ほしいものは「欲しいもの?」
「この前の魔物討伐の時、エステアちゃんに助けてもらったでしょう? だから、お礼に何かプレゼントできたらなって」
昼下がり、宿の食堂で、私とエステアちゃんは向かい合って昼食をとっていた。と言ってももう二人ともあらかた食べ終えて、私はコーヒー、エステアちゃんはミルクティーを飲みながらのんびりおしゃべりしていたところだ。
話は数日前、突然帝国軍から私宛に封書が届いた。中身は皇帝のサインが入った書類一枚に、それなりの額が記された小切手。なんでも軍では、兵の士気を上げることを目的として、一年に一度、給料とは別に賞与を出すことにしたらしい。国を出て特別任務に従事している私については少々手続きが複雑だったとかで、送金が他の兵より遅れた、とのことだった。
思わぬ臨時収入はもちろん嬉しかったが、その使い道となるとあまりいいものが思い浮かばなかった。冒険者としての活動はそこそこ忙しいし、これといった趣味もない。欲しいものも特にないから、無難に貯金しよう……と結論を出しかけたとき、ふっと頭をよぎった顔があった。
それがこの、目の前にいる少女というわけだ。
「そんな、わたしだっていつもアミュレットさんにはお世話になってますし……」
「遠慮しないで。なんでもいいのよ」
「いえ、本当にわたしは、大丈夫なので……」
何かにつけ遠慮がちな彼女のこと、こうなるのは予想していた。ただしこちらも、一度決めた以上そう簡単に退く気はない。
「私の気がおさまらないから。お礼させて、ね?」
「う……うぅ、ん……」
どうやら固辞しても無駄だと察したらしい彼女は、困ったようにうつむいた。うぅ、と言葉にならない声を時折発しながらしばらく考えこんだのち、おずおずと顔を上げ、またそこで何度かためらってから、ようやく意を決して口を開いた。
「あのっ、それじゃあ……頭を、なでてくれませんか……」
「……へっ?」
事前に考えていたものとはあまりにも方向性が違う答えに、私は一瞬固まってしまった。
「いっ……いえ! すみません、ご迷惑でしたよね……忘れて、ください……」
「迷惑だなんて、そんなわけないよ。ないけど……そんなことでいいの? もっと、こう……お菓子とか、アクセサリーとか……」
そう尋ねても、彼女はふるふると首を振るばかりだった。
やっぱり、まだ遠慮があるのだろうか。お金には困らないとは言っても決して裕福な生活をしているわけではないのだから、欲しいものの一つや二つくらいあるはずだ。あるいは、私にはまだそこまで気を許していないということか。
彼女は所在なさげに、私の顔を伺っている。──とはいえ、今日のところはこれ以上無理強いするのはやめておいた方がいいかもしれない。今度こそ頑なに何もいらないと言われてしまいそうだ。
彼女の不安を払拭できるように、私はつとめてにっこりと笑いかけた。
「分かった。それじゃあ……」
右手を伸ばして、彼女の頭に軽く置いた。そのまま、右、左、右、左と動かす。それに合わせて、柔らかな髪の毛もさわさわと揺れる。
本当に、こんなことでいいのだろうか。この期に及んでそんな疑問を持ってしまうくらい、私にとってはなんでももない行為に思えた。
エステアちゃんの方を見る。
笑っていた。
本当に満足そうに、彼女は笑っていた。ほんわりと、目を細めて、ほんのすこしだけ頬を緩ませて。演技では、ない、と思う。
彼女のこんな顔、初めて見たかもしれない。
こんなに他愛もないことでも喜んでくれる彼女の姿が、とてもあどけなく、いじらしく見えて。
私は、つい口を滑らせてしまった。
「エステアちゃん、かわいい」
今度は、エステアちゃんが硬直する番だった。
ぴた、と全身をこわばらせ、まじまじと目を見開いている。どうしたのだろう、と顔を近づけると、みるみるその顔は紅く染まっていった。
あわあわと口だけを動かし、けれども声を発することはできない様子で固まっているうちに、しまいには耳まで真っ赤にしてしまった。具合でも悪いのだろうか、と声をかけようとしたとき、彼女は勢いよく立ち上がった。
「あのっ、ありがとう、ございました……それじゃ」
ばたばたと慌ただしく自分の食器を片付け、ほとんど走りながら彼女は出口へ向かっていった。ごちそうさまでした、と全て言い終えぬうちに、その姿は食堂から消えていた。
突然のことに何をすることもできず、私はただその後ろ姿を呆然と見つめていた。宙ぶらりんの右手が、我ながら滑稽に目に映る。
迂闊だった。確かにあの年頃なら、子ども扱いされるのを嫌がったっておかしくはない。まして彼女は、普段から大人に混じって戦闘に出て、引けをとらない活躍をしているのだ。かわいい、だなんて、失言だったかもしれない。
「見事に逃げられたわねえ」
脳内で反省会をしていると、背後から声をかけられた。振り返らなくても、声の主は予想がつく。
「ロヴィーサさん……いつから見てたの」
「んー?『エステアちゃん、何か欲しいものない?』から」
「最初からじゃない……」
思わず眉間を押さえる。こんな失態をこの人に見られたら、今後しばらくはつっつかれるだろう。
「それにしても、どういう風の吹き回し? 買収なんて柄じゃないでしょう」
「やめてよ、人聞きの悪い……仲良くなれたらなって、思っただけ。そりゃあ、物で釣ろうなんて思ってないけど、きっかけくらいにはなるかもしれないでしょう」
「ふーん。なるほどねえ」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべながら、ロヴィーサさんはへーえ、そーう、と繰り返した。なにがそんなにおかしいのかよく分からないが、絶対に、面白がっている。それだけは分かる。
「私、嫌われちゃったかな……」
「……はあ?」
私の呟きに、ロヴィーサさんは素っ頓狂な声をあげた。面白がったり驚いたり忙しい人だ。第一、今の発言のどこに驚く要素があったのだろう。
「あんた、まさか……あの反応を、嫌がってるって解釈したの?」
「え? それは……そうでしょう。あんなに真っ赤になって、出ていっちゃったんだから」
あんぐりと口を開けていたロヴィーサさんは、天井を仰いで大げさにため息をついた。
「……ほんと、あんたには呆れるわ」
「ちょっと、それってどういう……」
「私が教えたって意味ないでしょ。自分で考えなさいな」
じゃあね、これから用事あるから、と言い残して、ロヴィーサさんもさっさと食堂を出ていってしまった。椅子から半分腰を浮かせたまま、私は一人残された格好になった。
「もう、言うだけ言って……」
ため息をつきたいのはこっちだと心の中でぼやきながら、椅子に座り直した。目の前では、一人分の空になった食器と、半分くらい残っているコーヒーカップが静かに存在を主張している。
急に静かになった食堂で、私はさっきまでの会話を反芻した。ロヴィーサさんの言葉も、エステアちゃんのあの顔も、今ひとつ釈然としない。
やっぱり、あれは失言だったのだろうか。
「でも、本当にかわいいと思ったのに」
誰も聞いていないとは分かっていたが、それでも何かに向かってそう言い訳せずにはいられない気分だ。
しばらく悶々と考えていたけれど、すっきりする答えは出ない。いつまでも一人で悩んでいても仕方がないので、分からないことは一旦脇に置いておくことにした。
とりあえず、まずはエステアちゃんと仲直りしなければいけない。不用意な言葉で、嫌な思いをさせてしまったことを謝ろう。許してもらえるかはわからないけれど……まあ、なんとかなるだろう。いや、なんとかする。
そして──次の賞与までには、本当に欲しいものを教えてもらえるくらいには、仲良くなれたらいいな。
そんなことを考えながら、私は冷めたコーヒーを啜った。