満月と子守歌 遠くの山で、狼が吠えた。
仲間を探しているのだろうか。けれども返ってくる声はなく、長く尾を引いた咆哮はただ空しく夜の静けさに飲まれていく。
カーテンのない窓からは、月明かりが真っ直ぐに差し込んできていた。
こんな月の大きな夜には、狼が遠吠えをあげて人間の姿に変化する。以前どこかで聞いたおとぎ話を、エステアはぼんやりと思い出していた。
満月の夜が、彼女は少し苦手だった。
何もかもが青白い光に照らされているのを見ると、どこにも逃げ場がないような、何も隠し事ができないような、そんな気持ちになるのだった。早く眠ってしまってやり過ごしたいのに、そういう時に限って、明るい光を浴びた目は一層冴えてしまっていた。
うう、とちいさく声をあげて、窓から背を向けるようにエステアは寝返りを打った。背中を丸めて眠るのは、一人で旅をしていた頃からの癖だ。そうして目をつぶって、朝が来るのをじっと待つ。今まで何度もそうしてきたものの、この居心地の悪さにはまだ慣れなかった。
「眠れないの?」
不意に、頭上から声がする。
と同時に、ひょっこりと現れた顔があった。二段ベッドの上から身体を乗り出す格好になっていて、髪の毛が逆立っている。髪の間から飛び出したかわいらしい長い耳がぴくりと跳ねた。
「リッカさん……えっと、あぶない、ですよ?」
だいじょーぶ、と返事をしたリッカは、ひょいと身体を引っ込めたかと思うと、今度は梯子を伝って下りてきた、
「ねっ、今日はエステアと一緒に寝たいな」
返事を聞くよりも早く、リッカはエステアの隣に横たわった。
「……どうして、ですか?」
「エステアのこと、もっと知りたいから」
「え……っ」
知りたい。その言葉に、エステアの身は一気に硬くなった。
何を知りたいと言うのだろう。旅をしている理由? それは、初めて顔を合わせたときに少し話したはずだ。出身? 記憶喪失になったきっかけ? あるいは、いつも肌身離さず持ち歩いている二振りの剣について? そんなこと、エステア自身が知りたかった。
――記憶をなくしたあと、いちばん最初に見たもの?
背筋がぞくりと冷えるのが分かった。それは、誰にも知られてはいけない。自分の胸の中だけに閉じ込めておかないといけないもので、知られてしまったら最後、きっとここには居られなくなる。
「昼間にあいさつしたっきりだったでしょ?」
けれどもこんなに明るい月明かりの下では、隠し事はなにもできないように思われた。
鼓動がどんどん早くなっていく。それにつられて、呼吸も短く、浅くなって、手足が思うように動かせない。
「……どうしたの?」
「……ごめん、なさい。なにも、何も聞かないで……おねがいします……」
震える声で、それを言葉にするのが精一杯だった。
「どうして謝るの? エステア、何もわるいことしてないよ」
リッカの声が聞こえていないのか、エステアはただ、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返す。その尋常でない様子に、リッカも面食らったようだった。
「ど、どうしよう……」
故郷の村を離れて旅に出てから、王都で迷子になっていた子どもに出会ったことがある。道を行き交う人たちの中にぽつんと立って、心細げな顔をしていたその子は、リッカが声をかけるとみるみるうちに顔を歪ませて、おかあさん、どこにいるの、と泣き出してしまった。
目の前のエステアは自分と同じくらい、もしかすると少しだけ年上かもしれない。けれど何となく、あの時の子どもと、今のエステアが似ているような気がした。
(あのときは、たしか……)
しばらくわたわたと落ち着きなく視線を動かしていたリッカは、そうだ、と呟くなりエステアの手をつかんだ。
「えっと、だいじょうぶだよ? ……だいじょうぶ」
冷たく強ばったエステアの指を包んで、ゆっくりと語りかける。
「だいじょうぶ、こわくないよ。リッカがついてるから」
だいじょうぶ、だいじょうぶ。魔法の呪文のように繰り返す。エステアが何を怖がっているのかは分からなかったが、怖いと思う気持ちなら、リッカも知っていた。
そうしているうちに、エステアの指の震えがおさまっているのが分かった。少し、落ち着いたようだった。へいきになった? と尋ねると、エステアはこくりと頷いた。
それでも、エステアは不安げにリッカの方を見ている。リッカはその頭に右手を乗せると、ごく軽く、とん、とん、とん、とゆっくりとしたリズムを刻み始めた。
「……?」
「おかあさんが、よくこうやってくれたんだ」
「おかあ、さん……?」
「うん、リッカのおかあさん。リッカね、おかあさんにこうしてもらってると、なんだかすごくほっとするの」
目をつぶって、と言うと、エステアは素直に目を閉じる。
「それでね……えっと、たしか――」
そしてリッカはそのリズムに合わせて、静かに歌を歌いだした。
それは、彼女の村に伝わる子守歌だった。古い言葉の歌だから、歌っているリッカ自身、その歌詞がどんな意味なのかよく分かっているわけではない。ただ、冬の夜に子どもたちがみんな寝静まった頃、あたり一面に積もった雪を月の光が照らしている、という内容の歌なのだと、寝物語に聞いたことはあった。
その光景はもちろん、雪国出身のリッカにとってなじみ深いもので、だからリッカはこの歌が好きだった。好きだったけれど、旅に出てからは、それを聞くことも、自分で歌うこともなかった。
(わかるよ。こわい、とか、さみしい、とか、わかるよ、リッカにも)
口に出したらリッカの方が泣いてしまいそうだったから、代わりに同じ歌詞を、何度も何度も繰り返し歌った。意味は相変わらずよく分からなかったけれど、言葉もメロディもちゃんと覚えていて、そのことが少し嬉しかった。
「あ……そうだ、エステア。これからリッカとエステアは『なかま』で『ともだち』なんだから、『ですます』で喋るのは……」
気の済むまで歌ったあと、思い出したようにリッカは言いかけ――隣から、すうすうと寝息が聞こえるのに気がついた。
「あれ……エステア、もう寝ちゃったの?」
話しかけても、エステアは目を開けない。背中を丸めて、身体を小さく縮こまらせてはいたが、月明かりに照らされた寝顔に不安や緊張の色はなかった。
よかった。リッカは呟いて、窓の外に目をやる。高く昇った満月は、銀色の光で遠く見える山並みを染め上げていた。
「明日はきっといい天気だよ。だって、こんなにきれいなお月さまが出てるんだもん」