酷く頭が痛む。
誰もいない保健室のベッドに腰掛け、天を仰ぎながら、がんがんと響く頭を抑えた。治療してもらおうと来たのに、頼みの綱の教員がいない。一度腰を落ち着かせてしまうと、薬を探す気力すら起きなかった。
少しだけここで眠ろう。起きたらちょっとくらいはマシになっているだろう。体を横たえようとした時、ガラリとドアの開く音がした。
「失礼します。えっと、机の書類は…あれ、七海先輩?」
誰だ…?
少しだけ顔を動かそうとするも、ずきん!と頭が痛んだ。もう動くのも辛い。
「あ、頭が痛いのですか!?」
「…うる…さぃ。」
「ひっ!す、すみません!」
小さく悲鳴が上がり、気まずい沈黙が流れる。怖がらせるつもりはなかったのに、つい頭痛で苛立って当たってしまった。謝罪を口にしたいのだけどそれすら億劫だ。この方には申し訳ないのだが。
「…あの、良ければ、私の持ってる痛み止めを飲まれますか?少しは楽になるかと思いますが…。」
「…いただきます。」
「では、水を持ってきますね。」
声の主はぱたぱたと音を立てて外に出ていった。あの声に聞き覚えがある。確か、一年の男子生徒だ。性格、行動に難のある者が多い呪術界隈の中で、比較的まともだったから覚えている。
名前は確か
「お待たせしました。こちらの錠剤を二粒お飲み下さい。」
「…ありがとう、ございます。」
いつの間にか戻って来ていたらしい。気配すら感じられなくなっているとは、相当弱っているようだ。ありがたく薬を受け取り、頂いた水で喉に流し込む。
「効果が現れるまでは、ここで横になってて下さい。先生には私から伝えておきますので。」
「…助かります。」
「体動かせますか?」
「…えぇ、少しくらいは。」
言われた通りベッドで横になり一息ついた。気のせいか少しだけ痛みが楽になった気がする。うっすらと目を開けると、心配そうに見守る彼と目が合った。
「…今日も一日お疲れ様でした、七海先輩。」
強張った顔が少しだけ緩み、柔らかい笑顔になった。それに一瞬魅入られ、そして私は深い眠りについたのだった。
「この界隈にも天使のような人がいたんだなと思った。」
「いやー、どんな女性にも靡かない七海が、男性に一目惚れするなんて。最初はなんの冗談かと思ったよ。」
高専の廊下を友と二人で歩く。ある目的の場所へ向かう為に。
灰原は先程自分が奢った赤い缶を口につけ、一気に喉に流し込んだ。あれは炭酸飲料水の筈。よく一気に飲み込めるなと、変な感心をする。
「彼は男女関係なく天使だっただけだ。」
「ふーん。…で、お礼が言いたいのにタイミングが掴めず一週間が過ぎて、どうしようも無くなったから僕に相談したわけだ。賄賂付きで。」
「…反論はしない。」
ぷらぷらと赤い缶を揺らし、にやっと笑いながらこちらを見る。いつもなら嗜める所だが、今日はそんな訳にはいかない。私はお願いする立場なのだから。
「普通に声かければ良いのに。あの時はありがとう、お礼にご飯に誘いたい、予定決めたいから連絡先教えて。ほら、簡単じゃん。」
「…。」
「まぁ、七海がこれを真顔でやったら正気を疑うよね。」
「私をからかいたいなら好きにすれば良い。彼とコンタクトを取れるのであれば、どんな言葉でも受け入れる。」
「分かった。他ならぬ七海のお願いだからね。きっかけくらいは作ってあげるよ。」
「…助かる。」
足を止める。そこは去年自分たちが学んでいた一年生の教室だった。灰原は勢いよく扉を開けると、一人ぽつんとサンドイッチを食べてる彼に近付く。誰にでも気さくに接せる灰原の性格を、これほど羨ましいと思ったことはない。
「やぁ、君が伊地知君だね。」
「え、あ、はい!灰原先輩、七海先輩、こんにちは!」
手にサンドイッチを持ったまま、件の伊地知くんは席を立ってこちらに頭を下げる。なんだろう、小動物みたいでとても、可愛い。
「そんな堅苦しい事しなくていいよ。今日は君にさ、お礼を言いたくて来たんだ。」
「お礼?灰原先輩に何かしたでしょうか?」
「僕じゃなくてこっち。君、七海が倒れてる所を助けてくれたんでしょ?ほら、七海。」
灰原に背を押されて彼の前に立たされた。私のほうが頭一つ背が高いせいか、ちょっと上目遣いになっている。たまらなく、可愛い。
「…あの時はありがとうございました。あの頭痛薬とても効きました。」
「いえ。あれからお加減は如何でしたか?」
「…良くなりました。」
「そうですか!それは良かったです!」
嬉しそうに笑う顔をつい見つめてしまう。可愛い、とても可愛い。
抱きしめたい。
「七海、会話止まってる!続き続き!」
灰原に小声で小突かれて、はっと意識を取り戻す。伸ばしかけた手は即座に引っ込めた。
「それで、その…お礼に食事でもと思いまして。」
「へ!?そんな、お礼なんて…七海先輩がお元気でしたら私はそれで充分ですから。」
「そんな事を言わず。私の気がすみませんので、是非。」
「ですが…。」
「どうかお願いします。」
ここで関係が切れたら次はいつ話しかけられるか分からない。どうにか次に繋げたいとらしくもなく食い下がった。
「伊地知くん。」
「っ…そ…そう、ですね…なら、お言葉に甘えて。」
「…えっ。」
…お言葉に、甘えて?受けて、もらえたのか?多少強引だった自覚はあるが、言質は取れた。灰原に視線をやると、にっかりと笑って小さく親指を立てた。
「良かったね七海。ほら、予定立てるんだから、連絡先教えて貰わないと。」
「っ!あの、何か連絡が取れる物を教えて頂けますか?アドレスか番号を。」
「分かりました。ちょっと待ってて下さい。…携帯……あれ、何処にやったかな。」
伊地知くんは手に持っていたサンドイッチを机に置いて鞄を漁り出す。連絡先の少ない自分のアドレス帳を開いて、柄にもなくそわそわしながら待っていた。彼の為にピックアップした店を思い浮かべ、先の予定に思いを馳せていたその時、耳を貫く声が聞こえてきた。
「きゃー!七海先輩と灰原先輩だー!」
「どうして!?なんで一年の教室にいるんですか!?」
答える間もなく、二人の女性が私と灰原にピタリと近付いてきた。その動きがあまりにも速く、灰原も避ける事が出来なかったようだ。
「先輩、先輩!前から言おうと思ってたんですけどぉ、今度私達四人で遊びに行きません?」
「いえ、行きませ」
「私達、良いお店を知ってるんです!そこでランチに行きましょう!」
「行かないって言」
「連絡先教えてくださいよ!いつ行きます?私達なら任務も授業も無いこの日がベストなんですけど!」
鬱陶しい、何なんだこの生き物は。あの温厚な灰原でさえ珍しく苛立っている。こっちは早く伊地知くんの連絡先を知りたいのに。
視線を伊地知くんに向けたが、先程までいた場所に彼はいなかった。慌てて教室を見渡すと、そろそろと入口の方へ向かってる背中を見つけた。
「い、伊地知くん!」
「…あの、私はこれで。先程の話は無かったことにして頂いて構いませんので。失礼します。」
「えっ!?伊地知くん、待っ」
四十五度に腰を折り頭を下げ、可愛いらしくぱたぱたと音を立てながら彼は教室から出ていってしまった。遠ざかる背を追いかけることもできず、粘着テープのように貼り付く女性を剥がす事で精一杯だった。
校庭の角で私は項垂れていた。
日の光をまともに浴び続けて頭が熱い。それでも動く気にすらならなかった。
「………。」
「まぁまぁ、どんまい。」
「…漸く、約束を取り付けられそうだったのに…。無かったことにして良いって……終わった。」
あれから女性達を強引に突き放して伊地知くんを追いかけたが、運悪く予冷が鳴ってしまい断念せざるをえなかった。今はこれから任務が入っているので、準備だけして迎えを待っている。
灰原はいつの間にか何処かへ行っており、今は私の目の前に珈琲の缶を差し出していた。それを受け取り、プルタブを開けて中身を少しだけ口に含む。
「…任務なんてクソくらえ。」
「あはは、大分参ってるね。」
「…もう、帰りたい。」
「じゃあ、そんな可哀想な七海にプレゼント。」
灰原は一枚の紙を目の前に差し出した。のろのろと手に取り中身を見ると、英語と数字の羅列、そして下には一言メッセージが書かれていた。
「伊地知君の連絡先。あの後休憩が終わるギリギリに捕まえて、こっそり教えてもらってたんだ。」
「なっ!」
私は慌てて紙に書かれていたメッセージを読んだ。
『お食事の話、本当はとても嬉しかったです。もしお気持ちが変わってないようでしたら、連絡をお待ちしてます。』
歳のわりには達筆な文字だった。伊地知君の性格がよく出ている。それに、彼も楽しみにしているという嬉しい言葉までついてきた。思わず乾いた笑みが溢れる。
「…ははっ、良かった……ありがとう…灰原。」
「どういたしまして。ほら、早く送って送って。」
「そうだな。」
まずは当たり障りのない一言と、日程を擦り合わせる内容にしよう。
二人で食事…楽しみだ。伊地知君はどんな私服なんだろうか。あまり派手なのは好みそうにないから、シンプルな格好だと思う。どんな彼でも好きなままでいれる自信はあるが。
…好きか。いつか伊地知君に好きと言える日は来るんだろうか。好きと…
「七海、何て送ったのー?」
「あっ!」
後ろから灰原に声をかけられ、驚いた私はスマホの送信ボタンを押してしまった。画面に広がる送信完了の文字。恐る恐る送ってしまった内容を確認した。
『七海です。先程は失礼しました。食事の件ですが、何時が空いてま好き。』
「…。」
「あーこれは、その…ごめん七海!」
「あ、七海君いたいた!任務の時間がだから迎えに…ひぇっ!」
この日の任務は過去最速で終わらせた。