」
「スマホで録音しているのだろう? 今出せばデータを消すだけで許してやる」
手許の紙コップをひっくり返さなかっただけ、理性的だったと思う。
指先の震えを握り拳で封じて、立香は新兵衛のがっしりした顎から右目に視線を向ける。
「……わたしも! 以蔵さんも! そんなことするわけないじゃないですか!」
「私の知る以蔵ならやる。労せず金を稼ぐ手段があるなら全力で乗る、卑怯な男だ。君はまだあれを理解しきれていないだろうが」
「違う!」
立香は胸の前で握り拳を作った。
「以蔵さんは! 変わったんです!」
嗤う新兵衛へどのように伝えればいいのか、必死で頭をフル回転させる。
「確かに前はだらしなくてお金に困っていたかもしれません。職もどこも長続きしなかったっていうのも聞いてます。けど今は坂本さんのところで、もう三年以上働いてます。大きなお給料が入ったら、きちんと借金を返してます。田中さんが知ってる以蔵さんとは違うはずです」
「そもそも、あのような職は正業ではない。人の弱みにつけ込んで穢い感情を暴露して金に替えている。およそまっとうな者は羞じ入って近づきもしない仕事だ。そんな穢い手で稼いだ金に触れるか? その金で作る食事はうまいか?」
出逢った頃、以蔵は昔の知り合いから探偵の仕事を散々に罵られたと言っていた。
それは新兵衛のことだったのか。
過去を知る新兵衛から罵られても、立香は以蔵を護らなければならない。好きな人からもらった愛情を返すのは当然のことだ。
「確かに探偵はみんなの憧れの仕事じゃないかもしれない。それでも、お金に綺麗も穢いもありません。以蔵さんは今自分にできることをやってるし、いい結果を得るための努力もしてる。今の以蔵さんは、田中さんが知ってる卑怯者の以蔵さんじゃないんです」
以蔵を見くびり、蔑む新兵衛に、なんとか一矢報いたい。
その一心で口を動かす立香に、新兵衛は右目を向けた。
「……にわかには信じがたいが、君に以蔵がそう見えているのはわかった。私にはわからんことだが。それで、だ。以蔵が語らないことを私に聞いてどうするのだ?」
立香は気持ちを鎮めるために二回深呼吸をする。武市を信奉する男は相変わらず立香を険悪に見る。
激そうとする己を抑えつけ、立香は新兵衛に言葉をかけた。
「以蔵さんは……傷ついてます。わたしにいろんなことを話してくれるけど、武市先生と一緒だった時の話はしません。それがどうしてか、武市先生の考えたことを知りたい」
「知ってどうする」
低い声は、触れられたくないことを警戒しているのか、それとも。
「本当だったら先生に直接聞きたかったんですけど」
「武市は多忙だ。こんなことに時間を割けるわけがない」
その通りだと思うから、立香は唇を噛む。
「だから、田中さんに聞きます。わたしは以蔵さんを癒したい。先生たちと以蔵さんの間に何があったのか……教えてください」
「断る。武市の今後の活動に差し障る。あんな男との交際の痕跡など消し去りたいくらいなのだ、こちらは」
明確な否定。
しかし立香も諦められない。
以蔵のためだ。
「先生も以蔵さんとのことを後悔してるんじゃないですか。以蔵さんをあんなに傷つけて、平気でいられる人じゃないように見えます」
「武市には関係ない。あれが独りで勝手に傷ついているだけだ」
「以蔵さんは先生たちとのことを本当に悔やんでるようにわたしには」
「話は終わりだ。引き取ってもらおう」
スマホを取り出す新兵衛にしがみつこうと腕を動かしかけた立香は、外からドアに何かがぶつかる音を聞いた。
新兵衛もぎょっとした表情を浮かべる。
「……田中くん……」
ドア越しの声は、メディアで聞き覚えがある。
あわてて立ち上がってドアを開けた新兵衛の陰から、黒い塊が飛び込んできた。
それはよく見ればスーツを着た男の形をしている。
「先生」
新兵衛の呼び声に、武市瑞山は膝についた埃を払って立ち上がった。
「先生、ないしちょ……何をしているんです。今は委員会の準備をしているはずでは」
「最大限に手早く終わらせた。議題は頭に入っている。問題はない」
「そんなことを……お立場を考えてください」
頭を抱える新兵衛に、武市は堂々とした声を出す。
「それより田中くん、言いすぎだ。私の立場を心配するのはいいが、誰彼構わず濡れ衣を着せて侮辱しては逆効果だ。許せることではない」
「ですが、先生」
「田中くん」
念を押すような武市の口調に、新兵衛は立香へ向き直って頭を下げた。
「……すまなかった、言葉が過ぎた」
明らかに不承不承だが、疑いが晴れたので立香は安堵のため息をつく。
二人の様子を見た武市は、改めて立香の前に立った。
「藤丸立香さんだね、私は武市瑞山。勤王党の党首をしている」
「はい、お姿は何度も拝見しています」
「以蔵が世話になっているようだね」
以蔵の家事一般を引き受けている立香だが、身体的にも精神的にも以蔵に護られている。お互い様とも言える。
とっさに答えられない立香に、新兵衛が割り込んだ。
「先生……以蔵のことなど、お忘れになれば」
「田中くん」
武市は柔らかくたしなめる。新兵衛はうなって口を閉じた。
「藤丸さん、今君は『以蔵は変わった』と言ったね――そうではないのだ」
その言葉に立香は思わず肩をこわばらせてしまう。
この人も以蔵の変化を認めてくれないのか。やはり悪感情を持っているのだろうか。幼馴染みといた時も、以蔵は孤独だったのではないか。
しかし武市は穏やかに言った。
「以蔵はたぶん、元の以蔵に近づこうとしている。私の知る、天真爛漫な以蔵に」
意外すぎる言葉だった。
「以蔵さんが、天真爛漫……ですか?」
立香の知る以蔵は世をすねている。卑屈さと傲慢さをあわせ持っていて、褒め言葉をなかなか素直に受け止められない。それでいて己の身体的能力を過信して、大言壮語する。
それはどちらも自己肯定感の低さから来る心の作用だろう。適切に己を褒め、いたわることができない。
そんな弱い心をなんとか支えたいと、立香は常々思っている。
しかし――
「田中くんも知らないかもしれないな。子供の頃の以蔵は無邪気で、褒めればもっといい結果を出そうと頑張っていたものだ」
「わたしの知る以蔵さんとは……違います」
「そうだな、成長の過程で損なわれた――と私が思っていたものだ」
「お言葉ですが先生」
新兵衛が割り込んだ。
「私が聞いた限りでは、幼少時からあれは万事だらしなく学業にも身を入れていなかったと……」
「確かにそういう面もあった。したいことをして、したくないことはしない。易きに流れるという欠点もあった。それでも、したいことへの熱意は誰にも負けなかった。教えられたことはスポンジが水を吸うように己のものにし、決してふざけたりはしなかった」
立香は目を見開いた。
もちろん、大事な人をけなされたら腹が立つし、褒められたら嬉しくなる。
けれど、己の知らない面を採り上げられると、つまらないことだと思いながら嫉妬もしてしまう。
(まだまだわたしの知らない以蔵さんがいるんだ……)(もっと早く出逢えてればな)
立香の逡巡をよそに、武市は言葉を継ぐ。
「以蔵は変わってしまった――私が変えてしまったと思っていた」
「先生に過失はありません、悪いのは以蔵です」
「私をかばうことはない……藤丸さん、実は私は密かに龍馬の報告を受けていた」
「そうだったんですか……」
そこまでの意外さもなく、武市の告白を受け止める。
立香は最初から武市たちに知られていた。
だからあの日、新兵衛は立香のもとを訪れたのか。
武市はまぶしそうに目を細める。
「人の倫を踏み外しかけ、なおも危うい縁の上に立っていた以蔵が、光の射す方を向き始めた。田中くんは違う受け取り方をしていたようだが」
「先生は以蔵に甘すぎます。私は最悪の結果を避けるために動いていたのです」
「田中くんは以蔵に辛すぎる――以蔵が立ち直るきっかけを知って、私は嬉しくなった。傷ついた以蔵は、もう人に心を寄せることができなくなっているかもしれないと危惧していたから。藤丸さん、ありがとう」
武市は立香に頭を下げた。
立香はあわてて両手のひらを前に突き出して振る。
「いえいえ! わたしが勝手に以蔵さんを好きになっただけですから!」
「以蔵もずいぶんと前から君を慕っていたと聞いている」
改めて言われると羞ずかしい。頬が熱くなる。
「以蔵だけではない。私の悔恨も、君は救ってくれている。何度礼を言っても足りない」
「君は先生に頭を下げさせることを重く受け止めるべきだ」
新兵衛は変わらずきつい物言いをする。しかし武市の言葉を否定はしない。
この態度でわかったことがある。
「先生も……以蔵さんを大事に思っているんですね……」
袂を分かってもなお、以蔵を理解しようとしている。その幸福を心から願っている。
武市はわずかに口角を上げた。不思議とそれだけでずいぶんと柔らかい印象になる。
「弟のように面倒を見ていたからな」
顔をしかめる新兵衛も、武市の安寧にまで口を出すつもりはなさそうだ。
武市は背筋を伸ばした。
「私たちと以蔵の間に何があったか知りたい、と言っていたね」
「はい」
「私の口からは言えない。以蔵より先に私が話すわけにはいかない……が、ボタンのかけ違えだったとだけ伝えておきたい」
その言葉から、本当に誰にも悪意がなかったであろうことが伝わってくる。
傷ついた以蔵が存在することは確かではある。悪意がなければ何をしても許されるとまでは思わないが、後悔をにじませた目の前の武市を責める気にもなれない。
「もどかしいかもしれないが、以蔵を待っていてほしい。このまま光を浴びていれば、いつかは素直さを取り戻すだろうから」
光とは――立香のことか。
責任重大である。
「私は以蔵がどうなろうと知ったことではないが……以蔵の不幸は先生の不幸で、以蔵の幸福は先生の幸福だ。しくじるなよ」
新兵衛は悔しそうに圧をかけてくる。
「わたしにできることで、以蔵さんを補えればと思います」
そう言った立香に、武市はうっすら笑った。
武市は帰り際に小さな紙袋を渡してくれた。巷で評判のまんじゅうだった。
「この近辺にも支店があってね」
「そんな、悪いです」
「受け取ってほしい。私と田中くんの気持ちだ」
「私の気持ちを組み込まんでいただけませんか」
新兵衛の苦言をよそに、武市は柔らかい顔つきで立香を見る。
その表情ひとつとっても、以蔵への深い愛情と立香への期待がうかがえる。
(以蔵さん、こんなに大事にされてる)
以蔵がこの慈愛を素直に受け取れる日が来るように。
もちろん以蔵が望まないなら押しつけはしない。
けれど、ひねくれぶってはいても根は素直な人を想えば、己にできることはないかと探してしまう。
骨ばった両手でしっかりと手を握られ、立香は二人に見送られてエレベーターに乗り込んだ。
最寄り駅へ歩きながら、まんじゅうの処遇について考えを巡らせる。
以蔵とシェアするのは論外だ。今日武市と会うことはもちろん秘密にしている。まんじゅうの出処を後で以蔵が知ったら、立香の勝手さに憤慨するだろう。
とはいえ、一人で消費するのも簡単ではない。食事代わりにするのは健康によくない。
エレシュキガルや刑部姫の都合を聞いてみようか。専門店で手に入れた香りのいいお茶を淹れて、甘味を楽しみながら優雅な時を過ごしたい。
電車の中で、以蔵にLINEを送る。
『今日行けなさそうだけど、一人で大丈夫?』
勘のいい以蔵に今日のことを気づかれれば、隠密行動が無に帰してしまう。取り繕うよりも避けた方が賢明だ。
『お前、わしを何だと思ってる』
標準語混じりのメッセージがすぐに返ってきた。
『お前がおらいでもわしは一人で生きてきた。飯ぐらい自分でなんとかできる』
『ごめんね、お願い。冷蔵庫に常備菜もあるから、栄養のバランスは考えてね』
立香の言葉に、黒ポメラニアンが鼻高々に誇るスタンプが送られてくる。
一抹の不安を覚えるが、好きなものを食べるチートデイだと思うことにする。
以蔵の身体を己の料理だけで構成したい立香だが、あまり縛りつけすぎるのもよくない。
立香の我を通して息苦しい思いをさせては、いつか愛想を尽かされてしまうかもしれない。それは厭だ。
ほがな日はとっと来ん、と言ってくれる以蔵に甘えてばかりではいけない。
その代わり、明日の献立を考える。
ここ最近は和食が続いたから、たまには洋食もいいだろうか。
とろとろ卵のオムライスににんじんのグラッセやレンジで加熱したブロッコリーを添えれば、目の保養にもなる。以蔵は少し濃いめの味つけが好きだが、ケチャップを使いすぎると塩分過多になってしまう。トマトピューレやカット缶をうまく活用したい。
以蔵が己の食事をおいしそうに頬張る姿を想うと、胸が熱くなる。
こんな日々の積み重ねが、以蔵の胸のかさぶたになればいい。
かさぶたの中で、傷ついた組織が再生される。それがはがれた時の、少しピンク色に引きつった皮膚を撫でたい。
(以蔵さん、もう大丈夫だから)
と伝えられれば。以蔵の安心の根拠になれれば。
武市の顔を思い出す。以蔵への慈愛に満ちた顔。
その期待に応えるためにも。
立香は胸からあふれる決意を感じた。