アミュエスのゆるい話(書きかけ) それはいつもと変わらない夜、のはずだった。
「ふぅ、面白かった……まさか連続パンの実消失事件の犯人が教頭先生で、禁忌の魔法を使って学園を丸ごとパンプディングの森に変えちゃう計画だったなんて」
両手に持った本から顔を上げ、周りに誰もいないのをいいことに、エステアはひとりごちた。
彼女が読んでいたのは、王都の子どもたちを中心に大流行している学園小説だった。魔力は低いが天才的な頭脳を持つ主人公が魔法学校に入学し、学園内で起こる難事件を次々に解決していくシリーズで、新刊が出る度に売り切れと重版を繰り返している。
その人気ぶりは彼女の仲間たちの間でも例外ではなかった。もっとも旅の身では嵩張る本をそう多くは持てないから、新刊が出版されると何人かで共同してお金を出し合い、誰か一人が代表して買ってきて、それを皆で回し読むようにしている。今読んでいる第六巻は数週間前の発売日にイータが張り切って買ってきたもので、やっとエステアの順番が回ってきたのだ。物語自体に惹き込まれるのはもちろんだが、もう読んだ仲間と感想を話し合ったり、あるいはこれから読む誰かの反応を見守ったりするのが楽しみだった。
ラウンジに置かれた時計がかちりと音を立てる。見ると、針はちょうど夜の十時を指していた。ずいぶん夢中になって読んでしまっていたらしい。
――そろそろ、わたしも寝なくちゃ。
そう思って立ち上がったときだった。
「あ~っ、エステアちゃんだ~」
無造作にドアが開く音。それと同時に、やたらと明るく、間延びした声が飛び込んできた。
「はい、わたしですけど……」
思い返せば、この時点で既に違和感はあった。耳慣れているような気もするが、じゃあ誰なのかと聞かれると答えに困ってしまう、そんな声。それでも律儀に返事をしてしまったのは、「エステアちゃん」なんて呼ばれて気が緩んでしまったからかもしれない。
「って……アミュレット、さん?」
「うん。エステアちゃん、たっだいまー!」
アミュレットと呼ばれたその人物は、スキップをするように部屋へと入ってくる。
アミュレットのことなら、エステアはそれなりに知っている。付き合いが長いというだけでなく、お互いの転機や岐路に立ち会ってきた分、色々な面を見ているはずだ。だから――その様子には、少し面食らってしまった。
まず、普段の彼女ならこんな浮ついた喋り方はしない。ドアを乱暴に開けたりもしない。そう、普段なら「ただいま」とにっこり微笑んでくれるはずで、もしかするとこんな時間まで起きていることに心配されるかもしれない。スキップなんてもってのほかだ。
エステアの戸惑いを知ってか知らずか、アミュレットは軽い足取りでこちらに向かってくる。そして目の前まで来たかと思うと、
「ちゅっ」
エステアの右頬に唇を乗せた。
「ふぇっ……!? え、あっ……?」
すぐ後ろにあった椅子が大きな音を立てて倒れた。
なにが起きたか分からない。頬に軽く押し当てられたそれが、あたたかくて少し湿っていて、やわらかかった、ということくらいしか。
(今の、って)
目を白黒させ、口をぱくぱく開けるものの声を発することはできないでいるエステアを、アミュレットは不思議そうに見ている。ゆるく開かれた唇は妙につやつやとしていて、目が離せない。
と、
「こら、何してんの。エステアが困ってるよ」
ラウンジにもう一人、入ってきた人影があった。
「ハンナさん」
「なにって、ただいまのあいさつだけど」
あんたいつも帰ってきたときキスなんてしてないでしょ、と声の主――ハンナは、呆れた顔をして見せた
「ごめんね、アミュったら今日は珍しく酔っちゃってさ」
「ハンナひどぉい、私はいつも通りよ」
ねー? と同意を求められたものの、エステアとしては正直言って頷けない。全面的にハンナの言うとおりだとは思うが、だからといって彼女のように冷静にあしらうこともできない。
答えに窮していると、ハンナが「ほら、変な絡み方しないの」と助け船を出してくれた。何よぅ変な絡み方って、と口を尖らせるアミュレットは、何だか子どものようにも見える。大人のひとに対してそういう風に思うのは失礼なことなのかな、とも考えてしまうのだが。
人心地ついたところで、ふとハンナの姿に違和感があることに気がついた。
「そういえばハンナさん、いつもつけてるゴーグルは……」
ハンナはきょとんとして、自分の額――普段なら、彼女のトレードマークであり鍛冶職人としての商売道具をつけている場所――に手を当てた。見る間に、その顔が蒼白になっていく。
「やばっ、さっきの店に忘れてきた!」
聞けば、明日の昼までに仕上げなければいけない修理の依頼があるのだという。二人が行ったのは夕方から営業する店だから、明日仕事に取りかかる前に行っても無人の可能性がある。となると、今急いで取りに戻った方が確実なのだとも。
「エステア、悪いんだけどアミュの相手しててもらえる? しばらく話してれば満足するでしょ」
一緒に飲んでいた責任感からかそう言い残して出ていくハンナを、エステアはわかりました、と見送ろうとして、
「あの!」
聞いておかなければならないことがあるのに気がついた。
「こんなに酔ってるアミュレットさんって、はじめて見たんですけど……その、なにかあったんですか?」
アミュレットに聞かれないよう、小声で尋ねる。ハンナは一瞬怪訝な顔をしたものの、すぐにエステアの言わんとしていることに合点がいったらしく、
「いーや、そういうんじゃないよ。ただ、ここのところ忙しくて遊ぶのも久しぶりだったからさ、お互いちょっとはしゃいじゃったんだ」
そう言うと、エステアの頭にぽんと手を置いた。「あーっ、ずるいわハンナ、私もやる!」とすぐさま背後から声があがる。その声に苦笑いしながら、「それじゃ、アミュをよろしく」と言い残して慌ただしくハンナは出ていってしまった。
わしゃわしゃ、さらさら、するん。
優しく触れられた髪の擦れる音が、耳をくすぐっている。
「えへへへ」
「どうしました?」
アミュレットの指先は、ゆっくりと味わうように髪の間をするすると通っていく。頭皮に触れるか触れないかのその感触がなんとも落ち着かない。
「エステアちゃんのかみのけ、ふわふわだねえ……」
「それは……ありがとう、ございます……?」
ハンナが出てから二十分ほど、アミュレットはずっとこの調子だ。
「あったかくて、やわらかくて……」
「はぁ……」
「それに……ほんとうにきれいな青色」
「えっ、と……どうも……」
「いいにおいもする……お日さまのにおいね」
「!? そ、それは嗅がないでください!」
顔を近づけて、すん、と鼻を鳴らされたものだから、思わず仰け反って抗議する。そうされてもアミュレットの方は特に意にも介していない様子で、だってほんとうだもの、とにこにこしているが、エステアとしては気が気ではない。アミュレットが帰ってきてから、冷や汗ばかりかいている気がするのだ。
「うぅ……あの、アミュレットさん」
「なあに?」