春遠からじ ①会いたい■春遠からじ(成長if鬼太郎×社長水木)シリーズについて
全3話の短編連作
鬼太郎の長年の片思いが報われる話
遅れてきた青春。成長と変化の物語
〈各話紹介〉
・1話
過去作に加筆修正
※1話のみ鬼太郎の女装(メイド服)あり
※もともと1話完結のギャグテイスト強めのラブコメだったため、2話以降と雰囲気違います
※鬼太郎の成長物語でもあるため、途中まで精神的に未熟なところがあります
※1話は少し不穏な感じで終わりますが、2話で水木の本心が分かります
・2話
過去作に加筆修正
※Dキスありのため、15歳未満の閲覧非推奨
URL(近日公開)
・3話
新作
※軽度の性描写があるため、15歳未満の閲覧非推奨
(初夜ネタですが、直接的な描写はありません)
URL(近日公開)
修正前のものを読んでくださった方、反応くださった方、ありがとうございました!
〈設定・登場人物〉
◆鬼太郎
6期+ゲ謎成長if
見た目は(人間基準で)18〜20歳くらい
目玉おやじとともに水木家を出て、今はゲゲゲの森で暮らす
少しずつ身長が伸び、精神的にも成長していく
◆水木
哭倉村での影響で、年の取り方がゆっくりになり、現代まで生きていてる
鬼太郎たちと離別後、起業。寂しさから仕事に打ち込んだ結果、会社は急成長、豪邸で暮らしている。
◇ ◇ ◇
1〈19XX年 夏〉
カナカナカナ――
ひぐらしの声が響き渡る、夕暮れのことだった。
鬼太郎と水木は、縁側に並んで腰掛けていた。
「あっついなぁ」
水木は首から掛けた手ぬぐいで豪快に顔の汗を拭いながら、もう片方の腕で、先程買ってきたばかりの二本のアイスキャンデーを差し出す。
鬼太郎は少し迷ってから、片方を受け取り、食べはじめた。それを見届けてから、水木も食べだした。
「!」
食べながら、地面に映る長い影を、ぼんやりと眺めていた鬼太郎の手が止まった。
水木とは拳二つ分ほど離れて座っている。地面の二人の影は、夕暮れ時で長くなり、実際の距離より近い。あと少し体を傾ければ、影同士がくっつくと気が付いたのだ。
鬼太郎はじりじりと体を傾ける。
心臓は高鳴り、口から飛び出しそうだった。なぜだか水木に知られてはいけない気がした。
ようやく、影はひとかたまりになった。水木の影に自分の影が寄りかかっているのを見て、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになった。しかし、嬉しさの方がわずかに勝った。
「アイス、溶けちまうぞ」
声を掛けられ、鬼太郎はびくっと小さく体を震わせた。
「どうした? 鬼太郎」
水木がこちらに笑いかける。
鬼太郎は全身が熱くなる。顔を背けると、今にも落ちそうな残りのアイスキャンデーを一口で頬張った。今日は、やけに冷たい。
胸がちりちりと焦げるようだった。
ひと筋の風が涼気を運んでくる。チリーン、と風鈴が鳴った。
それから月日は経ち――
◇ ◇ ◇
2〈2023年 12月〉
「完璧だ! これならきっと、僕だって分からないはず!」
鬼太郎は、池に映った自分を見て言った。
メイド風の格好をし、顔には美少女のマスクを被っている。
◇ ◇ ◇
話は、数時間前に遡る。
鬼太郎は、妖怪ポストに届いた手紙を読み上げていた。
「……どうか助けてください。最近、社内の雰囲気がおかしいんです。妖怪コンサルタントの『ビビビのねずみ男さん』という方の紹介で、妖怪が関わるようになってからというもの、社員同士、ギスギスとした空気になってしまいました。特に変なのは、水木社長で、その妖怪と結婚する、と言い出し……」
声が止まったので、目玉おやじは顔を上げて、鬼太郎の方を見た。息子の手は小刻みに震えていた。ちゃぶ台の上にいる目玉おやじからは、息子の表情は、手紙に隠れてよく見えなかった。
手紙は、鬼太郎の手から床の上へと滑り落ちた。
「鬼太郎?」
鬼太郎はふーっと息を吐いた。そのまま、固まったように動かない。
数十秒後、こちらを向いた彼の顔に浮かんでいたのは、いつもの父に向ける表情だった。
「妖怪ポストの依頼となれば、しかたがありません」
気怠げな口調とは裏腹に、着々と準備をしだした。
(あの水木がかのぅ?)
目玉おやじは、どうも釈然としなかった。
「水木」というのは、この幽霊族の親子が昔世話になった人間だ。
彼が手紙に書かれているような、言動をする人間だとは、到底思えなかった。
水木は墓穴から生まれた鬼太郎を自宅へ連れ帰り、面倒を見た。間もなく、目玉だけの姿となった鬼太郎の父も加わった。再会をきっかけに、水木は村での記憶を取り戻した。
そうして四人、水木の母が亡くなってからは三人で、ひとつ屋根の下、苦楽をともにしてきた。
数年はそれで問題はなかった。しかし、鬼太郎が成長するにつれ、人間社会で暮らすのは難しくなってきた。
とうとう鬼太郎たちは、水木のもとを去ったのだった。
その後連絡を取ることはなかったが、水木が起業し、その会社が軌道に乗っていることは、風の便りに聞いていた。哭倉村での出来事が原因で、水木は体質が変化していた。不老不死とまではいかないが、普通の人間と比べて、老化の速度が緩やかになったのだ。
もうひとつ、気に掛かるのは、息子の様子だ。
妖怪ポストの活動は鬼太郎の意思ではあるが、普段の彼は何事にも積極的とは言えない性格だ。
考え込む父親の視線に気付いた鬼太郎は、
「こ、こうやって手紙も来たわけですし! 少し様子を見に行くだけですから!」
と、早口で言った。
ちょうど着替え終わったのをいいことに、そそくさと表へ出て行ってしまった。
「いや、わしはなにも言っとらんが……」
◇ ◇ ◇
家の周りにある池で、変装の確認をしていた鬼太郎は、被っていたマスクを外した。
水面には、不安そうにこちらを見つめる自分の顔が映っていた。
しゃがみ込んで、手でかき混ぜる。
それから、いつもの服装に着替えた。上は、黄と黒の縞模様の――かつてはちゃんちゃんこだった――祖先の霊毛で編まれたシャツ、下はズボンに靴を履いている。
変装道具一式を、丁寧に風呂敷にしまった。
◇ ◇ ◇
目玉おやじは、ちゃぶ台から降りると、床の上に落ちた手紙のところへ向かった。紙の上に乗って、自分でも読んでみる。
よっぽど怯えていたのだろう。手紙は汗か涙で濡れていて、ところどころ滲んでしまっている。
「ん?」
ある部分に、違和感を覚えた。
『なってしまいました。特に変なのは、水木社長で』
近付いて、もう一度よく見てみた。社長の名前の部分に、うっすらと横棒が一本引かれていた。
『なってしまいました。特に変なのは、水本社長で』
「ミズ……モト……?」
鬼太郎が呼んだのだろう、カラスたちの鳴き声がする。
目玉おやじは、走った。家の入口から叫ぶ。
「おい、待つのじゃ!」
鬼太郎には、父の声が聞こえていなかったようで、そのままカラスヘリコプターに乗り込んでしまう。見送りに来たと思ったらしい。
「父さん、いってきます!」
「鬼太郎ー!」
姿は、あっという間に見えなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
3 カラスたちに運んでもらっている間、鬼太郎は膝に置いた風呂敷の結び目の先を、しきりにいじっていた。
「もう会うこともないと思っていたのに」
ついそんな言葉が、口から出ていた。
鬼太郎が、もうひとりの父とも言える存在に、家族愛以外の感情を抱いていたと自覚したのは、彼の家を出てからずっとあとのことだった。
自分を愛し、育んでくれた人間に、恩を返したくて、妖怪ポストを始めた。
それに、自分の想いは叶わなかったが、種族の違いを越えて、友情や愛情を育むものたちの助けになりたかった。
なのに、まさかこんな形で再会することになるなんて――。
「水木さん……」
思わず名前を呼んでいた。はっとして頭をぶんぶんと横に振った。
「違う、違う。依頼のため。少し様子を見に行くだけだ」
あの人のことだ、タチの悪い妖怪に騙されているに違いない。ねずみ男に泣き付かれて、情に絆されてしまったのかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、張り裂けそうな胸を押さえた。
◇ ◇ ◇
4 水木はカップに残っていたコーヒーを飲み干した。
洋館のリビングで、タブレットでニュースをチェックしていた。
深夜まで仕事をしていたのが祟り、あくびが出てしまう。
(昔のような無茶はできなくなってきたな……)
会社員だった頃は、出世の機会と見るや、夜行に飛び乗って駆け付けたこともあったというのに。
もう一口、とカップを手に取ってから、空だったことを思い出した。
顔を上げて見回したが、あいにくと手の空いている者は、いなかった。
ひと声掛ければ快く応じてくれているのは分かっていたが、手を止めさせるのも忍びなく、「まあいいか」と、タブレットに視線を戻した。
そんな水木の様子を、どこかで見ていてくれていたのだろう。
「お注ぎいたしましょうか?」
顔を上げると、コーヒーサーバー片手に、髪の長いメイドが微笑んでいた。見た目も声も若い女性のものなのに、どこかそぐわぬ落ち着きを感じさせる。
「頼む」
コポコポコポ……と、カップに注がれるコーヒーを見ながら、水木は首を傾げた。
(こんな若い人を雇っていただろうか……? そういえば、メイド長が一人増やしたいと言っていたな。あの話は、どうなったんだっけ?)
考え事をしている間に、メイドはコーヒーを注ぎ終わり、水木の前にカップを戻した。
礼を言うために顔を上げた水木は、自らの目を疑った。
「」
先程まで目の前にいたはずの女性は、姿を消していた。
代わりに、記憶より大人びた鬼太郎が、メイド姿で立っていた。
水木はあたりを見回したが、誰も気に留めていない。ここで働く年齢の者なら、彼の顔を知らないはずはないのだが。
どうやら、このメイドが鬼太郎の変装だと気付いているのは、水木だけのようだった。
(まだ見えたのか……)
哭倉村で鬼太郎の父と行動を共にするうちに、水木は普通なら見えないはずのものが見えるようになった。妖怪の姿を見たり、姿を変えている者を見破ったりすることができるのだ。
しかし、鬼太郎たちが、当時の水木の家を出て行って以降、一時期を除いて、妖怪の姿を見ることはなかったため、水木自身も驚いていた。
鬼太郎は、人間でいうと、十八歳から二十歳ほどに見える。中性的な顔立ちは、あまり変わっていない。胸に詰め物をして、リボンやフリルでごまかしているが、体型は青年のものだった。長い髪はカツラだろうが、顔は特殊メイクかなにかだろうか……?
「あの……なにか?」
戸惑った様子の低い声が、鬼太郎の口から聞こえる。首を傾げている。先程は、どうやって出しているのか、女性の声だった。しかし、一度魂の姿を認識したためか、今は水木の耳には、若い男性のものに聞こえていた。
「コーヒー、ありがとう。じろじろと見てしまって、すまない」
水木は軽く頭を下げた。
この屋敷か会社に妖怪がいて、あぶり出す作戦なのだろうか。ここは正体には気付かないふりをしてやった方がいいかもしれない。
ゴホン、と一度咳払いをし、水木は落ち着きを取り戻した。
「君は確か、新しく入ったメイドだね。話は聞いているよ」
「はい。田中キタ子と申します」
鬼太郎は丁寧に頭を下げた。
「よろしくね。ところで田中さんは、どうしてこの屋敷に来たんだい?」
「水木社長のお噂を聞いて……色じか……いや、勉強させていただきたいと」
(今、「色仕掛け」って言ったか?)
◇ ◇ ◇
5 その晩、水木はバルコニーで喫煙していた。ふーっと煙を吐き出す。
このあたりは高い建物もないため、星の瞬きがよく見える。
(あの子が出て行ってから、どれほどの月日が経っただろうか)
水木は、幽霊族の親子が、当時住んでいた家から出て行った時のことを思い返していた。
◇ ◇ ◇
〈19XX年 秋〉
家の門まで来ると、目玉おやじは、息子の髪の間から姿を現した。
「元気でな」
水木は、膨らんだ風呂敷包みを差し出した。中には着替えや、握り飯、鬼太郎の好きな菓子が詰め込まれている。鬼太郎は受け取ると、両手で抱えた。
学校に通い出すと、妖怪と人間との慣習の違いに悩むようになった。
水木は、無理に合わせる必要はない、学校も嫌なら行かなくてもいい、という考えで、何度か言い聞かせたこともある。
しかし、それが迷惑をかけたくないという気遣いや、人間である自分を、父親のように慕う気持ち故だと知っていたので、あまり強くも言えなかった。
ついに無理がたたり、鬼太郎は体調を崩しがちになった。目玉おやじの話では、彼らは本来、病気にもかからないし、死なないそうだから、精神的なものだろう。鬼太郎自身は今の生活を続けることを望んでいたが、回復の兆しは見えず、とうとう二人は水木のもとを去ることになったのだ。
「水木こそ、達者でな。世話になった」
目玉おやじが、深々とお辞儀をする。
「ほら、鬼太郎も頭を下げんか」
そっぽを向いている息子を叱る。
「鬼太郎」
こちらを向いた鬼太郎は、唇に力を入れて、ぎゅっと閉じていた。
水木は、無理矢理口角を上げ、その頭を撫でた。
鬼太郎は姿勢を正して、頭を下げた。
「水木さん、お世話になりました」
鬼太郎は、家の前の通りを歩いていった。風呂敷を大事そうにぎゅっと両腕で抱き締めている。立ち止まり、こちらを振り返る。父に諭されて歩き出す。それを何度も繰り返した。その顔は、振り返るたびに、涙でぐしゃぐしゃになっていった。
水木は唇を噛みしめて、その背中を見つめていた。見届けようと我慢していたが、堪え切れずに、視界が滲んでいく。
俯いて上着の袖で乱暴に顔を拭った。
再び顔を上げた時、もう彼らの姿はなかった。
◇ ◇ ◇
〈2023年 12月〉
体がぶるっと震える。水木は、現実に引き戻された。
(今日ほどではないが、あの日もなかなかに寒かった……。そういえば、あの後、しばらく風邪で寝込んじまったんだったな)
上着を羽織っていても、体に良くはない。そうは分かっていても、今は我が身にしみる寒さが、心地良かった。
幽霊族の親子が出て行った後、水木は勤め先を辞め、会社を興した。外見と実年齢の差が開き、いよいよ勤め人を続けることが厳しくなってきたという事情もあったが、多忙で過酷な状況に身を置きたいという気持ちの方が強かった。
働くことは好きだし、この仕事が向いているという自負もあった。しかし、鬼太郎たちの代わりになるはずもなかった。寂しさをごまかすかのように、がむしゃらに働いた。
その甲斐あって、会社は急成長。いろいろと書類をごまかし、現在の彼は親族経営の優良企業の三代目社長ということになっていた。実際には水木ひとりで何十年も経営しているのだが。
この屋敷を買い、使用人も雇った。身元を隠すためとはいえ、分不相応な生活だと、水木自身は感じている。
成長していく会社は面白かったし、評判が上がれば誇らしい。でも一番欲しかったものは手に入らなかった。かつて「つまんねえ」と唾棄した存在に、自分はなっていないだろうか……?
鬼太郎たちとは、音信不通となっていたが、近況は意外な形で知ることになった。
五年ほど前、妖怪たちは人間の街に、たびたび現れるようになった。事態収拾のために駆け付けた鬼太郎たちの姿も、テレビやネットで見かけるようになった。
幼い頃、人間社会に馴染めず、また随分と嫌な目に遭ったはずだ。それなのに、まだ人間を助けてくれるのかと、思ったものだ。
その後、とうとう、妖怪と人間は衝突し、街は半壊した。
現在は、両者は再び距離を置くようになって、人間たちの間では、鬼太郎の存在も忘れられつつあった。
◇ ◇ ◇
(鬼太郎、すっかり大きくなって……)
ニュース映像では、水木のもとを去った時と変わらない、少年の姿だったから、きっとあれから成長したのだろう。
背丈は、水木と同じか、向こうの方がやや高いくらいになっていたし、顔付きも大人っぽくなった。鬼太郎はもともと、やや低めの声ではあったが、それよりワントーン低くなっていた。
(ずっと会いたかった)
自分に会いに来るのが目的ではないと分かっていても、大きくなった姿を見られて嬉しかった。
(色仕掛けって……。いったい、どういうつもりなんだ?)
水木はしばし逡巡してから、煙を深く吐いた。
(こちとら会社員時代から今に至るまで、さまざまな修羅場をくぐってきた身だ。しかたがない。鬼太郎のためだ)
「協力してやるか」
再び煙を吐き出し、水木は部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
6 同じ頃、建物の外で、夜空を見上げている者がいた。
「水木さん……」
鬼太郎は思わず名前を口にしていた。
今朝、水木から向けられたあたたかい微笑みを思い出して、胸がきゅんと苦しくなった。
(ずっと会いたかった)
記憶より少しだけ年を重ねた水木の姿に、離れていた年月を感じる。しかし、まっすぐな眼差しは昔と変わらなかった。
(うまくいったけど……。気付かれないのも、ちょっと寂しいな)
鬼太郎は、以前にもメイドに扮して忍び込んだことがあった。その時は、半魚人が相手であったが。
「前と同じようにすればいい」と、よく考えもせず乗り込んでしまったことに、今更ながら思い至った。しかし、現状は特に問題は起きていないというのが、彼の認識だった。
作戦通りにいったのだから良かったのだと、気持ちを切り替える。
(せっかく会えたのに、解決したら、また離れ離れか……)
鬼太郎は頭を振って、浮かんだ考えを打ち消した。
(いや、僕が来たのは妖怪ポストの依頼のためだ)
手紙の内容を思い返して、気分が沈む。なにかの間違いであってほしい。
きっと大丈夫、無事に解決するはず、そう自分に言い聞かせたそばから、不安が湧き上がってきてしまう。
鬼太郎は、痛む胸を押さえた。
(もし……もし、すべてが明らかになっても、水木さんがその妖怪を選ぶというなら……。その時は静かに立ち去ろう)
◇ ◇ ◇
7 鬼太郎は、洋館内の調査から始めることにした。
(妖気を感じないな……)
掃除をするふりをしながら、あちこちの部屋や通路に入ってはみるものの、妖気をまったく感じない。痕跡を隠すのがうまいのか、会社の方を調べた方が良いのか……。
残すところは、あと一部屋となっていた。
水木の部屋の前に立った。どうしても調べる気になれず、後回しにしていたのだ。
(調べないわけには、いかないか)
鬼太郎は、あたりを注意深く窺ってから、そっと部屋の中に体を滑り込ませた。
(ここが水木さんの部屋か……)
物の価値に疎い鬼太郎でさえ、調度品のひとつひとつに趣味の良さを感じる。
そんな中、ソファの背もたれには、脱ぎ捨てられた服が乱雑に掛けられていた。かつて一緒に暮らしていた頃、鬼太郎の教育上良くないと、水木は母からよく小言を言われていたものだ。
鬼太郎は、無意識のうちに、ジャケットを拾い上げていた。煙草の匂いがしみついている。
(懐かしい……)
水木は鬼太郎の前では吸わなかったが、服に匂いが残っていることが、たまにあった。
子どもの頃、自分が彼にそうされたように、ジャケットをぎゅっと抱き締める。
(このまま、ずっとここに居られたらいいのに……)
部屋の調査を続けようとするが、つい手が止まってしまう。
(でもこれは変装だ。本当の僕じゃない)
もし悪質な妖怪だった場合、手を打たなければならない。そうすれば、必然と自分の正体も、水木に分かってしまうわけで……。
(もう少しだけ、こうしていたいな)
考え事に耽っていた鬼太郎は、気配に気付かなかった。
「なにをしている?」
水木に背後から声を掛けられた。
「!」
鬼太郎は、ジャケットを落としそうになったが、慌てて掴む。
「さっき匂いを嗅いでいたよな?」
「……」
鬼太郎はゆっくりと振り返った。
上目遣いに水木を見つめる。
「ごめんなさい。良くないことでしたよね……」
瞳を潤ませ、声を震わせている。
鬼太郎は、ジャケットを自分に引き寄せた。
「父の古い友人が喫煙者だったもので、懐かしくて、つい……」
「そういえば」と、付け加えた。
「水木社長は、その人にどこか似ていらっしゃいますわ」
(俺は、色仕掛けにのってやった方がいいんだよな……?)
「ふーん、お父上のご友人が……」
水木は不敵な笑みを浮かべながら、鬼太郎に近付く。
そのままじりじりと距離を詰めていく。
鬼太郎は、反射的に後退った。しかし、背中が後ろの壁に当たり、それ以上、下がれなくなった。
水木は、鬼太郎の背後の壁に、乱暴に片手をつく。
「今度詳しく聞かせてくれるかな?」
そう鬼太郎の耳元でそっと囁く。
(これでいいのか……?)
昔観た映画では、確かこんな感じだったはず、と水木は考えていた。
(あぁ、水木さんの匂いだ……)
お互いの息がかかりそうなくらい近い。
手にしたジャケットより濃い煙草の匂いがする。
それを意識した瞬間、心臓の鼓動が早まる。
(どうしよう。うるさくてたまらない)
鬼太郎は、心臓の音が水木にも聞こえてしまうのではないかと心配になった。
(鬼太郎……?)
水木は鬼太郎の顔が赤いのに気付いた。こちらをじっと見つめる瞳は熱っぽく、とろんと溶けてしまいそうだった。
(これも演技なのか?)
水木の心臓は一瞬、跳ね上がった。
(色仕掛けって、こんな感じだったっけ……?)
二人は同時に、同じことを考えていた。
◇ ◇ ◇
8 階段の手すりを水拭きしている鬼太郎に、水木は声を掛けた。
「きた……キタ子さんは、もしかして妖怪の知識なぞ、おありかい?」
「え えぇ……、父が詳しいので、その影響で多少は」
「それは良かった! 実は妖怪の知り合いがいてね。なにか贈り物でもと思ってるんだ」
水木は照れくさそうに、頭をかいた。ちらりと鬼太郎の方を窺ったが、俯いていたため表情は見えなかった。
「その妖怪は、水木社長にとって、どんな存在なんですか?」
「なによりも大切だ」
「……嫌だ」
「え? あ、ちょっと……?」
鬼太郎はスカートの裾をひっかけて躓きそうになるのも構わず、早足で階段を降りた。そのまま水木の前を横切る。
尋常ではない様子に、水木はあとを追い掛けた。
鬼太郎は屋敷の裏庭に座り込んで、膝を抱いて震えていた。気配に気付いて、顔を上げた。その目から、ぽろっと一粒の涙がこぼれ落ちた。
水木はしゃがみ込んで目線を合わせた。
「どうしたんだ。さっきから様子がおかしいぞ」
そして、手を差し伸べた。
「鬼太郎」
「え?」
鬼太郎の瞳は、極限まで見開かれた。
◇ ◇ ◇
水木はひとまず、鬼太郎をリビングのソファに座らせると、茶を淹れてやった。
「最初から分かってたさ。俺がお前を分からないはずないだろう」
「たとえ魂の姿が見えなかったとしてもな」と、心の中で付け加える。
これまでの自身のふるまいを思い出し、鬼太郎は赤面した。
「なんで騙されてるふりをしたのかって? なにか調べてるみたいだったからさ。その方が、都合が良いだろうと」
水木は鬼太郎の手を取った。
「なにがあったんだ? 助けになれるかもしれない」
「離してください」
「え?」
「離せって言ってるんです」
落ち着いた口調だったが、迫力があった。
「鬼太郎?」
水木は理解できず、彼の顔を覗き込んだ。ひどく傷付いた顔をしていた。
「その妖怪のこと、好きなんでしょ?」
「好き ま、まぁ、そんな感じかな……」
水木は、にっこりと笑う。
今、その妖怪の顔を思い浮かべていると言わんばかりの表情に、鬼太郎は心を掻き乱される。
「なあ鬼太郎、もしおまえさえ良かったら……」
その言葉は、鬼太郎の耳には入ってなかったようだ。
「そうですか、お幸せに。僕は用事が終わったので、出て行きます」
「え 出て行くのか?」
鬼太郎は手を振りほどこうとした。相手が人間で手加減しているため、苦戦している。
そのうちに、体がリモコンに当たってしまった。落ちた衝撃で、テレビがついた。
ワイドショーでは、最近急成長しているという、ある企業の社長が取材を受けていた。
社長の背後には、ねずみ男が映っていた。
「あ!」
◇ ◇ ◇
「お世話になりました。それから、ご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした」
鬼太郎は、玄関ホールで頭を下げた。メイド服から普段の服装に着替えていた。
勘違いに気付いた鬼太郎は、水木に事情を話した。二人して、その会社に乗り込み、事件は瞬く間に解決したのだった。
出て行こうとする鬼太郎の背に、水木は声を掛けた。
「待ってくれ!」
鬼太郎の足は一瞬だけ止まったが、再び歩みだした。水木はなんとか引き留めるための言葉を探していた。
「なにか欲しい物でもあれば、買ってやるぞ。行きたいところでもいい」
鬼太郎は振り返った。
「ありません。僕も、もう大人ですから。子ども扱いはやめてください」
「なんでもいい。言ってみてくれ。できる限り、応えたいんだ」
鬼太郎はその場で首を横に振った。
「せっかく会えたっていうのに……。もう帰るなんて」
「あなたとは、いられません。事件も解決したのだから、出て行かないと」
水木は傷付いたが、離れて暮らすことになった経緯を考えれば、鬼太郎の反応も当然だとも思った。それでも、水木は諦めきれなかった。
「ここには、お前に酷いことを言う人間はいない」
水木は一歩、踏み出した。
「少しの間でいい、ここに居てくれないか? それとも、俺が嫌いか?」
鬼太郎は、首を横に振った。
「そんなわけない」
「……なら、どうして?」
「あなたのことが、好きなんです」
「え?」
水木の瞳は大きく見開かれた。
「……あれは捜査のための演技だったんじゃ?」
鬼太郎は服の胸元をぎゅっと押さえた。
「演技なんかじゃない。あなたが好きなんです!」
鬼太郎はこちらへ戻ってきた。水木の瞳をまっすぐ見て言う。
「生まれた時から、あなたがいて、それが当たり前だった。離れることなんて考えもしなかった。ずっと会いたかった。でも、自分のせいで離れることになったのに、望んではいけないと思ってた」
鬼太郎は深呼吸してから、続けた。
「再びあなたに会ったら、もう気持ちを止められなかった」
「ここが苦しいんだ」と、シャツの上から胸元を押さえた。
こちらをまっすぐに見つめる瞳に、水木は自分まで胸が苦しくなったのだった。
水木の顔には、困惑の表情が浮かんでいた。
(あれは、演技じゃなかっただと……?)
てっきり鬼太郎の迫真の演技のせいだと思っていた。じゃあ、あの時、一瞬だけ感じた胸の高鳴りは……?
水木は、頭を振って、ふと過った考えを打ち消した。
「お前のことは赤ん坊の時から知ってる。だから、その、好きとかそういうのは……」
鬼太郎は水木に近付いた。水木の頭に手を置く。そのまま自分の方へ手の平を移動させると、ちょうど髪の生え際くらいの位置になった。
「ほら、水木さんより背も高い。もう子どもじゃない」
水木は考え込んだ。
ここで断れば、鬼太郎は出て行ってしまう。二度と会えなくなるかもしれない。
それだけは、なんとしても避けたかった。
黙り込む水木を見て、鬼太郎は肩を落とした。踵を返し、そっと立ち去ろうとする。
水木は、その背に声を掛けた。
「分かった」
「え? そんなふうには見られないんじゃ?」
「試しに付き合ってみるっていうのはどうだ? もちろん、お前が嫌なら……」
「嫌じゃないです! ……けど、意味分かってますか?」
鬼太郎は不安そうな顔をしたまま、続けた。
「付き合うってことは、僕とその……キスできます?」
鬼太郎は自分で言いながら想像してしまい、頬を赤らめた。
水木は一瞬ためらった後、応えた。
「も、もちろんさ!」
「じゃあ、キス、しますよ?」
「あぁ」
鬼太郎は水木の両肩に手を置く。ぎゅっと目を瞑った。
鬼太郎はゆっくりと顔を近付けると、唇を重ねた。
(あ、苦い……)
そう意識した瞬間、先程より胸が強く締め付けられた。あまりに苦しくて、鬼太郎はすぐに離れてしまったのだった。
◇ ◇ ◇
9 茶碗風呂に浸かる目玉おやじに、ねこ娘はスマートフォンを見せた。
「鬼太郎が追ってた会社の社長、捕まったみたい」
ニュース動画では、社長の水本が逮捕され、会社にも捜査が入ることを報じていた。匿名の通報があったそうだ。
社長はなにかに怯えている様子で、「勘弁してください」「妖怪と人間が来る……」と、しきりに繰り返しているという。
「事件も解決したことだ、鬼太郎もじき戻ってくるじゃろう」
「良かったわね。じゃあ、わたしそろそろ行くから」
「ねこ娘、世話になったのう」
それからしばらくして、カラスたちの鳴き声が近付いて来た。
「父さん、ただいま戻りました」
「鬼太郎!」
「思ったより時間がかかってしまい、すみませんでした」
鬼太郎は、数日前、家を出た時とは打って変わって、晴れ晴れとした顔付きをしていた。目玉おやじは、息子の様子に安堵した。
「あとで、ねこ娘に礼を言っておくのじゃぞ」
「はい」
「ニュースでもやっておったぞ。多少の手違いはあったようじゃが……無事解決して良かった」
「父さん、そのことなんですが……」
なにやら言いにくそうにしている。頬を染め、父親から目を逸らす。普段の息子らしからぬ仕草だった。
「ん? どうした?」
「僕、水木さんとお付き合いすることになりました!」
「なんじゃとー ……うわぁー!」
目玉おやじが勢い良く立ち上がったため、バランスを失った茶碗がひっくり返りそうになった。鬼太郎が慌てて支える。
目玉おやじは茶碗から出る。自分の小さな手ぬぐいで、飛び散った水滴を拭きながら言った。
「話が急過ぎやせんか。順を追って話してくれ」