リスキリング 秋口の空気はもう冷たい。布団から出ると、立香の柔肌に鳥肌が立つ。
布団のそばに打ち捨てられた腰巻を締めて寝間着を羽織り、たんすの衣装盆から襦袢と地味な普段着を出して袖を通す。
気だるさは残っているが、出勤前の以蔵に温かい朝食を食べてもらいたい。
米は昨夜のうちに研いでおいた。蓋をした釜をかまどに置き、焚きつけに火を点けて薪に燃え移らせる。
厨の軒先に出て七輪に網をかけ、鯵の干物を焼く。焼き終わったら網をどけて、五徳の上に湯を張った小鍋を置く。
ぬか床からにんじんのぬか漬けを取り出し、短冊切りにする。
小鍋の湯が沸騰したらかつお節をくぐらせ、乾燥わかめと味噌を入れてかき混ぜる。
味を整えた味噌汁を小皿に一口取って飲んでみる。
「……うん、おいしい」
麦の混じった五分搗きの米もほどよく炊けた。
ちゃぶ台を用意して布団を敷いた寝間に戻ると、以蔵は横向きになって何かを探る手つきをしていた。
「立香さん……どこじゃ……?」
「以蔵さん、朝だよ。起きなくちゃ」
布団のそばにひざまずき、肩を揺する。寝起きの悪い以蔵は立香の腕を掴み、布団へ引きずり込もうとする。
「いたずらしない」
前髪の上から額をぺちと叩く。うっすら開いた飴色の瞳は、まだ夢心地だ。
「んー……立香さん、ここにおる……」
「わたしはいますよ、ごはんできたから起きて」
むにゃむにゃ言いながら抱きしめてくる腕に身を任せたい、とほんの少し思ってしまう。
けれど、以蔵を遅刻させるわけにはいかない。
なんとか腕を振りほどいて、掛け布団を剥ぐ。
「冷やい!」
「はいあったかいごはんがありますからね! 遅刻しますよ起きて起きて!」
寝間着の上に半纏をかぶせて、まだ寝ぼけ眼の以蔵を居間へ引っ張ってちゃぶ台の前に座らせる。
立香もその正面に座り、
「はい、いただきます!」
「いただきます……」
ゆるゆると手を合わせた以蔵だが、ごはんを口に運び味噌汁をすするとだんだん目が覚めてきたようだ。
「うまいのう……わしの奥様は万能じゃのう」
「お仕事頑張ってほしいから」
「おまけにまっこと気立てがえい……最高じゃ……」
湯を飲み、朝餉をかき込む夫の姿に安堵を覚える。
借家で二人差し向かいになって朝餉を摂るなんて、商家の令嬢と書生だった頃は想像すら許されなかったことだ。
政略結婚することになった令嬢は祝言の前夜、ただひとつの思い出が欲しくて書生の部屋へ忍び込んだ。互いに想いを寄せ合っていたことを知らないまま、二人は忙しなく肌を重ねた。
輿入れがお流れになって、無為と絶望を抱えたまま年増になった令嬢へ、帝大を卒業した書生が手を伸ばした。
好きな人と家庭を持ち、穏やかな日々を送れることのありがたさ、尊さ。
こうのとりをなかなか迎えられないのが、密かな悩みになっているのだけれど――
「ねぇ、以蔵さん」
「なんです」
ご飯茶碗も椀も空にして、箸を箸置きに据えた以蔵が、立香を見る。
「こんなこと、朝話すことじゃないと思うんだけど……お願いがあるの」
「お願い?」
以蔵は首を傾げた。
「わしに聞けることならえいですけんど」
「笑われちゃうかもしれないけどね……わたし、勉強がしたいの」
「ほう」
相槌には喜色がある。
「わたし、女学校を途中でよしちゃったでしょ? 世間知らずだから、知らないことがたくさんある。少し生活も落ち着いてきたから……もし、以蔵さんが許してくれる、なら」
ふふ、と以蔵は笑声を漏らす。
「許すも許さんもないですわ。どういてわしの許しが必要ながかわかりません」
「だって……家の仕事の邪魔になるでしょう」
「ほがぁなことですか。立香さんは真面目に家事をやっちょります。手早う済まいても、決して手抜きをしちゅうわけやない。ちっくとばぁ息抜きしたち罰は当たらんですき」
朗らかに笑う以蔵から、温かい感情が流れ込んでくる。
立香が『妻のことを子を産む道具としか思っていない』男や、『平気で乱暴ができる』男に嫁がされるのではないかと気が気ではなかった、と『ぷろぽおず』の際に言っていた。
そんな男たちを反面教師にしているのだろう。
「で、勉強って何ぃするつもりですか」
「英語がやりたかったの。女学生の頃、今まで見たこともなかった言葉を勉強するのは楽しかった。喋るのは無理かもしれないけど……始めるのに遅いってことはないと思いたいから」
「……」
あごに手を当てて思案した夫は、やがて正面から飴色の視線を向けた。
「ほいたら、わしが教えちゃります」
「え」
意外な言葉に、思わずまばたきする。
「英語じゃと、そもそもよう読めませんろう。場当たり的に単語の読み覚えたち、基礎がなけりゃ応用が効きません。応用ができんと、無駄に覚えることが増える。系統立った基礎をみっちりやるがが、結局は一番の近道ながです。できるやつが教えるがが手っ取り早いですき」
思わぬ提案に、嬉しさよりも戸惑いの方が勝る。
「いや、大丈夫。以蔵さん、昼間働いて夜にわたしの面倒見るなんて大変だよ」
しかし以蔵は、何でもないと言いたげに歯を見せた。
「藤丸のお家にいた頃、『勉強のわからんとこは教えちゃります』言うたでしょう。あん時は奥様――お義母様がえい顔せざったけんど、今の立香さんには学ぶ権利がある。ほれを護るがも、夫の務めです」
包み込むような労りに、鼻の奥か痛む。
「うん……ありがとう」
「帰りに銀座寄って、入門書を見繕ってきますき――今朝もえい朝餉でした。生きる気力がこじゃんと湧きます」
そう言って以蔵は寝間着から洋装に着替え、颯爽と仕事に出て行った。
残された立香はまずちゃぶ台の皿を下げ、庭の井戸で食器を洗う(自前の井戸があることも、この家を選んだ要因である)。続けざまにワイシャツと下着を洗い、物干し竿に干す。
藤丸家には、表庭に加えて中庭と裏庭があった。それだけ裕福だったのだが、嫁入り前の立香はそれを実感することができなかった。
今この借家にあるのは、隣家の塀との間のささやかな中庭だけだ。
とはいえ、もともと過度なぜいたくをする質ではなかったから、身の丈に合った慎ましい暮らしを楽しんでいる。
温め直した味噌汁と、余分に切っておいたにんじんのぬか漬けで昼食を済ませれば、次は掃除だ。頭に手ぬぐいを巻いて、袖をたすきがけする。
ほうきで畳のほこりを掃く。縁側を雑巾でぴかぴかに磨く。小さいたらいに張った水が黒く汚れると、達成感を覚える。
乾いたワイシャツの皺を火熨斗で伸ばし、他の洗濯物と同様に丁寧に畳む。
そろそろ夕食を調達しなければならない時間だ。
近所の商店街には、ひと通りの品物が揃っている。洒落た外出着や高級食材などは繁華街へ行かなければ買えないが、普通に暮らす分には商店街だけでこと足りる。
豆腐屋の前を通ったら、店主から、
「岡田の奥さん、今日も別嬪だねぇ」
と声をかけられた。
いつも軽口を言う店主だから聞き流すようにはしているが、『岡田の奥さん』という響きには何度でも酔える。
「今日は何があります?」
「いい銀杏があってね、がんもに入れたよ」
ちょうど旬の食材には、食いつかざるを得ない。
ひじきと刻んだ野菜も練り込まれたがんもを六つ買い、八百屋でだいこんといんげんも見繕う。
帰宅してまたたすきがけして米を炊き、がんもを煮込み終わった頃に以蔵が帰って来た。
脱いだ上衣を受け取りながら、
「えいかざですのう」
「あったかいうちに食べてね」
なんて会話をして、朝餉と同じようにちゃぶ台を挟んで座る。
がんもと野菜の煮物は、いんげんの彩りが損なわれないよう気を遣った。
いかときゅうりの酢の物は、火を使わなくてもさっと作れるからありがたい。
「ほんま、立香さんの夕飯にありつける思うだけでなんでもできますわ」
以蔵は湯煎したぬる燗をきゅっと呷る。
互いの皿が綺麗になったところで、以蔵は微笑みかけてきた。
「ほいたら、始めますか。皿片しゆう間に支度しちょきますき。台布巾貸してつかあさい」
「はい」
とうとう勉強ができる。
娘時代、この気持ちをないがしろにされ続けてきた。
『女に学はいらない、そんなものがあったら不幸になる』という決めつけが、知識欲旺盛な立香を縛りつけていた。
その枷から自由になれる――
洗い物も米研ぎも終わらせ、手を拭いて居間に戻ると、以蔵はちゃぶ台の上にランプを置いていた。ちゃぶ台に着いた立香の隣であぐらをかく。
「入門書と帳面と鉛筆です」
ちゃぶ台の上に載せられた長い鉛筆は、よく削られて先が尖っている。
帳面の表紙は無地の厚紙で、中身はわら半紙だ。
「上質紙の帳面もありましたけんど、最初はしくじるもんです。しんきの紙じゃと消しゴムかけるがにも気後れするかもしれんき、しばらくはこれ使いましょう」
以蔵が差し出した入門書の表紙には、大きく『ABC』と書かれている。その横には、狐を擬人化したような女の子の挿絵があった。
その脇の文字を、立香は指差す。
「これは何て書いてあるの?」
「cat. 猫んことです」
しかし立香には、この生き物が猫には見えない。
「猫じゃないよね?」
「うーん……こがぁな時は自己申告に従うた方がえいがかのう……? 本人が猫じゃ言いゆうがじゃき」
入門書のページをめくると、おそらく中学生向けの勉強の心構えが説かれた前書きがある。その後、アルファベットの書かれた格子状の表が印刷されていた。
「アルファベットは覚えちょりますか?」
「えぇと……『えー』。このりんごは?」
金色に輝くりんごが描かれている。
「appleです」
「『びー』……ぬいぐるみの熊?」
枠の中で、もこもこした二頭身半の熊が棍棒を持っている。
「bear。忘れちゃぁせんようですの」
その調子でアルファベットをZまで読み上げた。
女学校を退学したのは三年の冬だった。七年以上の空白があるにしては、覚えている方かもしれない。
「ほいたら、まずはここに書かれゆう単語がソラで言えるがを目標にしましょう。ほれは家事の合間にでもやってもらうとして、今は簡単な文法から教えちゃります。ここ読んでつかぁさい」
武骨な指が紙の上を滑る。
「be動詞言うて、そこにある、ここにおる、わたしは立香です、っちゅう時に使います」
「うーん、習ったような……?」
「習うて覚えちょったことをおさらいせいで、一足飛びに先進むがはようありません。家建てるがでも基礎がおろそかじゃったら地震らぁでしよう崩れます」
「うん」
「立香さんならやっちゅううちにざんじわかる思います。
This is a pen.『これはペンです』っちゅう意味です。thisはこれ、isはです、aは一つの、penはペン。英語は述語――『です』が主語のざんじ後ろに来ます」
「じす、いず、あ、ぺん」
「ほうです、penのとこに他の単語ぉ入れれば説明になります。さっきも見ましたろう、appleにbear」
習ったはずの薄ぼんやりした記憶はあまりにあいまいで、前に進むのが怖くなる。
「わたしにできるかな……?」
弱気でこぼす立香に、以蔵はうなずいてくれた。
「平気です。立香さんには素養がある。毎日新聞読んで、古文も好きで。続けることの大事さがわかっちゅう人ですき、伸びます」
「うん……」
「もうちっくと他の文も見ましょうか。This is a carrot.『これはにんじんです』」
「じす、いず、あ、きゃろっと」
「ほうですほうです。わしもこがぁなところから始めました。焦らいで、ちっくとずつ前に進みましょう」
三十分ほどの講義が終わり、立香はため息をつく。
「だれましたか」
「ちょっと」
「毎晩じゃとえずうなるかもしれませんき、二日か三日にいっぺんにしましょう。その間も、単語は覚えてもろうて」
以蔵は橙色の髪を撫でた。
「立香さんにはできますよ」
頭を使って疲れたせいか、その手つきにいたわりを感じる。
斜め前の以蔵に寄りかかろうとするが、たくましい腕に推し留められてしまう。
「欲しがってくれるがはまっこと嬉しいですけんど、今抱いたら覚えたことがこぼれてまうかもしれんき……今宵は我慢しとうせ」
ふ、と笑う顔がいつにも増して大人っぽい。教える側に立っているという余裕がさせることなのだろうか。
「ずるいなぁ」
「勉強せん日にすればえいだけですき」
そう言われると、それはそれで羞ずかしい。
「明日、予約さいてくれますろうか?」
「……はい」
保護者と雄の入り交じった表情に心を奪われかける。
(――いけないいけない、こぼれないようにしないと)
熱くなる身体を鎮めようと、もう一度入門書を見る。
まずは、ここからだ。
◆ ◆ ◆
次の日から、より家事を効率的にこなすように意識し始めた。
かまどの火を早く薪に行き渡らせるため、焚きつけを増やす。
掃除も先に天袋の長押や鴨居からはたきをかけて、高いところのほこりを落とすようにする。
縁側のぞうきんかけは、汚れを溜めると逆に後々手間がかかるから、きびきびと端まで磨く。
そうして浮いた隙間時間に、入門書を開く。
「犬はどっぐ……卵はえっぐ……」
想像しやすい具体的な名詞と、アルファベットの並びを結びつけられるよう、わら半紙のノートに何度も書きつける。
昼下がりに八百屋へ行って、
「にんじんはきゃろっと、かぼちゃはぱんぷきん……」
と脳内の記憶を探って紐づけする。
もちろん二日に一度、夜に文法の講義も受ける。
「一般動詞、言うがは食うとか見るとか行動を示します。amやareと置き換えるがですね。I know it. 『私は知っています』」
「あい、のう、いっと……覚え遅くないかな?」
「いや、早いばぁです。教えたことを次の日きちんとさろうちょりますろう?」
「教えてもらえたことをこぼすのは厭だし」
「ほれをできんやつがこじゃんとおるがです。午後でえい、明日でえい言うていつまでも先延ばしするやつはいけません」
褒め言葉を過剰に受け取ってはいけないと思いながら、伴侶に認められるともっとやる気が湧く。
一日五分でも十分でも単語を覚え、教科書を二冊買い替え、半年が過ぎた。
「立香さん、今日は実践です。教科書から顔上げて、わしを見とうせ」
「うん」
「まずは今日初めてわしに逢うた思うて……Hello, Mrs. Ritsuka」
「……Hello, Mr. Izo. How are you」
「I'm fine, thank you. Which vegetables do you buy」
「I want to buy a carrot.」
たどたどしくもやり取りすると、以蔵は言葉を溜めた。
「立香さん……わしの嫁御はまっこと……」
「……まっこと?」
「まっこと……伸び代の塊です!」
白い歯を見せる以蔵に、立香は逆に戸惑ってしまう。
「わたしは、教えてくれたことを覚えてるだけだよ?」
「わしは一高や帝大で、同級生と膝突き合わせて課題解いたり、論文の中身練ったりしちょりました。互いの考えの足りんとこを指摘し合うて、知っちゅうことを出し合うて、高め合うちょりました。
けんど、こがぁに教え甲斐のある相手に出逢うたことはありません。打てば響く、海綿が知識を吸い取る……ほがぁな言葉がぴったりです」
過分なほどに思える褒め言葉だ。
「それ、わたしが以蔵さんの奥さんだから言ってるだけじゃない?」
「わしが立香さんを慕うちゅうき言うがやありません。ほがぁな情けらぁいらんばぁ、立香さんはすごい!」
喜色満面の以蔵だったが、ふと悔しそうに眉を下げた。
「こがぁに優秀な立香さんが高校や大学に進学して職に就けちょったら、どればぁお国の助けになったろうか……」
声にもつらさがにじみ出ている。
「わしはこじゃんとえずい。才能のある女子が社会に出られんがは男の責任です。女を家庭に閉じ込めて偉ぶっちゅう男を止められんががこがぁに情けない思うたことはありません……」
以蔵は飴色の左目を向けてきた。
「武市んこと、覚えちょりますろうか。わしらの祝言にも来ちょった」
立香の脳裏を端正で実直そうな顔がよぎる。
「あの、政治家になられる方?」
「はい。もう選挙に当選して、高知県議会議員になりました。これを足がかりにして国政に進出する言うちょりまして……」
言われてみれば――。
『婦人参政権も夢にはしたくない』
高砂の立香へ、武市は穏やかな口調で語りかけていた。
「あん時も話したかもしれませんけんど、武市は愛妻家で。ほれが高じて婦人の地位向上にも積極的に取り組んじょります。土佐女ははちきん言われますけんど、ほん気性がどういても舶来の制度とは結びつかん。ほれがどうにもづつない、とあいつは奥さんと出逢うた頃から言うちょりました」
以蔵はため息をついた。
「欧米じゃ今、婦人参政権を認める運動があちこちで起こっちゅう。日本も遅れちゃおられません。わしにできるがはお国のために身を粉にして働いて、同時にわしん考えを反映しちょくれる候補者に投票することです。
立香さんも学び直して、選挙に立候補できるばぁの気持ちで気張りましょう」
国会の演壇の素描が描かれた新聞を思い出す。いかめしい顔の議員の顔を己に置き換えると、なんともおかしい。
「ふふ……さすがにそれは」
「笑いごとやないですよ。立香さんはほればぁできる人です」
以蔵は口を結んでいる。冗談を言っている顔ではない。
買いかぶりかとも思うけれど、それだけ立香の眠っている才能を信じている――それをこの家に留めたくないと願ってくれていることは嬉しい。
真面目な顔のまま、以蔵は飴色の瞳に希望の色をきらめかせた。
「立香さん、もっと英会話ぁ習いとうないですかえ?」
「会話」
「ほうです。わしは外国に行ったことがありません。帝大で英吉利人の先生に教えを乞うちょりましたけんど、わしからの又聞きで立香さんにえい発音を学んでもらうにも限度があります。基礎の力はついてきましたき、外国人に学んでもえい頃合いやいかと思うがです」
そう言われると、嬉しさよりも不安が募る。まだまだつたない英語力で、講師に莫迦にされないだろうか。
その気持ちを伝えると、以蔵は心配を吹き飛ばすように笑った。
「日本には案外外国の婦人がおります。お雇い外国人は減ってきましたけんど、外交官や技術者はまだまだこじゃんとおる。妻子を伴うちゅう者も少のうありません。
奥様方は心ぉ開ける友人もおらいで退屈を持て余いて、中には神経を病む者もおる言います。ほがぁな無聊を慰めるには、張り合いがあった方がえい。
知り合いの知り合いやほん知り合いで、教養と暇のある奥方やお嬢さんがおらんかどうか声ぇかけよう思うちょります。give and takeです。giveはやる、takeは取る。思いやり合うて便宜図り合うっちゅう意味です」
ただ立香が学ぶだけでなく、異国で孤独に苛まれる婦人を助けることができるのなら。
「うん、少し心の重荷が減った。いい先生がいるなら、習ってみたい」
「もちろん、立香さんに会う前にわしが教養や人柄をようけ確かめます。ただ外国人っちゅうだけで、人にもの教える技術がない者も珍しゅうはありませんき」
「ありがとう、お願い」
立香が飴色の目を見て礼を言うと、以蔵は手を伸ばしてみずみずしい頬を撫でたり
「目標ができたことですし、今日もちっくと進めましょう。政治家なら英語のひとつもできんと務められませんき……今日は助動詞です。willは未来や推測を表す時や、wantよりも丁寧に意志を伝える時に遣います」
「はい」
以蔵の説明を聞き、教科書に傍線を引く。
「ほいたら、例文は――I will go to sea next time.『私は今度海に行きます』」
「I will go to sea next time」
復唱しながら、今後のことを思う。
こうのとりが飛んで来たら、育児にも時間を取られるだろう。特に乳幼児の頃は数時間おきに授乳して、夜泣きを慰めて、多量のおむつを洗わなければならない。五分ほどの時間すら取れるかどうか。
しかし、以蔵が立香を信じてくれている。今は夢のようなことでも、将来世の中が変われば実現すると断じてくれる。
何年先になったとしても、その期待が間違っていなかったと言わせたい。
◆ ◆ ◆
執務室には以蔵をはじめとした官僚たちの机が並び、それぞれ書類や資料が積み上がっている。
猫の額ほどの作業空間で、つけペンにインクを浸しては報告書を書く。
どんな環境でも読みやすい文字を書ける自信はあるが、そろそろ積んだ紙束が崩れて来そうな気もする。
他の者は信じないだろうが、整頓をしていないだけで整理はしている。あの案件について記された文献は左斜め前の山の中腹ほどにある、ときちんと認識している。
しかし雪崩が起きたら整理が灰燼に帰してしまう。その前に、手を離れた件だけでも棚にしまった方がいい。
わかっているのだが――
以蔵は背筋を伸ばしてあくびをする。
昨夜も立香に英語を教えていた。
三十分で終わらせるにはキリが悪かった。立香の学びたい気持ちと以蔵の教えたい気持ちが重なり、講義を五十分に延長した。
もちろん、仕事や家事の時間は決まっている。互いに目をしょぼしょぼとさせつつ支度をし、以蔵は出勤した。
集中が途切れがちになっては、こめかみを揉んで頭の血流を促そうとする。
す、と脇から湯呑みが差し出された。
「すまんの、ありがとう」
振り向くと、予想通り助手の風間小太郎がいた。
以蔵の部署は調査を伴うことがあり、小太郎の調査能力を有効活用している。喫緊の仕事がない時は、書類の分類やお茶汲みを依頼している。
「岡田殿、眠そうですね」
赤い前髪で顔の上半分を覆っているが、心配してくれているのは伝わる。
「ちっくと寝不足でのう……」
「何かなさっていたのですか」
「ほうじゃ、嫁御に……」
言いかけて、口を止める。
妻に英語を教えている、と答えて肯定的な反応が返ってくるとは限らない。
藤丸家のように、『女に学はいらない』という考えに凝り固まっている者も多い。意味のないことだと決めつけて、卑しく嗤う者もいる。
以蔵自身が莫迦にされる分には構わないが、立香の真摯な学習意欲に泥を塗られたくはない。本人の耳には届かなくても、以蔵がそんな穢い感情に触れたくない。
小太郎がどういう人間なのか、まだ以蔵は知らない。
だから――
「嫁御にの、教育しちゅうがじゃ」
妻のことを口に出してしまった以上、言葉を濁すのも不自然だ。本当のことを伝える。
「覚えがようての、わしが教えたことをざんじ学んじょくれる。まっこと筋がえい上に、ようできたち褒めたらこれ以上ない顔で喜んでくれる。気張り甲斐があると、教えるたびに思いゆう」
嘘ではないが、具体的でもない。立香をけなされることへの危惧から、余計なことも喋ってしまう。
「才能のある嫁御もらえて、わしはまっこと……」
そこで、小太郎の表情が変わっていることに気づいた。
ありていに言えば、引いている。
「……今は僕しかいませんからいいですが」
前髪の向こうから、鋭い視線が飛んでくる。
「奥様をモノのように扱っていると公言するのは、品性を疑われますよ」
一瞬、何を言われたかわからない。
己の吐いた言葉を高速で巻き戻して――
「ご、誤解じゃ!」
吠えてしまう。
「わしは嫁御をほがぁに扱うちゃぁせん! おまんの心がだきじゃき、ほがぁな風に受け取るがじゃ!」
「無理しなくていいんですよ。そういう男はいくらでもいますから」
冷ややかな面持ちの小太郎は、以蔵の言うことなどかけらも信じていない。
小太郎に立香をおとしめる意図はなく、むしろそういう男を軽蔑しているのが伝わる。
女を人として見ない男は星の数ほどいるのだが――
(立香さんをモノみたいに扱うちゅう? ――逆じゃ! わしばぁ立香さんを護って大事にしゆう男はおらん!)
そのことだけは何としてでも訴えたい。
「教える言うがは英語んことじゃ。夜遅う嫁御が満足するまで教えちゃっちゅうがじゃ!」
しかし小太郎は白々しいと言いたげにため息をついた。
「英語ですか……嘘はもう少しもっともらしくついた方がいいですよ」
「嘘やない! わしは嘘つくがが苦手じゃと立香さんも言うちょった! 立香さんは見上げた志を持っちょって、世が世なら人の先頭に立っちゅうお人じゃ!」
「そんなに立派な奥様と何もないのですか? 結婚しているのに?」
「何もない……ちゅうたら……」
「話を変えましょうか。次に出勤するのは誰だと思います?」
明らかにあしらわれている。
「うぐ、ぐぐ……!」
叫びたくなるのをこらえる。
小太郎に怒ってもしかたない。小太郎も『こちら側』の人間である。
以蔵が怒りをぶつけるべきは、女を蔑み消費する世の中の方だ。
(ほがぁなやつらの巻き添えになっちゅう! 納得できん!)
理不尽に対してぐつぐつと煮える感情をなんとかしようと、以蔵は机の奥に押しやっていた灰皿を引き寄せた。
「火の不始末には気をつけてくださいね」
小太郎は呆れを隠さずに言った。