Cidre Doux「茨は」
隣に座った閣下がおもむろに俺のもつグラスを指差した。殿下御用達のホテルのラウンジでのことだ。打ち上げ帰りに「まだ帰りたくない」なんてどこぞの漫画かドラマのようなことを言うものだから、明日のスケジュールを確認し、一時間だけだと釘を刺して連れてきた。
「いつもそれを頼むけれど、好き、なの?」
ゆるりと首を傾げる顔はグラスを重ねているはずなのに赤くも青くもなく、いつも通り平然としている。閣下が酔い潰れたところを俺は見たことがなかった。普段から掴みどころのないふわふわとしたお方ではあるが、多少酒が入っても言動に変化がない点はプロデューサーとして安心できた。成人して酒の席も増えてきたが、今のところどれも粗相なくやり過ごしている。
「ああ、いえ、そういうわけではないのですが」
「そうだよね、度数も高くないし、茨の好みとは違うような気がして」
いつも辛口のものを飲んでいるものね、と目を細める閣下に俺は目を見開いた。自分としては周りが出来上がった頃こっそり頼んでいるつもりだっただけに、なんだか面映い気持ちになる。
「……よく、気がつかれましたね」
「ふふ、私、目がいいから」
瞼を伏せて得意げに閣下が笑う。事実だけに、俺も苦笑する他なかった。知られてしまったからには説明しなければ彼は満足しないだろう。そういう人だ。とはいえ、どう説明したものか。手持ち無沙汰にグラスを揺らす。昔から変わらない、甘酸っぱい爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「……お恥ずかしい話ではあるのですが、これは自分にとって勝利の美酒なのです」
幼かった頃、白星を上げた日は施設やキャンプで宴会が行われた。宴会といってもしっかり準備した宴席のようなものではなくただ全員が勝利を分かち合うために集まって食事をするだけの簡素なものだ。食べ物だってレーションか冷えた不味い飯のどちらかで、けれど、誰かがどこぞから仕入れてきて酒だけはたんまりとあった。大人たちはそれを浴びるように飲んで、それはそれは心地良さそうに腹を出して眠っていたことを覚えている。
「けれど、そんなところに子どもが飲むような甘ったるいジュースなんてものはありませんでしたから、代わりに自分達に渡されたのがこちらでして」
「……未成年飲酒」
「治外法権であります」
閣下がくすりと笑った。わかっているよと言いたげな視線に、俺だって何も本当に違法を咎められているとは思っていないと目で訴える。
「……まあ、そういうわけで戦に勝つ度にこれを飲んでいたものですから、この香りがすると達成感が湧いてくるといいますか、これを飲まないとなんとなくすっきりしないといいますか……はは、刷り込みって怖いですね」
「……いいと思う」
慈しむように微笑んだ閣下がマスターに声をかけて俺と同じものを注文する。
「茨の努力が結実した証。君の、ううん、私たちの楽園にふさわしいと思うよ」
乾杯。
閣下の掲げたグラスから、さわやかな林檎の香りがした。