ふと思い立って、カメラを片手にチベットを訪ねた。飛行機で成田から西寧へ、そこから今度は寝台列車に乗り換えて首府・ラサまで。寝台列車にはほぼ一日中乗車していなければならなかったが、雄大な自然や車内で出会した巡礼者とのやりとりはとても興味深く、退屈することはなかった。
日本から丸二日かけて降り立ったラサの地で初めて見上げた空は、濃い青がこれまで経験した中で最も鮮やかに広がっていた。それは標高が高まるにつれ大気中の水滴や塵が少なくなることによって引き起こされる現象であると理論を理解していても、この圧倒的な深く美しい青色の前には本から得た知識など全くの無意味であると突きつけられたような気分になった。理屈を越えて真に迫る美しさがあり、私はしばらくの間ただこの青色を目に焼き付けるためだけに立ち尽くしていた。
きっとここに絵筆を持ってきても、この美しさをキャンバスに再現することはできなかっただろう。同じく、いくら言葉を尽くしてもきっとこの感動を他人に正確に伝えることはできないだろう。カメラを持ってきて正解だった。人も、空も、大地も、この地のあらゆる美しいものを可能な限り損なうことなく切り取ることができるのだから。
帰国後、一週間も勝手に出かけたことを茨は怒っていたけれど、現像した写真の出来栄えを見て現金なことにくるりと手のひらを返した。「その辺の写真家など目じゃありませんな!」なんて高笑いしながらどこかに展示できないか、あるいはブックレットのようなものを作製できないか、早速各所に電話をかけ始めた。さすが、転んでもただでは起きない逞しさだ。
私はあまり興味がなかったのでその辺のことは茨に任せることにしたけれど、ひとつだけ必ず発表するように頼んだ写真がある。チベットの山頂から撮った、きっとこの世で一番美しい青色の空。まだ誰にも話してないし、きっと君は怒るだろうけれど、どこまでも高く澄んでいるその鮮やかな青一色の写真には君の名前をつけようと思っている。ファインダー越しに、遥かなる高みを目指す、その美しい青い瞳がオーバーラップしたから。