37話ショック「フェイスさん……」
まだ目を覚さないのだろうか。今、メンターたち、というよりはエリオス全体が慌ただしい。どうにかルーキーを連れ戻せたものの調査のために足を踏み入れようにもアクセスできないステージに、あまりにも鮮やかで早すぎるクラッキング。内通者がいると考えるのが妥当だ。シリウスの洗脳技術もよく分かっていない。問題が山積みなのだ。
それでも時間を見つけて、病室に足を運ぶ。傷だらけになった彼は、不思議なことに顔だけは綺麗なままだ。かすり傷程度で、大きな傷はない。身体がぼろぼろなのに顔だけでも無事でよかったと考えるべきなのだろうか。
「早く起きてくださいね」
パトロールの途中にウィルの家で買っておいた花を活ける。甘い香りのものにしてくれと頼んでおいた。その香りに導かれて、早く起きてほしいから。
もうトレーニングの時間だから行かなければ。同室のジュニアはフェイスさんよりも重症だ。けれど二人とも生きている。大丈夫。
ジュニアが起きていないのを確認して、そっと唇を重ねる。
ああ、お伽噺のようにうまくはいかないものだ。
部屋から足早に立ち去る。次に来たときは目を覚ましていればいい。今日の夜にもまた顔を出そう。
「な、に……キスなんて、普段もあんまりしないのに……」
王子様のキスで目が覚めたなんて、恥ずかしくて言えなかったお姫様を置いていく。
夜、夕食もとうに過ぎただろう頃にディノさんがやってくる。
「あ、オスカー! よかった。フェイスが目を覚ましたんだ。検査とかも色々終わったから、」
暇なときにお見舞いに行ってあげて、と恐らくは続いたのだろう。その言葉を聞かずに部屋を出て、能力も使いながら病室へ行く。
「フェイスさん!」
「うわ、うるさ。おチビちゃんまだ寝てるんだから静かにして」
よかったと傅く。そんな俺を見て、フェイスさんはそっと髪を撫でてくれる。
「何度か、来てくれたの?」
「はい。……あなたが目を覚ましてよかった……」
髪からゆっくりと頬に添わされた手に自分の手を重ねる。まだ包帯がついて痛々しい手だ。
「夕食は何か食べましたか?」
「検査やなんやかんやでまだ」
何か買ってこようかと提案すれば首を横に振られてしまう。
「今はここにいて」
ですが……と目線を少しずらすとフルーツの盛り合わせが置かれている。この部屋は確か、備え付けの包丁もある。
「少しでも何か食べてください」
カゴの中にはリンゴとメロンとオレンジが入っている。メロンは明日以降、誰かと一緒のときに剥いた方がいいだろう。
「リンゴとオレンジ、どちらがいいですか?」
「……あんまお腹空いてないんだけど……んー、リンゴで」
一個でいいからね。オスカーが食べたい分は好きにしていいけどと言われる。とりあえず一つ分剥くことにする。
リンゴの皮にも栄養があるのだと以前言われて、うさぎさんが好きだと言っていたかつてのフェイスさんを思い出す。
椅子に腰掛けようとするとフェイスさんもゆっくりと起き上がり、ベッドをとんとんと押す。
「こっち、座って。……そっちじゃ、手、届かないから」
カーテンの先にはジュニアが眠っている。それでも、その誘惑に勝てなかった。ベッドに腰掛ければ、背中にフェイスさんの温もりが伝わる。
しゅりしゅりと、リンゴを剥く音だけが響いている。それと同時にどんどんと鼓動が早まる。背中にくっついているフェイスさんにもこれは伝わってしまうのだろうか。
手元のリンゴは少し小さめに切っておいた。うさぎの形をした、小さなリンゴ。少しだけ席を立って皿とフォークを用意する。本当は、ベッドサイドの椅子に座るべきだ。それを分かっていて、またベッドに腰掛ける。
「どうぞ、召し上がれ」
「ありがと」
全ての動きが緩慢で、まだこうやって起き上がるのも辛いのだろう。けれど、栄養を摂らなければいけないのもまた事実で。
「フェイスさん、その……あーん、してください」
フォークを手に取って、自分にもたれさせて、口元に運ぶ。びっくりしたようにこちらを振り向き、顔を歪ませる。
「大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
「……大丈夫。オスカー、ちょうだい」
あ、と開けられた口にリンゴを入れる。しゃくりと音がして、蜜が滴る。
「うさぎさん、食べちゃった」
「フェイスさんに食べられて幸せですよ」
くすくすと二人で笑う。小さめに切ったリンゴなので、二つ目を口元に運ぼうとすると止められる。
「ごめん、もういいや」
「ですが……」
「お腹いっぱいになっちゃった。変色しちゃうのももったいないし、オスカー食べちゃって」
本当に小さなリンゴだったのだ。これだけなんてと表情を曇らせた俺を見て優し気な顔で笑う。
「大丈夫。元々遅い時間にはあんま食べないだけだから」
包帯だらけの身体をそっと抱き締める。
「オスカー、オスカーがそれ食べ終わるまでの間だけでいいからそばにいて」
今だけでいいからと小さな声で言う。もう少しだけ抱き締めて、ゆっくりとリンゴを食べる。普段の倍以上の時間をかけて、二人きりの夜を楽しむ。けれど、怪我をした彼をずっと拘束していいわけがない。早く寝て、早く治してもらわなければならないから。
「フェイスさん、あの……また来ます」
最後にもう一度だけ抱き締めて、部屋から出ようとする。くいと服の裾を引かれて振り返る。
「今度は……キス、してくれないの?」
可愛い恋人に、口付けを贈る。
「次はちゃんと、起きたよって言ってください」
「恥ずかしかったんだもん」
夜が更けてしまう前に部屋を出る。名残惜しい気持ちはトレーニングで吹き飛ばすしかない。今は身体に燻る熱を発散しなければ。
数日の間、パトロールとトレーニングと、その他の事項でなかなかお見舞いに行けなかった。
「フェイスさん! 元気になられたようで、何よりです……!」
ようやく行けたお見舞いで、つい大声を出してしまい咎められる。ジュニアももう起きているようだった。その後、ジュニアの兄らしき人もやってきて、背中を押されるように病室から出る。
「無理矢理追い出してごめんね? あの人おチビちゃんのお兄さんで……なんか色々募る話もあるだろうし……俺もオスカーと話したかったし?」
普段彼が飲んでいるココアは研究部にはない。談話室のフロアにある自動販売機にのみ置いてあるものだ。
そこまで歩いている道中、足取りもしっかりとしていて、数日前とは大違いだ。
「よかった……だいぶ回復しているんですね」
「アハ、俺もヒーローだからね。……心配かけてごめんね」
部屋に戻って、と先程言っていたのでそのままウエストのフロアへ向かう。誰もいないようだったからそのまま彼の自室へ。
ヘッドホンなどいくつか物を準備して、鞄に詰める。その姿を見て、もう大丈夫なのだとようやく安堵して、抱き締める。痛くないだろうか。大丈夫だろうか。けれど、離したくはない。
「だいすきです」
「どうしたの? 今日は甘えたさんだね」
おいでとベッドに導かれてキスをする。触れるだけのものを何度か繰り返して、舌を差し込む。
止めなければ。気持ちいい。まだ退院できていないのに。大好き。俺がやめなくてどうする。離れたくない。
「んっ……も、おしまい」
これ以上は欲しくなっちゃうからと止められてやっと唇を離す。目の前に、少しだけ目元を赤くしたフェイスさんの顔がある。ちゅと音を立てて触れるだけのキスを一つ。これでおしまいにする。
「戻ろっか。もうそろそろあっちのお話も終わったと思うし」
人と会うまでだけと手を繋いでリビングに出ると、ディノさんとキースさんが苦笑いをして立っている。
「アハハ~えーっと……」
「声漏れてたからちゃんと扉閉めろよ~」
二人が笑っている、とはいえ自分の仕出かしたことを考えて顔が赤くなったり青くなったり。
「う、あ……ええと、失礼します!」
俺にできることは脱兎の如く逃げ出すことだけだった。
「もう、二人のせいでオスカー逃げちゃった!」
「まあまあ……病室戻るだろ? ピザ買ってきたんだ」
「何で病人にピザなんだよ」
「まあディノらしいけどね」
三人で病室に戻り、ピザパーティーをしたと後日聞いた。
「オスカーも来ればよかったのに」
そうだと思う一方で、この人を独り占めしていたいから嫌だと思う気持ちもあるなんて、声には出せないのだけれど。