輝夜(かぐや)※悲恋を経て二人は結ばれますが、全体的にシリアスで暗めな話です
※鬼太郎は成人していますが、見た目が子どもの姿のまま人間のモブたちから求婚される描写があります。一方的に求婚されているだけで、モブとの恋愛はなし
※最初だけ、昔話風の神視点三人称。途中から水木の一人称視点
◇ ◇ ◇
今は昔、水木という男がいた。
血液銀行に勤めており、以前は大層な野心家で、明け方に帰ることも珍しくなかった。ところが、ある事件に巻き込まれてからは、人が変わったように穏やかな性格になり、母親と二人、ひっそりと暮らしていた。
ある雨の夜、水木は墓穴から赤ん坊が生まれるのを目撃する。手に掛けようとしたが、なにか思うところがあったのか、抱き締めると、そのまま自宅へ連れ帰った。
赤ん坊は鬼太郎と名付けられ、大切に育てられた。しかし、成人すると、ある事情から水木の家を去った。
それから何十年も後、鬼太郎は再び水木の前に姿を現し、彼を連れ去ってしまったのだった。
◇ ◇ ◇
縁側に腰掛けた俺の腕の中で、鬼太郎はすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。ぽかぽかとした陽気が心地良い。
あの日、俺は哭倉村へ向かっていた。そこで記憶は途切れている。
気付いた時には、草むらに倒れているところを、地元の消防隊員に声を掛けられたのだった。
ひと月の休みの後、職場復帰したが、以前のように働くことができなくなっていた。髪の色が抜けてしまった以外、体に問題はなかったにもかかわらず、まるで全身作り変えられたかのように、なにもかもが変わってしまった。煙草は止め、酒は以前ほどは呑まなくなっていた。出世への関心を失い、がむしゃらに働くことができなくなった途端、表向きは「体のため」という理由で閑職に回された。同僚からは憐れみの視線を向けられたが、それすら俺にはどうでも良かった。
母は、ただただ俺の身を案じてくれた。帝国血液銀行で職を得てからというもの、「あんな働き方ではいつか体を壊すのではないか」と、心配だったそうだ。「今の方が、私は心穏やかでいられる」と、しみじみと言われた時は、毎朝玄関で俺を見送りながら、そんなことを考えさせていたのかと申し訳ない気持ちになったし、それでも俺の考えを尊重して口出しはしなかった母の胸中に思い至り、心苦しくなった。そういう人だからこそ、突然息子が赤ん坊を連れ帰っても、なにも言わずに受け入れてくれたのだ。
俺は、鬼太郎の頭を撫でた。
あれから三年。どうりでこの子も大きくなるわけだ。
あの時の記憶は、今でも戻らない。俺が巻き込まれたらしい事件について、いろいろな人に訊かれたり、逆にどこかで耳にした噂話を教えられたりしたが、なにも思い出せなかった。なのに、なぜかそれが大切なものだった気がするのだ。
それに、この子の顔を見ていると、喪くした記憶に思いを馳せる時と同じ、どこか切なく懐かしい気持ちで胸がいっぱいになるのだった。
母のおかげで、鬼太郎はすくすくと成長していた。そろそろ学校のことも考えなくては。
やはり人間の子どもとは違う、と感じる瞬間もある。たまに虫や蛙に話し掛けている。子どもだからと微笑ましく思っていたが、不思議と会話が成立しているように見える。夜中に外へ出ようとしていたこともあった。
理解しがたい言動もあるが、親子ともども、鬼太郎を可愛がっていた。
母は買い物に出掛けたきり、帰って来ない。
また近所の人に捕まってしまったのだろう。そろそろ声でも掛けに行こうと、鬼太郎を抱いたまま立ち上がった。
靴を履いたところで、ちょうど戸が開いた。案の定、といった顔をしていた。
母は鬼太郎の顔を見るなり、ため息をついた。
「今は良いけれど、もう少し大きくなったら、心ない世間の目に晒されると思うと……」
「やはり人間の子どもとは違いますからね」
大人二人がため息をついているというのに、目を覚ました鬼太郎は機嫌良くニコニコと笑っていたので、こちらまで笑みがこぼれるのだった。
◇ ◇ ◇
鬼太郎と出会ってから、二十年が経った。
実際に何歳なのかは分からないが、少なくとも人間基準では成人しているだろう。
小学校には低学年のうちは通っていたが、やはり人間の子どもの集団に交じるのは難しいようで、やがて行かなくなってしまった。無理に合わせる必要もないだろうと、うちに居させ、代わりに母が読み書きそろばんを、母が亡くなってからは俺が人間社会の生活のさまざまなことを教えた。
そうでなくとも、鬼太郎の成長はしだいにゆるやかになって、背丈も伸びなくなってしまったから、通い続けるのは難しかったかもしれない。
俺は帝国血液銀行を辞め、知り合いの会社へ転職した。
もともと担当の一つだったその会社は、決して大きいとは言えないが、以前から会長には目を掛けてもらっている。なにより、男手一つで子育てをしているという、俺の事情にも理解を示してくれる職場だ。
鬼太郎は見た目にそぐわぬ、大人びた雰囲気をまとうようになった。光り輝くような美しさに、はっとさせられるたびに、やはり人の子ではないのだと実感するのだった。
年頃らしく、物思いに耽っていたり、ため息をついたりすることも多くなった。視線を感じて見返せば逸らされる、子ども扱いしては機嫌を損ねる――男同士とはいえ、子育ては難しい。
成人したからって、大人扱いなんかできるわけない。たとえこの先背丈が伸びて、俺を越したとしても。
人間ではないとか、大人だからとか、関係ない。俺にとっては、いくつになっても可愛い存在なのだ。
◇ ◇ ◇
鬼太郎はあまり出歩く方ではなかったが、外出は禁止していなかったし、近所にも存在は隠してはいなかった。
幼い頃、鬼太郎は気味悪がられることが多かった。しかし、大人になると強い関心を抱く者も出てきた。
どちらの感情も理解しがたいものだったが、人から言われてみれば、なるほど、どことなく高貴というか、人間とはまとう空気が違っているようにも感じる。
ついには、求婚する者まで現れた。
人の口に戸は立てられぬ――「人間社会で暮らす妖怪がいる」「幽霊族の生き残りらしい」という噂を聞きつけ、我が家の周りには人が集まるようになった。
彼らが言うには、鬼太郎は「幽霊族」ではないかとのことだ。妖怪の仲間のようなもので、珍しい種族らしい。一部の人間の間では憧れの存在とのことだ。
鬼太郎が姿を現さないので、大抵はしだいに関心を失って来なくなった。一方で、熱心に通い続け、一目で会わせてくれと頼み込んでくる者もいた。
はじめは断っていたが、何度も訪ねてくる。どうしたものかと考えあぐねていると、鬼太郎が会うと言い出した。
大企業の役員、高名な学者、高級官僚――五人の男たちは、どの者も負けず劣らずの、経歴の持ち主だった。
応接間に鬼太郎が現れると、彼らはぱっと席を立ち、「伴侶として大切にする」「不自由はさせない」と、頭を下げた。
「この中から誰かひとりを選ぶまで帰らない」と、意地でも動かなくなった。突然のことに戸惑う俺の隣で、鬼太郎は冷静だった。
男たちひとりひとりに告げた。
仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、日鼠の皮衣、龍の首の玉、燕の子安貝――それを取って来てください、と。
◇ ◇ ◇
男たちが帰った後、鬼太郎に声を掛けた。
「大人なんだ。先のことは自分で決めなさい。彼らのうち気に入る人がいるなら、ついていきなさい」
彼は眉毛を八の字にすると、「そんなつもりじゃ」と、口ごもった。
「気に入らなきゃ断ればいい。お前さえ良ければ、ずっとここにいていいからな」
そう言うと、鬼太郎はほっとしたように微笑んだ。久しぶりに笑っている顔を見られて、俺の心もあたたかくなった。
後日、宝を手に入れたと再訪した者もいたが、すぐに偽物と判明した。
以降、再びこの家を訪れる者はいなかった。風の便りに聞いた話では、みな諦めたらしい。
この家は、静寂を取り戻した。
◇ ◇ ◇
夜中に厠から戻る途中、開いた窓の外から鬼太郎の声がした。
誰かと話してるようだが、内容までは聞こえなかった。
「嫌です!」
鬼太郎にしては珍しく語気を荒げていた。様子を見に行こうと、表へ出た時だった。
「あの人のことが好きなんです! だから行けません」
気配を感じて振り返った鬼太郎と目が合った。すでに立ち去ったのか、相手の姿は見えなかった。
俺に聞かれていたと気付いた鬼太郎は、右目を大きく開いて、顔を赤らめた。
事情が飲み込めぬまま、「鬼太郎」と呼び掛けた。
彼は顔を背けると、月を見上げた。その横顔に、一筋の涙が流れる。
「ここに居たいんです」
「お前が望む限り、いつまでも居ていい」
俺には、鬼太郎を抱き締め、その背をさすってやることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
あんなことがあって寝付けるはずもなく、俺は縁側で酒を呑んでいた。
おそらくこれまでも何度か妖怪の仲間から声を掛けられていたのだろう。
哭倉村へ向かったはずの俺の身になにが起きたのかは、今でも思い出せない。墓場で鬼太郎を見つけた夜、化け物の子だと知っていながら、なぜ育てようと思ったのかも。のちの人生を変えてしまうほどの出来事を、俺は思い出せずにいる。
大事なものを、これ以上失いたくない。あの子に居てほしいのは、俺も同じだ。我がままだと分かっている。
鬼太郎が俺に向ける感情が、昔とは変わっているのには気付いていた。
父親のいない子だし、身近な大人の男として憧れているのだろう。気持ちには応えられないが、憧れられて悪い気はしない。彼の目に俺はどんな風に映っているのだろうか。頼りになる大人の姿であるだろうか。
結局、お互いあの話は聞かなかったものとして、その後も普段通り過ごすことになった。
◇ ◇ ◇
取引先の大手製薬会社との宴席で、先方の社長は、素早く周囲を見回すと、耳打ちしてきた。
「幽霊族」という単語が出た瞬間、全身の血がサーッと引いていくのを感じた。
龍賀の後に台頭してきた製薬会社だ、無碍にはできない。それに事を荒立てれば、かえって鬼太郎に迷惑がかかるだろう。
その場はのらりくらりと躱したものの、それだけで済むとは俺も思っていなかった。
翌朝、出社した途端に、会長に呼び出された。
俺が昨夜の宴席で失礼を働き、向こうの社長は大変ご立腹である。だが、先方は寛容にも、俺の態度次第では、考え直すと言っている――そういう話だった。
やられた! 思わず顔をしかめた。会長の前でなければ、舌打ちもしていただろう。
うちを訪れた者たちから噂が広まり、最近は静かだったのだが。正攻法では無理となると、当然こういう手に出る者もいるわけだ。
◇ ◇ ◇
「会いましょう」
「いや、駄目だ」
俺は爪が食い込むほど、拳を握り締めた。
だから帰りたくなかったのだ。賢くて優しいこの子のことだ。なにがあったかくらい勘付くし、きっとこう言うと思ったから。
鬼太郎に、こんな話は聞かせたくなかった。
今朝、会長からあの話を聞かされてからというもの、どうしても家には帰れなかった。飲み屋で潰れていたところを見つかってしまったのだ。
机の上に倒れた何本もの空き瓶と、灰皿から溢れた吸い殻を、鬼太郎は悲しそうな目で見ていた。
なにがあったのか話してほしい、黙っていられる方が心配だと言われ、一部始終を話すことにしたのだ。
話を聞くと鬼太郎は、心配そうにこちらを伺っていた。
「なぁに。会社なんて、辞めちまえばいい」
せいいっぱい明るい声を出したつもりだったが、かえって空々しく響いた。
「辞めても、また同じような輩は現れるでしょう」
「その時はその時で、なんとかするさ」
「あなたに迷惑は掛けられない」
「だからって……」
なにを言っても、鬼太郎に言い返されてしまう。
意に染まぬことをさせたくない。なにより俺が鬼太郎と離れたくないんだ。
この年になって、仕事でも私生活でも、大抵のことは経験し、何かに困るということはなくなってきた。なのに、大切な人ひとりさえ守ることができない。
次の休みの日、家にいたところを、知ってか知らでか社長は訪ねてきた。
玄関で押し問答していると、背後から「水木さん」と声がした。
「出てくるなって、言っただろう」
「ほぅ。この子が、例の」
社長は鬼太郎を頭のてっぺんから爪先まで、舐めるように見た後、頷いた。値踏みするような視線に、悪寒がした。
「積もる話もあるだろう。一晩だけやる」
社長はそれだけ告げた。
「そんな勝手な……!」
掴みかかろうとしたところ、鬼太郎が割って入る。
鬼太郎は自分の顎に手を当て、なにか考え込んでいるようだ。しばらくしてから、
「三日後。それが条件だ」
と、社長に告げた。
「わかった。では、明々後日の夜、迎えに来る」
社長はそう言うと、手荒に戸を閉めて出ていった。
俺には二人の会話の意味を、理解することができなかった。
自動車のエンジン音がして、やっと状況を飲み込めた。
なにも言えずにいる俺に、鬼太郎は笑い掛けた。
「心配しないでください。うまくやりますから」
◇ ◇ ◇
鬼太郎の希望で、残りの日々は、特別なことはせず、普段通り過ごすことになった。
時間はあっという間に過ぎていった。
珍しく晩酌に鬼太郎は付き合ってくれた。
「明日だな」
気まずくなるだけだと分かってても、言わずにはいられなかった。
「いつも通り過ごしたいと言いましたが……」
鬼太郎は、大きな皺が寄るほど、シャツの胸元を握り締めていた。
「水木さん、ひとつだけ我がままを聞いてもらえませんか?」
上目遣いに俺の唇を見つめてくる。
「その、もしあなたが嫌だというなら……」
「いいぜ」
俺は、鬼太郎が言い終わるより早く、返事をした。この子の最後の願いくらい、叶えてやれなくてどうする。
鬼太郎の瞳は熱を帯びて潤んでいる。見ているこちらの体温まで上がってくる。
――あぁ、まだ酔いが残っているみたいだ
今日まで我が子のように暮らしてきた。そして明日、この子はこの家を出て行ってしまう。
「さぁ」
まだ決心がつかずにいる鬼太郎に、声を掛けた。
鬼太郎は深呼吸してから、俺の腰を引き寄せた。
彼の両腕は俺の腰を離れ、ゆっくりと上がってくる。肩、首、そして頬へと。鬼太郎の顔が近付いてきた。こんなに間近で見るのは、いつぶりだろうか。
生まれて初めての口付けは、頭の奥がびりびりと痺れるようだった。
鬼太郎は顔を離すと、こちらをなんとも言えない表情で見つめてきた。寂しそうで、愛おしそうで――生まれた時から知っているのに、二十年もひとつ屋根の下で暮らしてきたのに、見たことのない大人びた表情に、胸が切なくなった。
こちらの視線に気付いて、鬼太郎は顔を背けてしまった。
――ひとつ、分かったことがある
「鬼太郎」と、呼び掛けた。
「俺と逃げてくれ」
彼の前髪をさらりと撫で、隠れてしまった右目を出して見つめた。
「お前を誰にも渡したくないんだ」
鬼太郎の肩を引き寄せると、今度は自分から口付けた。
――自分の心ほど、思い通りにならないものはない。俺は、この子をどうしようもなく愛している
それから大急ぎで荷物をまとめた。
仮眠を取って、約束の刻限より少し前に、家を出ようということになった。すぐに出て行かなかったのは、「あまりに早くに家を空けると、怪しまれるかもしれない」と、鬼太郎が言ったからだ。
◇ ◇ ◇
胸騒ぎがして、真夜中に目が覚めた。
隣に鬼太郎の姿がなかった。同じ布団に入り、俺の腕の中で眠っていたはずなのに。厠に行ったか、台所で水でも飲んでいるのか……その可能性だって充分あるはずなのに、どうしてもそうは思えなかった。
なぜか鬼太郎は外にいるという確信があり、靴をつっかけてよろめきながら、表へ出た。
満月だったから、周囲が見渡せた。
近くにある古寺の方から囁き声がする。そっと近付く。
鬼太郎は、奇妙な言葉を話していた。日本語ではない。外国語は詳しくないが、おそらく人間のものではない言語だろう。なのに、なにを話しているのか、俺は分かってしまった。
鬼太郎はとっくに俺の気配に気付いているだろうに、こちらを見ようともしなかった。
会話の相手が立ち去った気配を感じてから、俺は鬼太郎に近付き、その背に声を掛けた。
「はじめからそのつもりだったのか」
「すぐに迎えが来ます」
鬼太郎は振り返らずに、静かに告げた。
俺は唇を噛み締めた。とにかく腹立たしかった。無力な自分が。
「僕が人の世にある限り、きっとまた揉め事の種になってしまうでしょう」
振り返って俺の顔を見て、寂しげに微笑んだ。
「鬼太郎、お前を見つけた時から、いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていたよ」
俺は彼に縋り付いて、みっともなく涙を流すことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
顔に光が差す。まだ夜が明けるような時間じゃないはずと、視線を上げた俺は、息を呑んだ。
「月が……」
光がどんどん強くなっているのだ。いくら満月でも、あり得ない。まるで昼間のように、辺りは明るく照らされている。
「僕らの力は、月と呼応しているんです」
鬼太郎の視線は、俺の背後へ移動した。振り返ると、少し離れたところに、たくさんの異形のものたちがいた。思わず体が強張ってしまう。
そのうちの一体の肩から、なにかがぴょんっと飛び降りた。小さな塊がこちらへ近付いてくる。
それは、目玉に手足がついた姿をしていた。
俺はとっさに自分の背中で、鬼太郎を隠すように立った。俺の手の平より小さい。こちらになにかできるわけでもないだろうに、背筋がぞくりとした。
目玉は俺の前に来ると、こちらを見上げて、言った。
「倅が世話になった」
どこから声を発しているのか、流暢な日本語だった。声から敵意は感じられず、ひとまずは警戒を解くことにした。
「倅? あんた、まさか……あの時の」
昔、どうしても寝付けない夜があった。人魂に導かれて、古寺を訪ねると、不気味な女性に出迎えられ、大男に追いかけられたのだった。俺はこの辺りを必死に走って逃げたのだった。光景が脳裏に蘇り、思わず顔が引きつった。
再び訪れた時、男の体は崩れていて、埋めてやることはできなかった。死んだと思ったが、目玉だけの姿になって生き延びていたのか……!
なにはともあれ、鬼太郎の父親が存命だったのだ。目頭が熱くなった。
そんなことを考えている間、目玉はなぜか俺の顔をじっと見ていた。
「……いかにも」
少し間を置いてから、そう言った。
「わしはその子の父親じゃ。『目玉おやじ』という」
「目玉おやじ……」
「『ゲゲ郎』、と勝手に呼んだ阿呆もおったがのぅ」
声に寂しげな色が混じる。そいつは、どこか遠くにでも行ってしまったんだろうか。
◇ ◇ ◇
「ついにお前にこれを渡す時が来た」
目玉おやじが振り返ると、着物姿の老婆が歩み出てきた。布のようなものを持っている。それは丁寧に畳まれた、黄色と黒のちゃんちゃんこだった。初めて見るはずなのに、不思議と懐かしさを感じた。
老婆は孫にでも話し掛けるような調子で言った。
「これまで少なくない数の同胞が人間社会での生活に憧れ、そして夢破れていった。さぁ、これを着て、幽霊族として生きるのじゃ。辛かったことは、忘れてしまいなさい」
ちゃんちゃんこを鬼太郎に差し出した。その時だった。
「!」
自分の目を疑った。ちゃんちゃんこは、意思でもあるかのように飛んでいき、鬼太郎の体を包んだ。
「ご先祖様の霊毛で編んだ、ちゃんちゃんこだ」
目玉おやじは、息子の姿を見上げて、声を震わせた。
鬼太郎は俯いていて、ここからは表情は見えなかった。
俺は鬼太郎に近付いて、声を掛けた。
「行くんだな」
「世の理には逆らえない。あなたと僕は、もとより違う世界の住人、一緒にはいられません」
顔を上げた鬼太郎の表情と声は、随分と他人行儀なものだった。
淡々とした響きに寂しさを感じた。でも、これで良かったのだ。父親や、妖怪の仲間と暮らすと、鬼太郎自身が決めたのだから。
「守ってやれなくて、悪かった」
鬼太郎は姿勢を正すと、
「これまで育てていただいて、ありがとうございました。お世話になりました」
と、頭を下げた。
「元気でな!」
鬼太郎は俺の横を通り過ぎ、仲間のもとへと歩き出した。
しかし、あと数歩というところで、突然くるりと向きを変えると、早足で戻ってきた。
鬼太郎は俺の服の端を掴んだ。
「あなたといたかった!」
「どうして今そんなことを言うんだ」と、問いたかった。
「『俺と逃げてくれ』って言ってくれて、嬉しかった」
鬼太郎はこちらをまっすぐ見上げて続けた。
「昨夜の思い出を胸に、生きていきます」
とうとう鬼太郎の瞳から涙がこぼれ落ちた。
駄目だった。快く送り出してやろうと思っていたのに。ぎゅっと胸が締め付けられる。
「嫌だ! 行かないでくれ」
気付けば、口から勝手に言葉が出ていた。鬼太郎に駆け寄って、その手を取って懇願していた。
「俺も連れて行ってくれ! お前と離れて生きてたって意味がない」
しかし、鬼太郎からの返事はなかった。寂しげに笑っていた。
俺は自分から手を離した。
そのまま二人でしばらく、ただ月を見上げていた。
妖怪たちが騒ぎ出した。こちらへ向かって来る人間の気配があるという。おそらく社長だろう。
俺達は、最後に抱き合った。
「いつか、きっと……きっと、あなたを迎えに来ます!」
「必ず来い。いつまでも待つ!」
◇ ◇ ◇
鬼太郎は父親の前で屈むと、水をすくうように両手の小指同士をくっつけて、差し出した。目玉おやじはそこから鬼太郎の体を伝って頭まで昇り、髪の毛の中に入った。
妖怪たちの群れが左右に分かれると、宙に浮いたブランコのようなものが、奥に現れた。浮いているのは、何羽かの烏に引っ張らせているからのようだ。
鬼太郎がそれに腰掛けると、烏たちはひと鳴きした後、勢い良く羽ばたいた。
鬼太郎の体はどんどん小さくなっていく。飛べる者は自力で、そうでない者は同様に烏の力を借りて、あとに続く。
煌々と照らす月明かりのもと、鬼太郎の姿が米粒ほどになって、やがて見えなくなるまで、ずっと見上げていた。
たらり、と鼻血が垂れた。
◇ ◇ ◇
タイヤを擦り減らしながら、一台の自動車がこちらへ近付いてくる。電柱にぶつかりそうになるのもお構いなしの猛スピードで。
バン、と乱暴にドアを閉める音をさせ、現れたのは社長だった。
「これはどういうことだね、君!」
夜空を指差していた。
社長が言うには、月の異常な明るさは、日本中で騒ぎになっているらしい。こちらへ向かう道中だったが、嫌な予感がして、飛ばして来たそうだ。それに、近くに来てみれば、おびただしい数の異形と烏が、ここから飛び去っていくではないか。
「幽霊族はどうした? さっきから姿が見えないぞ!」
社長に胸倉を掴まれた。
ハハハ、と笑い声が漏れた。
「あいつは行っちまいましたよ」
鼻血を垂らしたまま笑う男が、よっぽど気味悪かったのだろう。社長はすぐに手を離すと、去ってしまった。
◇ ◇ ◇
夜中に咳が止まらず、目が覚めた。寝床から起き上がる。
枕元の水差しを持ち上げる。水を一口飲み、ため息をついた。
水面に揺れる己の姿は、どうみても老いぼれだ。
最近はこういうことが増えた。もう長くはないのかもしれない。
鬼太郎が出て行ったあの晩から、随分長い時が流れた。
かつては年齢より若く見られがちだったが、あの一件以来、周囲が驚くほど老け込んだ。色を失った髪にふさわしい顔になった。
例の製薬会社の社長もすっかり意気消沈し、宴席の件はうやむやとなった。俺はそのまま定年まで勤め上げた。働くことは性に合っていたが、心にぽっかりと開いた穴は塞がりようがなかった。
今夜は明るいな。窓から差し込む光のもとを辿る。満月だった。
足腰が弱る前は、こういう夜は外で一晩中、月を見上げたものだ。「あの子も、同じ月を見上げているだろうか」と、思いながら。どこにいるかは知らないが、月だけはきっと見えるだろうから。
まるであの日のような、明るさだ。
ふと、枕元に気配を感じた。どこかから風でも入ったのだろうか。いや、戸締りは確認したはずだから気のせいだろう。手探りで眼鏡を探し当て、かける。
「僕も満月の夜は、いつも月を見上げていました」
懐かしい声がした。ずっと焦がれていた声だった。
顔を向けると、記憶と変わらぬ鬼太郎の姿があった。
「迎えに来ましたよ」
鬼太郎は屈むと、こちらへ手を差し出した。その手を取りたいのに、体はなかなか言うことを聞かない。
「ごめんなさい。あなたが人間の理を外れるまで待たなければいけなかったんです」
鬼太郎はまるで自分がどこか痛めているかのような、苦しげな表情を浮かべた。言いづらそうな様子で察した。俺はもう充分生きた。
「ずっと待っていた。また会えると信じていた」
鬼太郎の瞳が潤んだ。彼は手の甲で顔を拭った。
「今でも気持ちは変わりませんか?」
俺はしっかりと頷いた。
「あぁ、もちろんさ」
鬼太郎はこちらに覆いかぶさるような姿勢を取ると、ひょいと俺の体を抱きかかえてしまった。玄関で俺の靴を丁寧に拾い上げると、そのまま表へ出る。
眩いばかりの光が、辺りを照らしていた。
鬼太郎は俺の履物を地面に置いた。ゆっくりと俺を降ろそうとする。
俺は内心慌てていた。急に降ろされても困る。今では体を起こすのも一苦労だ。昔とは違う。それほどの年月だった。
支えがなければよろけてしまうだろう、そう思っていたのに……。
「!」
俺は両足でしっかりと地面を踏み締めていた。
曲がっていた腰は伸び、気付けば咳も出なくなっていた。やけに目の奥が痛い。眼鏡も、もう必要ないようだ。外してポケットにしまう。
驚く俺に、鬼太郎は手を差し出した。月明かりで照らされた表情は柔らかかった。
その手を取った。
――今度こそ、この手を離さない
鬼太郎は優しく俺の腰を引き寄せた。そのまま抱き合った。
月明かりが、ひときわ強くなった。まるで真昼のようだ。
そのまま月光のスポットライトのもと、ダンスでも踊るように、二人の体は回った。
くるくると回るたびに、俺の容姿は変化していった。皺は消え、肌は潤いを取り戻した。深く息を吸えるようになっていた。周囲の音もよく聴こえる。
鬼太郎と長く暮らしていた俺だ。ちょっとやそっとのことでは驚かない。奇術でも見せられた子どものように、俺はただ笑っていた。
昔見た、烏の乗り物がこちらへ向かって来る。鬼太郎に導かれて腰掛けた。
ゆっくりと高度を上げながら、移動しはじめた。
下の方が騒がしい。ここの光が最も強いと気付いた者たちが、様子を見に来たらしい。
こちらを指差しながら、なにか叫んでいる者。
我が家の戸を叩いて反応がないとみると、窓から覗き込む者。
こちらと我が家の寝室の辺りを交互に指差すもの。
すべてがまるで銀幕の向こうの出来事に思えた。
二人とも視線を戻すと、顔を見合わせた。それから、笑い合った。
喧騒など、些細なことに思えた。
俺達はいつまでも幸せに暮らすのだから。