魚と水前編 妖怪の寄り合いがお開きになったあと、わしは砂かけばばあに呼び止められた。彼女の肩に乗せてもらい、世間話をしながら帰途につく。
森でかたまって暮らす他のものたちと違い、わしは息子とともに「水木」という人間に世話になっている。
「お主、力を取り戻しておるのじゃろう?」
いよいよ人間の街との境に近付いてきた頃、彼女に言われたのだった。
◇ ◇ ◇
「遅くなったな。ただいま帰ったぞ」
家に入り声をかけるが、返事はない。
水木は縁側に座り、ぼうっと遠くを見ていた。その腕には鬼太郎を抱いている。時折頭を撫でたり、ぎゅっと抱き締めたりしている。
なにか深く考え込んでいるのか、わしが近付いても反応がない。最近、彼はこうしていることが増えた。
あの村で水木は記憶の一部を、そしてわしは体を失ってしまった。
その後、彼は墓場で我が息子・鬼太郎を見つけた。そして、わしとも出会い、今日に至る。目玉に手足が生えた姿には、腰を抜かしておったがな。三年前に旅立たれた母君ともども、随分と世話になっている。
記憶はなくとも、わしらの面倒を見てくれる。そういう男なのだ。
「目玉、湯加減はどうだ」
「うむ、ちょうどよい」
「それは良かった」
「手間をかけたな」
用意してもらった湯に浸かっていると、水木の右手の一部が赤くなっているのに気付いた。なにかに強くぶつけたようだった。
「お主、その手はどうした?」
「!」
浴衣に引っ込めてしまった。そうしてから不自然だったと思ったのか、なんてことないというふうに、水木は再び手を出した。
「なぁに、不届き者をちょいと懲らしめてやっただけさ」
「ほどほどにせいよ」
「上がるころになったら、戻ってくるから」
水木は煙草を喫みにいった。
◇ ◇ ◇
湯に浸かりながら、昼間の砂かけばばあとのやりとりを思い出していた。
「お主、力を取り戻しておるのじゃろう?」
わしは頷いた。長い付き合いだ。隠し事はできない。
「なぜ戻らん。その体じゃいろいろと困るじゃろ?」
「『呪』で縛られておる。お主なら、その意味、分かるじゃろ」
彼女は、はっとした表情を浮かべた。
「あの村で、あやつはわしに勝手に名をつけた。その場限りだと好きに呼ばせていたが、存外気に入っていたらしい」
妖怪には本来、名というものはない。
ほかの者と区別がつけば良く、たいていは種族の名前で事足りる。名とは、呪のひとつ。あの名に、かつてのわしの姿は閉じ込められてしまったのだ。
「あの男がわしの名を思い出せば、元の姿を取り戻せるだろう。じゃがな……」
砂かけは黙って聞いている。
「水木は、戦争で傷を負っているのだ」
体の傷だけではない。世話になりだしたばかりの頃、彼はたびたびうなされたり、小さな物音に過敏になっていたりした。その苦しみが完全に癒えることは、ないのかもしれない。それでも、だんだんと和らいでいたように見えた。
「わしだって、我が子をこの手で抱き締めたい。友と語り合いたい。でも、どうしてもできんのじゃ。すでに傷を持つ男に、同じくらい辛いかもしれない記憶を思い出させるのは。せっかく忘れていたというのに」
わしの声は、震えていた。地面が柔らかいなと見れば、涙で濡れていたのだった。
砂かけからは、知らなかったとは言え、悪いことを訊いたと謝られたが、誰かに話すことができて良かったとわしは思う。自分だけでは、とても抱えきれない。
◇ ◇ ◇
「お前、ゆで目玉になるつもりか?」
はっとして声の主を見た。水木が怪訝な顔でこちらを見ている。
随分長湯してしまったらしい。
砂かけに話していないことが、ひとつあった。
水木の心は、再び不安定になってきている。ぼーっと遠くを見ているかと思えば、いらいらと落ち着かないこともある。あまり眠れてもいないようだ。酒や煙草の量も増えている。あの村のことや、わし自身のことは口にしないようにしていたが、日常的にわしら妖怪と接していれば、どうしても記憶は戻りやすくなる。
あの村で我が妻の姿を絵描いていた、白髪の男の姿を思い出す。
もう、限界だ。
夜が明ける前に行こう。
「鬼太郎、鬼太郎」
眠る我が子の頬をつつく。
「あぁぁ」
気持ち良く眠っていたから、不満だったのだろう。ぐずる声が大きい。
水木の方をちらりと見たが、胸は規則正しく上下していた。今夜はぐっすり眠れているようだ。
その寝顔に、そっと告げた。
「さらば、友よ」
鬼太郎にちゃんちゃんこを羽織らせ、紐を結ぶ。
しーっと顔の前に指を立てると、息子は頷いた。手招きすると、這いながら着いて来る。聞き分けの良い子だ。
玄関の引き戸にぶら下がり、勢いをつけて開けようとした時だった。
「待てよ、ゲゲ郎」
後編 俺には、記憶の抜け落ちている時期がある。
鬼太郎は我が子も同然の愛しい存在で、その父親の目玉おやじは愉快な友だ。だけれど、なぜ妖怪の子供を育てようなんて考えたのかは、自分でもよく分からない。
お袋を亡くしてからは、三人暮らし。妖怪との暮らしは大変なこともあるが、なかなか普通の人間には得難い経験だし、なにより楽しい。
充実した日々の中で、ただひとつ、ずっと気にかかっていることがある。俺はなにか大事なことを忘れているのではないだろうか。
たびたび頭に浮かぶ。桜の木の下に佇む着流しの男。
お前はいったい誰なんだ……?
◇ ◇ ◇
鬼太郎を抱いたまま、縁側に腰掛けながら、考え事をしていた。
俺は一つの結論に達していた。「あの男は、目玉なんじゃないのか」ということだ。
確信があったわけじゃない。ただ、あの男は、俺の失くした記憶に関係があるのではないだろうか。男、哭倉村、そしてこの子を引き取ったことは、すべて繋がっているのではないか。と、考えたのだ。
ズキン、という痛みに、顔をしかめる。あの男のことを考えると、頭痛がする。精神的なもののようだ。本能的に「考えるな」と言われている気がする。反対に言えば、ここになにか鍵があるはずだ。
「あぅ?」
鬼太郎がこちらを見る。心配そうに俺の頭を撫でてくれる。優しい子だ。
俺も撫で返してやると、こそばゆそうに笑った。
人間も動物も、基本的には親と近い姿で生まれてくる。妖怪の生態には詳しくないが、やはり同じようなものなのではないか。もともとは鬼太郎のように人に近い姿だったのに、事故かなにかで体を失って、目玉だけになった。そう考えた方が自然だ。
それに、酔ったあいつの昔話を聞くと、人型であった方が辻褄が合うのだ。しこたま飲ませて聞き出そうとしたこともあったが、それだけは、はぐらかされてしまう。話好きなあいつが頑なに隠すこと、それはいったいなんだろうか。
あいつは「目玉おやじ」と名乗っているが、それは今の姿のことだろう。なら、人の姿の時は……?
◇ ◇ ◇
妖怪とひとつ屋根の下で暮らしているからなのか、あるいはずっと考え続けているからなのか、思考は整理されていった。
起き抜けに、突然、ある名が浮かんだのだ。聞き覚えはない。だが、俺には確信があった。
「クソッ!」
思わず床を殴ってしまった。拳が熱い。
俺が好き勝手に呼んじまったせいだ。さっさと協力を求めなかったのは何故か。簡単なことだ。俺の失くした記憶と関係しているからだ。ずっと気遣われて、守られていた。
俺はそんなに不甲斐ないのだろうか。拳の痛みなんて気にならないほどの怒りと寂しさを感じていた。
あいつの風呂の支度をしてやったあと、席を外した。
そろそろかと戻ると、まだあいつは湯船に浸かっていた。
今日は随分と長風呂だな……。もう一本吸ってくるかと、踵を返した時だった。
「すまんのぅ、鬼太郎」
あいつの声が聞こえた。
親が我が子を抱いてやれないなんて、そんなことがあっていいのだろうか。俺はなにをしているんだ。
「っ……」
気付けば、爪が手の平に食い込んでいた。
「お前、ゆで目玉になるつもりか?」
ぼーっとしている目玉に声を掛けた。
◇ ◇ ◇
近頃、目玉の様子がおかしいのには気付いていた。
とうとう来たか。一緒に暮らしていれば、あいつが考えそうなことくらい、想像がつく。それに逆の立場なら、俺もそうしていただろう。
ひとまず寝たふりをして様子を見る。
目玉はこそこそと鬼太郎に声を掛けている。
こちらの様子を窺う視線を感じる。
「さらば、友よ」
耳元で声がした。
部屋から出たのを確認して、俺もそっと起き上がる。目玉は戸を開けようとしていたところだった。
「待てよ、ゲゲ郎」
あいつに声を掛けた。
「おかしいな?」
名を呼べば姿を取り戻せるのではないか、という予想は裏切られた。
「嫌じゃ、嫌じゃ」
あいつはしきりに首を横に振る。その様子で察した。本人が受け入れる必要があるのではないか。
「なぜ受け入れない? 息子を抱いてやれ」
「わしが認めてしまったら、お主の記憶も戻る。思い出さない方がいいこともある」
「やっぱりそんなことだったか。俺はそんなやわな人間じゃねぇ。誰かに守られるなんて、まっぴらごめんだね」
「しかし……」
「隠し事なんて水臭い。おふくろはもういないし、鬼太郎はまだ幼い。俺たちをよく知っているのは、お互いしかいないじゃないか」
「水木……」
「お前の名前は?」
「わしは『ゲゲ郎』じゃ」
桜の木を背に立つ男の姿が、脳裏に鮮明に浮かんだ。たらりと鼻血が流れる。
あの村での出来事が次々と蘇る。まるで脳に直接流し込まれているようだ。覚悟していたとおり、恐ろしいものもあったが、知らないままでいることなんて俺にはできない。
体に衝撃を感じて、我に返った。着流しの背の高い男に抱き着かれていた。
「水木!」
涙交じりに、しきりに俺の名を呼んでいる。
「あぅ?」
はいはいで寄ってきた鬼太郎を抱き上げ、ゲゲ郎に渡す。息子を抱き締め、彼は先程より大きな声で泣いた。
「泣き虫め!」
「お主だって、泣いておるではないか」
「これは……鼻血を拭ってるだけだ!」
「目から鼻血が出るか!」
わけが分からないといった顔の鬼太郎ごと、あいつを抱き締めた。
そのまま俺たちは、わんわんと泣き、その後笑い合った。