虚像 ぱしゃん。
湖面に、小石をひとつ放り投げた。
石が着水した一点を中心に小波が広がる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
波は次々に生まれ、水面を走り、広がっていく。
端に届いた波は反響し、他の波とぶつかり、混ざり合う。そうして次第に波は小さくなり、やがて水面は元通りの静けさに包まれる。
足元に目を落とす。月光を反射して光る平面に、人影がひとつ。
見慣れた顔だ。それは単に、毎日水面や鏡に映る自分の顔を見ているから、という意味ではない。
私の顔。私たちの顔。〈彼女〉の、顔。 私たちは、〈彼女〉を模して造られた。〈彼女〉を再現し、そして超えるためだけに、命を与えられた。けれど、超えられなかった。私たちは、〈彼女〉になれなかった。だから棄てられた。私たちのうちの誰一人も、例外なく。
「……これでは、まるで呪いですね」
鏡面が映す虚像の、ひどく青白い頬に手を伸ばす。どんなに静かに指を置こうとしても、水面はわずかに揺れ、映る輪郭はあっけなく崩れてしまう。
「私は、あなたではない。あなたが私ではないように」
言葉を重ねることに、意味があるとは思えない。それでも、これは必要な言葉だった。かつて与えられた存在価値を失った私たちが、自らの手で、私たちを生かしていくための。
「そうでしょう?……エステア」
傍らに置いた仮面を身につける。心地よい重みと共に世界に帳が落ちるのを確かめながら、〈イド〉は立ち上がった。
***
隠れ里の、今は寝所として使っている建物のひとつに戻ると、〈同胞〉のひとりが所在なげに立っていた。
「眠れないのですか?」
「…………」
問うと、彼女はわずかに首を傾け、口を開きかける。が、言葉を発するわけではない。迷うように視線を彷徨わせて、せっかく何かを言いかけた口は噤まれてしまった。
「言ってみなさい。待っていますから」
私たちが造られたとき、感情や意志は不要なものとされた。〈彼女〉のコピーとして大量生産された製品。〈彼ら〉は私たちをそのように扱った。
だが、そのような私たちの間でも、違いというものは確かに存在する。この里で生活するうちに、彼女たちひとりひとりの個性というものが、少しずつではあるが見えるようになった。でなければ、皆が眠っている時間にこうして一人だけ起き出しているような個体が現れるはずはない。
「…………イド」
「はい」
もし、彼女たちが意志らしきものの片鱗を見せたならば、摘み取ってはいけない。彼女たちに芽生えたものを踏み潰さないように、慎重に、しかし同時にそれがけして不要なもの、捨て去るべきものなどではないことを、伝えなければいけない。
「イド、うたって」
しばらくの逡巡ののちに、聞き逃してしまいそうな声で彼女は言った。
以前、この子らの情緒が育つきっかけのひとつになればと考えて、試しに歌って聞かせてみたことがある。けれども正直なところ、その時はあまり手応えを感じなかった。一度破壊されたものが一朝一夕に回復する道理はないし、彼女たちからの反応が乏しいのはなにもこれに限った話ではない。むしろその方が自然だとすら思えてしまう。
だからこそ、その言葉には少し意表を突かれた。それを憶えていたこと、彼女の中に、何かしら残るものがあったのだということに。
私の生活に喜びというものがあるとするならば、きっとこのような瞬間のことを言うのだろう。
「ええ、分かりました」
その場に座るよう促し、自分も隣に腰を下ろす。ひとつ深呼吸をして、私は歌いはじめた。
――てんのせかいにいらっしゃる、わたしたちのせいぼさま。
――そのおこころは、はなのようにうつくしく、
――そのやさしさは、うみのようにふかい。
私は、これ以外に歌を知らない。いや――この歌だけは知っている、と表現した方が適切かもしれない。
実際に聞いたことがあるわけではない。「研究所」でインプットされたデータの中に、それが紛れていたわけでもない。
その歌は、最初から記憶領域にあった。
おそらくは、〈彼女〉のものなのだろう。なんの偶然か、消去されずに残っていた〈彼女〉の記憶の残滓。全く理屈の通らない話だが、そう解釈せざるを得なかった。
隣の〈同胞〉は、硬い表情でどこか一点を見つめている。彼女の内側で何が起きているのか、私からは窺い知れない。
――せいぼさま、どうか、わたしたちのためにおいのりください。
――ほしのないよるにゆくてをてらすひかりを、どうか、わたしたちにおあたえください。
空疎な言葉だと、思う。神や聖母などと呼ばれるものは、自分たちのような存在にはなんの救いももたらさない。世界は私たちを祝福しない。
それなのに、私はこの歌を捨てられない。〈同胞〉たちの情緒を育てるのに必要だから、という理由だけではなく、もっと別の何かが、手放すことを拒んでいる。
どうしようもなく胸が詰まる。届かない、知りたい、叫びたい、手を伸ばしたい、走り出したい、視ていたい、抱きしめたい、ここに居たい。次々に浮かぶ言葉の断片はどれも、今の自分の状態を表すには不十分だった。
自分は、何かをひどく渇望しているのだろう。だがそれが何なのか、分からない。
――せいぼさま、どうか、わたしたちをおみまもりください。
――こんなにちっぽけなわたしたちが、あしたもいきていけるように。
〈彼女〉も、この苦しさを知っていたのだろうか。だから、この歌は残っていた?
不意にそんな問いが胸に浮かぶ。
(……あなたにとっては、私たちなど忌まわしい過去の象徴でしかないのかもしれないけれど)
それでも。もし、糸を手繰るような幸運な巡り合わせで、出会うことがあったなら。 〈彼女〉は、聞かせてくれるだろうか。〈彼女〉とこの歌の持っている、思い出について。