冥海の灯「……やがて時代が流れゆき、人の光が海を照らし出した頃、役目を終えたお姫様は、ゆっくり天へと昇ってゆきました。」
最後の一文を読み上げると、エステアは一つ息をついて絵本を置いた。
「……これは、悲しい話、なのだろうか」
「どうなんだろう、わたしは、そんなことないと思うけど……」
その絵本は、エステアたちが今滞在している宿の倉庫の中、もう使われなくなった椅子や寝具の奥にあった本棚に仕舞われていた。濃い青色の表紙に銀色のインクで描かれた文字や絵が目を惹く、古いながらも美しい絵本で、きっと宿の主人か誰かが子供のころからずっと大切に持っていたのだろう、と思わずにはいられないものだった。
そこには、美しい容姿と歌声を持ち、七つの海を統べた海姫の物語が記されていた。
「このお姫様、はずっと人々のために海を照らし続けていたのだろう?それなのに、誰にも知られず、役目を終えたら消えてしまうなんて、かなしい、と……思わなかったのだろうか」
「確かに、そうだけど……でもお姫様は、自分がいなくても船が迷うことはなくなって、安心したんじゃないかな……」
「そう、なのだろうか」
「それに、天へ昇るって、消えちゃうってことじゃないと思うんだ。わたしにも、まだよく分からないけど…」
そう言って、エステアは再び絵本に目を落とした。最後のページに文字は書かれておらず、先端から光を放ち、海を照らしている一本の白い塔だけが描かれている。しばらくの沈黙ののち、フェクタが口を開いた。
「エステア。これは、なんだ?」
「灯台だよ。ここが光って、船に合図を送ったり、港の場所を知らせたりするの」
「エステアは、灯台を見たことはあるか?」
「えっと……昼間に見たことはあるけど、夜に光ってるのを見たことはないかも」
「そうか」
フェクタはじっと絵の中の灯台を見つめ、その輪郭を指でなぞり始めた。地面から出発してだんだんと空へ近づき、頂点の丸い屋根をぐるりと一周した時、エステアの頭に一つの考えが浮かんだ。
「そうだ!フェクタ、王都の港に行ってみない?確か、そこにも大きな灯台があったの」
「今からか?……夕食の時間までに帰ってこれるだろうか」
「確かに、ちょっと遠いけど……でも、急いで行ってくれば、きっと大丈夫だよ」
エステアの瞳は、もう今すぐにでも出発しようと言わんばかりに輝いている。同じ年頃の仲間たちの中ではどちらかというと慎重なタイプのエステアが、これほど積極的になるのは珍しかった。
「……了解した。フェクタも、灯台が見てみたい」
簡単に身支度を済ませたあと、二人はいそいそと町を出発した。王都へ続く街道は隊商の通り道になっていることもあり、比較的整備されていて歩きやすい。すっきりとした冬晴れの空を見上げ、遠足日和だね、とエステアは笑った。少し風が強いが日差しは暖かく、彼女の言うとおり遠出にはもってこいの気候だ。
ぽつぽつと話をしながら、二人は並んで街道を歩いていった。
「エステア、さっきの話の続きなのだが……エステアは、天へ昇ることは消えることではないのだと、言っていた」
「え?」
「天へ昇る、とは、死ぬことではないのか?」
「うーん……言葉の意味としては、その通りなんだけど」
エステアは苦笑いして、ゆっくりと、言葉を選びながら続けた。
「フェクタは、人が亡くなったあと……たましいは、どこに行くと思ってる?」
「……質問の意味がよく分からない。生命活動が停止すれば、意識も消失する」
「そっか。フェクタらしい考えだね」
目を細めたエステアは、秘密を打ち明ける時のようにそっと声を落とした。
「わたしは、亡くなったあとのたましいは体を離れて、天国っていうところに行くと……行ったらいいと、思ってるんだ」
「てんごく……?」
「善いことをした人のたましいは、天国に行けるんだって。すごくきれいなところで、人や動物は平和に楽しく暮らしていて、聖母さまが、みんなのことを優しく見守っている、って……まだ、よく思い出せないんだけど、きっとずっと前にわたしがいたっていう孤児院で、聞いた話なんじゃないかなって、思うんだ」
「つまり、天へ昇る、とは天国に行くということなのか?」
フェクタの問いに、エステアは頷いた。
「あのお姫様が、その天国に行ったのかは分からないけど、でもきっと……お姫様のたましいは、消えてなくなったわけじゃないと思うの。だって、あんなに優しくて、みんなのために海を照らし続けた人だもん」
そう言うと、エステアは再び空を見上げた。まるで海姫の魂が、この空のどこかにいるかのように。
その横顔を眺めて、フェクタはそうか、と一言だけ呟いた。そしてしばらくの間、二人は黙って歩き続けた。
実のところ、フェクタにはエステアの語った天国や魂という言葉がまだうまく飲み込めていなかった。それらは、今の彼女が理解するにはあまりに観念的な概念だった。
ただ、エステアの話を聞くうちに、フェクタの胸には、自分の考えていることを話したい、という気持ちが湧き上がってきた。エステアが心の奥底で密かに信じているものを打ち明けたのなら、フェクタも自分の心にある秘密をエステアと共有したかった。だが、それをうまく伝えられるかどうか、フェクタには分からなかった。
王都の方角を示す看板を通り過ぎたころ、フェクタは意を決して口を開いた。
「エステア」
考えても、結論は出なかった。もしかすると、うまく言葉にはできないかもしれない。
「あの絵本を読んで、もう一つ考えたことがある」
けれども、どんなに拙くなったとしても、エステアはきっと真剣に聞いてくれるだろう、という確信がフェクタにはあった。
「あの事件がなかったら、フェクタは外の世界を知らないまま、誰にも知られずに、死んでいたかもしれない」
〝あの事件〟とは、フェクタとエステアが出会うきっかけになった出来事のことだ。まだ一年と経っていないのに、随分と遠い昔のことのようにフェクタには感じられた。
「……っ、そんな」
エステアはすぐに泣きそうな顔になってフェクタを見た。急いで言葉を続ける。
「それが当たり前なのだと思っていた。いや、他の選択肢が存在するなんて、考えたことすらなかった。それなのに今は、もし誰にも知られずに、自分が消えることを考えると……体の奥が、急に冷たくなる」
どうやら自虐的なことを言うつもりではないらしい、と勘づいたエステアは、黙ってフェクタの次の言葉を待っていた。
「少し前、そのことを想像したとき、そんなのはいやだ、と大声で叫びたい気持ちになった。エステアに知られないまま、消えるのはいやだ、と」
「……もしかして、それでさっき……」
今度はフェクタが、こくりと頷く番だった。
「これが、かなしい、ということなのだろう?」
目的地に着いたころには、日は既に沈みかけていた。海の方に目をやると、水平線に触れんばかりの太陽が最後の輝きを放っている。王都といえど、この時間の港は閑散としていて、時折海鳥の鳴き交わす声が聞こえてくるばかりだった。
「大きい……」
灯台を根元から見上げて、フェクタは思わずといった風に言葉を漏らした。
「わたしも……間近で見たことなかったから、こんなに大きいなんて、知らなかった」
「でも、光っていないようだが」
「これから暗くなったら、光るんじゃないかな?」
エステアはそう言うと、海の方を向いて草地に座り込んだ。
「あは……ずっと歩いてたから、ちょっと疲れちゃった。フェクタは大丈夫?」
問題ない、と言いながらフェクタも隣に腰を下ろす。
「エステア、夏に見た海のこと、覚えているか?」
「トロピカル島の?もちろん」
「あの海は、明るくて底が見通せるくらい透き通っていたが……同じ海といっても、随分違って見える」
フェクタの言うとおり、今二人の目の前にある海は、吸い込まれそうなほど黒々としてうねっている。
「そうだね……フェクタは、トロピカル島の海のほうが好き?」
「それは、よくわからない……でも、どちらの海も、広大だと思う」
二人はじっと海を眺めた。波の音と潮の匂いを運んできた冷たい海風が、二人の髪をでたらめにかき乱していく。
しばらくそうしていると、いよいよ太陽は姿を消し、あたりも暗くなってきた。エステアが一つ小さなくしゃみをする。
「エステア、大丈夫?」
「うん。……フェクタは、寒くない?」
「問題、ない……くしゅ」
「ほら、やっぱりフェクタも寒いんでしょ」
フェクタの顔をのぞき込んで、エステアはくすりと笑った。
「そうだ、こうすれば、ちょっとはあったかいかも」
そう言うと、エステアはフェクタの手を握り、ぴったりと身を寄せた。
「……どう?」
「……暖かい、気がする……でも、不思議だ」
「どうして?」
「海はこんなにも広大なのに、エステアとフェクタはこんなに近くにいる」
「えへへ……たしかに」
その時、目の前にある海に、ひとすじの光の線が浮かび上がった。二人は同時に声をあげ、光の始点を辿って頭上を仰ぎ見た。
「見て、フェクタ!」
「……すごい……」
灯台の頂点は、まるで太陽のひとかけらを借りてきたかのような明るさで輝いていた。発せられた光は、真っ黒な海の中で見間違えようのない目印となり、水平線の向こうにまでまっすぐに伸びていく。
「これなら、海のどこにいたって見つけられるね、きっと」
「そうだな……あのお姫様、もこれを見て、安心したのだろうか」
「うん……きっと、そうだよ」
伸び上がって光の行く先を眺めていたエステアが、不意に立ち上がった。つないでいた手を引っ張られ、つられてフェクタも立ち上がる。
「あの灯台、フェクタに似てる」
「……フェクタは、白くもないし、背が高くもない。頭頂部が光ったりもしない」
「ふふ、そういう意味じゃないよ。……わたしはずっと、船だったの。霧のかかった暗い海の真ん中で、どこに向かって進めばいいのか分からなかった。でも、フェクタに出会えて、やっと……自分の行くべき道が、分かった気がするんだ」
灯台を背にして、エステアはフェクタに向きなおった。フェクタと同じ色の──それでいて、全く違う世界を見る瞳が、まっすぐにフェクタを映していた。
「だからね、どんなに遠く離れていたとしても、絶対にわたしは、フェクタのこと見つけられたと思うよ。だってわたしはずっと、灯台を探していたんだもん」
えへへ、と照れ隠しにエステアは笑った。
フェクタは口を開きかけ、声を発しないうちに迷うように噤んだ。今度こそ、どんな言葉を返せばいいのか分からなかった。見つけてくれてありがとう、とか、自分もエステアのことを見つけられる気がする、とか、色々と思い浮かびはしたものの、どれも全部今の気持ちにぴったりとは一致しないように感じた。
だから、代わりにエステアと繋いだ手に力を込めることにした。たとえ荒れる海のなかにいたとしても、決して離されることのないように、強く、しっかりと。すぐに、エステアの手が同じように力を込めて握り返してくる感触がした。とん、とん、とん、とふたつの鼓動が重なり、心地いいリズムを刻んでいく。
そのまま、どちらからともなく帰ろうという言葉が出るまでの間、二人は冬の海とそれを照らす光を見つめ続けていた。
……結局、二人が宿に帰ってこられたのは真夜中になってからで、血相を変えて彼女たちを探していたロヴィーサたちにたっぷり叱られたのはまた別のお話。