①
目が覚めたら知らない部屋のふかふかの布団の中にいて、寝起きは悪い方なのに一瞬で覚醒してしまった。部屋に気配はいち、に、さん。でも寝息が聞こえてきているから多分俺が起きたことには気づいてない。というか、見張りにしては緩すぎる。何呑気に寝てるんだよ。
俺がもうちょっとデカかったら口封じに全員ぶっ殺してから部屋を出るけれど今は人数で負けているし、武器の一つもなくては相手をするにもしようがない。もし相手が銃なんて持っていれば間違いなくあの世行きだ。とにかく無事脱出することを第一目標に設定し会敵はなるべく避けること。やむをえない場合は敵の獲物を奪取後、速やかに。
俺は息を潜めて奴らがまだ寝ていることをもう一度確認してからそろりそろりと布団から抜け出す。室内を見回すと、奥に出入り口が一つ。この外がどうなっているのかわからないけれど、とにかく呑気に寝ているこいつらが起き出す前にここから出て帰り道を探さなければならない。物音を立てないように細心の注意を払いながら、けれども素早くドアの前までやってくる。外の気配を窺うが人気はなさそうだ。静かにノブを回して、細い隙間にするりと体を滑り込ませた。
廊下は明かりがついていて絨毯敷だった。足音が消せるのはありがたい。左右を確認して行き止まりでない方に駆け出す。窓の外はまだ薄ぼんやりとした闇で、時計はないが早朝なのは間違いなかった。体内時計が狂っていなければ5時ごろのはずだが。というかそもそも俺はいつこいつらに捕虜にされたのだろうか。昨日の記憶を引っ張り出そうとして、昨日のことが何もわからないことに気がついた。昨日って、いつだっけ。
脳みそは混乱していたが、訓練した体は命令がなくてもきちんと次の行動に移る。階段を視界の端に捉えて左へ曲がる。リノリウムの床に擦れて大きな音を立てないように足音を殺さなければ、と思って足元を見たとき初めて自分が靴下であることに気がついた。靴ないじゃん。靴を履いてるかいないかもわからないなんて慌てているにも程がある、というか感覚がおかしいレベルだが、とりあえず今は靴音を気にしなくて済むから助かったということで不問に付す。この建物から脱出することが最重要目標なのだから靴ひとつでぐずぐずしている暇はない。そう思って階段を駆け降りようと一歩踏み出したとき、遠くから声が聞こえた。
「……茨?」
見つかってしまった、とそれだけでも焦ってしまうのに、それが俺の名前だったから余計に驚いた。何故ここに俺のことを知っている奴が? そいつも捕虜にされたのか?
弾かれるように振り返った瞬間、靴下だったことが祟ってするりと足を滑らせた。遠くには銀髪の男が一人。あいつが呼んだのか。琥珀のような美しい瞳が目に焼き付く。というか、受身を取らなければ。階段で頭を打って死ぬなんて間抜け晒したくない。ぐっと体を丸めて力を入れる。銀髪が慌てたように駆け寄ってくるのが視界の端に消えていった。
──落ちる!
「……茨?」
ぎゅっと目をつぶって衝撃に備えたが、くるべきものはこなかった。代わりに何か温かいものに抱き止められる。そうして、耳元でまたしても俺の名を呼ぶ声が聞こえた。こちらはどこか聞き覚えのある、なんとなく安心する、柔く深い声。
恐る恐る目を開ける。そこには驚いた顔の男が一人。どこか見覚えのある女みたいな綺麗な顔。切り揃えられた濃紺の髪。すみれの瞳と、右目の下の泣きぼくろ。
「え……ゆ、づる?」
「茨!」
「乱さま?」
弓弦のような誰かが階段の方に顔を向ける。釣られるようにそちらを見るとさっきの銀髪の男がいた。ラン、というらしい。弓弦の知り合いなら安全か。と、そこまで思って、もう一度弓弦の方を向いた。
俺を抱き抱える弓弦もどきは、俺と昨日まで寝食を共にしていた弓弦とは明らかにサイズが違う。同じくらいか、ほんのちょっと、悔しいことにほんのちょっと、弓弦の方が大きかったけど、間違ってもこんなにすっぽり抱き抱えられてしまうほどの差異はなかったはずだ。これではまるで大人と子どもくらいサイズが違うではないか。
「え、デカッ」
ぽろりと出てきた本音に二人の視線が集まるのを感じる。目覚めた時の緊張感がピリッと舞い戻ってきた。どうしよう。ここはどこで、この弓弦みたいな人間は誰で、こっちの銀髪は何で俺のこと知ってて、それでもって俺はどうなってしまったんだろうか。考えなければならないことはたくさんあるのに、ぐるぐると、貧血になったみたいにちっとも頭が回らなかった。
②
「こんな陰気な顔がこの世に2つもあっちゃたまったもんじゃないんだけどさ……本当に弓弦なんだよね?」
ひとまず廊下ではいつ誰がくるかわからないからと、銀髪のランとかいう男の部屋に俺たちは移動した。正直見ず知らずの部屋から抜け出してきたばかりなのに知らない男と密室に逆戻りだなんてごめんだったけれど、弓弦っぽい男が暴れそうになる俺を抑え込んで俵担ぎにして連行した。この雑な扱いといい的確な対処といい、ますます弓弦の可能性が高まってしまう。でも本当に年齢がおかしいし、俺たちは、というか俺はこんな立派な建物にいられるような身分じゃなかったはずで頭が混乱している。混乱したままでは正しい状況判断もなにもあったもんじゃない、と施設で叩き込まれた脳みそは、害意がないこの男たちから出来うる限り現在の情報を引き出して脱出作戦を練り直すべし、という結論を弾き出した。そういうわけで俺は大人しくでかい男二人に囲まれたベッドの上に座っている。出口の方向を弓弦っぽい男に塞がれているのが解せないが。
「そっくりそのままお返ししますが、こんなクソ生意気なガキがこの世に何人もいては困りますから、きっとあなたは本物の茨なんでしょうね」
「うえっ、なにそのキモい喋り方」
「おやおや、わたくしとしたことがどうやら躾が足りなかったようでございますね」
貼り付けた笑顔で罵ってくる感じ、間違いなく弓弦だ。殺気の種類が同じなのだ。なんででっかくなってるのか理解に苦しむけれど、知り合いがいると分かると少しだけ緊張が緩む。弓弦の気取った顔で安心する自分がいるなんて知りたくなかったような気もするけれど。
「とはいえ、あなたが疑り深いことは重々承知しております。ですので、証拠をお見せしましょう」
「証拠?」
弓弦がそう言ってすっと前髪をかき上げる。そこにうっすら滲む傷痕。その場所にあるそのサイズの傷に心当たりがあった。心当たりがあったなんてものじゃない、それは。
「俺が、つけた」
「はい。まあわたくしはあなたにつけられたなんて微塵も思っていないと常々伝えていたかと思いますが、あなたが自分のせいだと言ってちっとも譲らないものですから、そういうことにしてさしあげますよ」
「……やっぱ、こんなネチネチしたやつがこの世に何人もいたら困るし、しょうがないからあんたのこと弓弦って認めてあげるよ」
傷痕を直視できなくてふいと視線を逸らす。強がって憎まれ口を叩くけれど、見せられた瞬間本当はすごくドキッとした。ほんの数ヶ月前、任務に失敗した時にできた傷だ。俺がヘマをして弓弦が傷ついた。本人が自分のミスで招いた結果だと言い張って譲らないところも一貫している。これはツーマンセルで動いていた作戦時のもので俺と弓弦しか知らないことだ。弓弦がこんなこと誰かにゲロるとも思えなかったし、やはり本物なのだろう。そうか、痕、残っちゃったのか。
「……どうして茨は小さくなってしまったのかな」
それまで黙って俺たちの話を聞いていた部屋の主人がふいに口を開いた。静かすぎて忘れていたが、そういえばこいつもいるんだった。俺がこいつ誰という顔で弓弦を見ると、弓弦は呆れたような顔でため息をつく。
「こちらの方はあなたの……なんといえばいいのか」
「茨の閣下だよ」
「俺の閣下?」
「乱さま……話がややこしくなるので少々黙っていてくださいますか?」
自称俺の閣下もといランはキョトンとした顔で弓弦を見る。なんだなんだ、こんなデカいなりで不思議ちゃんなのか? やめてくれ。話の通じない人間は大嫌いなのだ。
「茨……とりあえず何も言わずにわたくしの話を聞きなさい。あなたは今……今というのはわたくしたちの時間でということですが、今、アイドルをやっているのです」
「は?」
アイドルって、なんだ?
空いた口が塞がらない俺に、弓弦はもう一度大きなため息をついた。
③
弓弦の説明によると、俺は今17歳で高校生をしながらアイドル活動をしているらしい。それもそこそこ人気のあるアイドルユニットらしくて、そこのリーダーがこの乱凪砂という男なのだそうだ。俺はこいつのことを最終兵器と呼んで憚らず、たいそう大事に世話をやいているらしい。ここはそんなアイドルたちが共同で暮らす寮で、つまり弓弦もアイドル、だそうなのだ。
どこから突っ込めばいいのか分からない話で頭が痛くなる。まず俺はどうやって施設を脱出したのか。次になんでまたアイドルなんて興味の欠けらもないものになろうと思ったのか。それからこの男の何を見て最終兵器だなんて思ったのだろうか。というか弓弦は家に帰って坊ちゃんのお世話をするんじゃなかったのか?
「もしかして俺、頭打ってバカになったりしてるわけ? それともみんなして俺のこと嵌めようとしてる?」
「そうだったらよかったのですけど、残念ながらあなたもわたくしも正気です」
「茨は立派にアイドルを務めているよ」
にこりと美しい男が笑う。それだけでその辺の女なんかはころっと恋にでも落ちそうな顔だ。たしかに見た目はアイドルに抜群に向いているに違いない。こんな美丈夫にはそうそうお目にかかれないことくらい世間に疎い俺でも分かる。商売道具としては申し分ないことだろう。とはいえ、それは何故俺はアイドルを目指しているのかという問いの答えにはならない。
「そういえば乱さま、いやに早起きですが本日のご予定は把握されていらっしゃいますか?」
「あ、うん。ええと、たしか今日は午後に雑誌のインタビューが三件、それから新曲のレッスンだったかな」
「ではインタビューの方は書面か延期にしていただいて、レッスンはお休みということで手続きをしないといけないでしょうね」
「そうだね、日和くんに連絡してみるよ」
「それから茨のこの状況ですが……」
「茨は触れ回ることを嫌がるだろうから私たちだけで解決しよう……と言いたいところだけれど、私たちは門外漢すぎて全く解決策を打ち出せそうにないよね。仕事もあるしEdenのみんなには伝えるとして、あと誰か協力を仰げそうな子はいる? 英智くん、と思ったけれど茨は絶対に貸しを作りたくないだろうし……」
「そうですね……では、魔法のことは魔法使いに。わたくしから逆先様に尋ねてみましょう」
「ありがとう」
とんとんと俺が口を挟む前に二人の間で話が進んでいく。蚊帳の外なのは悔しいが俺の知らない世界(というか、未来、らしい)で俺ができることは現状限りなくゼロだし、あっちのランは知らないけれど、少なくとも弓弦は俺が不利になるような状況に持ち込まないという確信があった。こいつは教育的指導とかなんとかいちゃもんつけて俺をいびるのが大好きなやつだけど、俺みたいな性根の腐った最低野郎じゃない。認めるのは癪だが、本当に危険な時に俺を貶めて悦ぶような施設のクソどもとは違う、信頼できる上官だったのだ。
「羽風さまとゆうたさまがお戻りになられるようでしたら何処か会議室かホテルを手配いたしましょうか」
「二人が帰ってくるのは夜だけれど、念のため移動しておこうかな。ホテル……だと悪目立ちしそうだからEdenの専用ルームにいるね。それなら君も出入りしやすいだろうし」
「承知いたしました。後ほど食事と合わせて身の回りのものをお持ちいたしますので足りないものが有ればお気軽にお申し付けくださいませ。それでは大変恐縮ではございますが、ひとまずわたくしは職務に戻ります。乱さま、申し訳ありませんが茨のことをよろしくお願いいたします」
「えっ、弓弦行っちゃうの?!」
急に弓弦が俺を放り出そうとするから思わず大きな声が出てしまった。だってこんな得体のしれない男と二人っきりだなんて。口には出していないけれど、こんなわけわかんない状況でも弓弦がいるからちょっとホッとしていたところがあるのにそんなのってあんまりだ。さっきの俺の信頼を返せ。
「そろそろ坊っちゃまの元に戻りませんと」
「坊っちゃまって、弓弦が愚痴ってたお坊ちゃん?!」
「愚痴っていません」
「いーや愚痴だったね。じゃなくて、どうにかなんないわけ?」
「わたくしの第一のお仕事は坊ちゃまのお世話ですからこればかりはどうしようもありません。赤ちゃんじゃないんですから、しっかりなさい」
「お前もアイドルじゃなかったのかよー!」
「坊っちゃまの執事であることが大前提ですので」
急に手のひらを返してきた弓弦に文句をつけていたが頬を両手で挟まれてぺちと軽く叩かれる。弓弦の優しい方の気合いの入れ方だ。真っ直ぐ俺を見つめてくる紫の瞳の意志の強さも昨日までのちっさい弓弦となんにも変わってない。厳しい訓練の前、難しい任務の最中、何度もこの瞳に射抜かれた。だから、本当にこのでかい男は弓弦なんだなあと変に納得してしまった。
「頑張れますね、茨」
「…………うん」
「返事ははいだと教えたでしょう」
ちなみに優しくない方は馬鹿みたいな力で遠慮なく背中をどついてくる。今みたいに。