ひとは愛を食べて育つ ひなたの水はすこしぬるい。
日にさらされたせいかどこか古ぼけていて、布越しの肌にゆったりとまとわりつく。
奏汰は池のなかにいる。
学院の中庭にある池だった。円形の水盤のまんなかには噴水があって、細かな飛沫がきらきらと青空を染めていく。
石造りの池の縁に頭をもたせかけ、ぼんやりと奏汰はそのさまを眺める。
耳元でちゃぷちゃぷと水が揺れる。噴水の音が地鳴りのようにそれに重なる。
夏も間近い時分、陽射しがじりじりと髪や首筋を灼く。このままだとひからびてしまいそうだったから、水のなかに顔の半分くらいまでをつけてみる。
みどろの匂いが鼻先をかすめた。
ひとの手によって整えられた水は、懐っこいわりにどこか肌には馴染まない。すくいあげてみても薄紙一枚隔てたように皮膚のうえを滑っていくばかりで、へんな感じだなあと奏汰はおもう。海の水ならもっとしっくりくるのにと、ぱしゃぱしゃと水面をたたいて感触を確かめていると、池のそばを通りがかった生徒がびくりとしてあとずさった。
見知った顔ではなかったけれど、まったくの愛想なしというのも「あいどる」としてはよろしくないかと水のなかから手を振ってみる。相手は硬直し、やがて返事もそこそこに駆け去っていってしまった。
陸の作法はどうにもよくわからない。
むずかしいですねえ、と奏汰はちいさく息をつく。
石造りの縁のおもては陽にさらされて白い。乾いてざらざらとした、そのうえに水滴がいくつか染みをつけている。うつ伏せになり、そこに頭を乗せてみた。そのままでは角がこめかみにあたって痛かったから、自分の腕を枕にする。濡れたジャケットの生地がひんやりとして気持ちよかった。
円形の水盤に沿って座面が設られている。
目をやれば、すぐそこに千秋の背中があった。まだ朝晩は冷えこむこともあるというのに、早々とひとり半袖に衣替えをしている。
噴水の座面に腰かけ、千秋はなにやら熱心に読みふけっていた。銀色の表紙でずいぶんと分厚い。どれどれと手元をのぞきこめば、超戦隊百科という文字が読みとれた。
ヒーローとやらにはやはり興味がないのだけれども、千秋がページをめくっているところは楽しそうだなと思う。
どれほど読み返されたものか、本は手ずれがしてところどころに補修の跡もある。裏表紙には子どもらしいのびのびとした字でもりさわちあきと記されていた。
千秋がページをめくるたび、色とりどりのヒーローたちがあらわれる。それぞれの違いはよくわからないけれど、やっぱり千秋には赤が似合うなと、そんなことをぼんやりと考えた。
陽射しがじりじりと肌を炙ってゆく。草いきれにも似た気配がふと鼻先をかすめた。
あっという声がどこかでした。
見れば、渡り廊下のあたりからこどもが三人駆けてくるところだった。ちいさいのがふたり、それからすこし遅れて背ばかりひょろりと伸びたのが揃ってこちらにやってくる。
「先輩方、お疲れさまっス!」
「隊長ー、深海先輩ー、お疲れさまでござるよー」
「……なんで体育会系のひとたちって先輩を見つけたら絶対挨拶しにいくんだろう、スルーでいいのに……気づかなかったってことでいいのに……」
鉄虎も忍も、ぶつぶつと言いながらそれでも律儀についてくる翠も、全員がジャージ姿だった。次は合同体育でバスケでござるよーと聞かれもしないのに報告してくる忍の頭を、そうかそうかと千秋がなでる。
「深海先輩こんにちはっス」
「はい、こんにちはー」
水のなかにいるこちらにまで鉄虎はきちんと挨拶しにくる。ちょっとまえまではぼくがここにいたらびっくりしてかたまっちゃってたのにねえ、と奏汰はこっそり感心する。鉄虎はまだこどもだけれど存外に懐が広い。咀嚼には少々時間がかかるものの、いったん呑みこんでしまえばそっくりそのまますべてを受け容れるだけの度量がある。
何でもかんでも自分の荷物ときめこんで丸抱えにしたうえに空元気で乗り切ろうとするだれかさんより立派かもしれませんねと、そう思ったことは口にしないでおく。
忍が本に興味をしめしたことに気をよくしたか、ここぞとばかりに千秋が戦隊ものの解説をはじめる。またはじまった、と鉄虎が苦笑しながらもその輪に加わる。
平和なものだと、奏汰は水のなかからその光景を眺める。
と、なにやら視線を感じた。
見やるそのさき、翠は一瞬戸惑ったようにし、それからううんと顔をしかめた。美青年美少年がひしめくあたりにあってなおスーパー美形だの絶世の男前だのと称賛されるおもだち、それが百面相をするさまはなかなかに見ものだなあと奏汰はおもう。
「……あの、ええと」
やがて意を決したらしい、翠はゆっくりと口を開く。千秋のヒーロー談義になかば辟易していた風の一年生2人が、翠くん? と揃って首を傾げた。
「深海先輩がそうやってるの、春は寒いんじゃないかって思ってたんですけど」
はあ、と相槌を打てば、翠はすこし困ったように眉をさげる。言葉を選びながら、うーんと首を捻りながらも、ぽつぽつと先を続けていく。
「いまちょっとうらやましいなって思って、なんかその、俺もやってみたいなって、ちょっとだけですけど。だって暑いし。実際やったらすごいめだつのいままさに実証されてるしだからやらないですけどなんていうか概念? みたいに、……ちょっとうらやましいなって」
「翠くんの言うことわかる気はするっス。やるかって言われたらやらないけど」
「拙者もわかるでござるよー。やらないけど」
揃いもそろってまじめなのか失礼なのかわからないことを言う。みずあびはきもちいいですよーというこちらの言葉を聞いているのかいないのか、翠は空に向かっててのひらをかざした。まだ高校一年生というのにバスケットボールをひとつかみにできるくらい大きな手が、陽のなかで白く染まった。
ここ、と翠は言って、かかげた手の、指のつけ根あたりをもう片方の手でさししめす。
「子どものころに読んだいきもの図鑑で、ここのところに薄い皮膚がちょっとあるの、それって大昔に人間の先祖が水からあがってきたときの名残で、水かきなんだって書いてあって」
だから、と翠はすこし言葉をあぐねるようにする。ううんと唸りながらも、伝えることを放棄はしない。
「俺の手にだって、たぶん仙石くんや南雲くんにだってそういうのが残ってるっていうなら、深海先輩がしょっちゅう水浴びするのだって、ひとよりちょっと多めに水が必要だっていうのもそれはそれで、俺がまわりのひとよりちょっと、……ちょっと! 背が高いのとかそういうのといっしょでただの生物としてのバリエーションみたいなもんなのかなっておもって、それでだからええと、それって、それなら、深海先輩って全然奇人とかじゃないんじゃないかなって、いや先輩が奇人っていうの気に入ってるならそれはそれでいいんですけど、なんかええと、深海先輩が水浴びしてるのってそれはそれでまあまあふつうのことなのかなあって、なんか最近そういうことちょっと思ってるんですけどっていう」
ばしゃりと耳元で水が鳴る。自分がずいぶんとびっくりしているのだということに、それで気がついた。
噴水のなか半身を起こしたこちらをどう見てか、鉄虎がううんと唸って腕組みをする。
「言われてみりゃあそのとおりっスよね。夏の暑い日に水浴びしたくなるのもわかるし、皮膚がひからびるから水が必要ってのも、俺が部活で鍛錬しまくったときに酸素足りなくてゼエゼエなるときの感じと一緒みたいなもんスかね」
「拙者は常づね羨ましいでござるよー、深海殿にはぜひ水遁の術をご教授いただきたいでござる」
「水遁の術」
「水遁の術……あー、そういえばむかし図書館で借りた忍者図鑑に載ってた、ストローみたいな竹筒咥えて水のなかに潜るやつ」
「! 翠くんもしや忍者に興味が」
「いやごめん特には」
「ちぇー。いやキャラかぶりされては翠くんのほうがきっと女子人気は高いでござるによって拙者存亡の秋を迎えてしまうやもしれず、とすれば翠くんが忍者に興味を持たないほうが拙者としては得策かと」
「……ねえ、まえまえから疑問なんだけど仙石くんなんでいっつも俺に対する評価そんなに高いの?」
「ずっと水に浸かってて苦にならないっていうのは水遁の術? 的にはいいのかもっスねえ。俺ならすぐあがりたくなっちゃいそうスよ」
「ねー。拙者もきっとふやけちゃうでござる。やはり深海先輩に水浴びの極意を学ばねば」
「『ねば』なんだ……」
三人の会話を遮るように、そのとき鐘の音がした。
「あっやばい予鈴」
「遅刻したら校庭十周でござるよ」
「失礼するっス!」
挨拶もそこそこに、子どもたちは賑やかに駆けていく。日々の鍛錬のたまものか、みっつの背中はあっというまに校舎の陰に見えなくなった。
「はっはっは、あいつらおもしろいなあ?」
授業の時間がせまっているのは自分もおなじだろうに、呑気に座ったままで千秋が言う。まあぼくもひとのことはいえませんけど、と奏汰はふたたび腕枕に顔を乗せる。
渡り廊下を何人かの生徒が駆けてゆく。噴水のぐるりをとりかこむ校舎、窓を開けはなっているらしい、ひとびとの声がまるで身近にあるように届く。
「はっはっは」
さきほどの千秋の笑い声をこっそり口真似してみる。闊達なその響きはやはりどうにも自分にはしっくりこないから、途中で水にもぐって泡のなかにまぎらせた。
物語の登場人物ならさておき生身の人間にはどうしたって持ち重りのするその振る舞いを、千秋はどれくらいの時間をかけて自分のものにしたのだろう、そんなことをすこし考えた。
戦隊ものには興味もない。けれど何回も繰り返し上映会とやらに付き合わされたから、基本の筋立てや各人の役割くらいはわかるようになった。
正義の証の赤を纏う、千秋はいつだって何もかも豪快に笑い飛ばすことでものごとの締めくくりまで自分で引き受けてしまう。
まったくこまったものですねえとため息をついてみてから、ふと奏汰は気づく。
子どもたちの去っていったあとを見つめる、千秋の目はいつもよりずっと穏やかだった。
風が吹く。
校舎に添い生えた若木のいきれと陽射しのぬくもり、ぬるんだ水の匂いが入りまじってひとつになる。
奏汰はふたたび水に潜る。
ぱしゃんと高い、どこかピアノにも似た音がして視界が滲んだ。
耳の底がしんとする。水が肌を滑って、それからゆっくりとまとわりついてくる。
石造りの水盤は触れればざらざらとする。底の辺りまで沈みこめば、こちらの動きにつられてか小石がいくつか転がってゆく。
仰ぎみれば水の幕のうえに陽が射している。
雲間が切れたのか、光がふいと強くなった。水の底まで白く染まって、奏汰はゆっくりと目を閉じる。
ふと千秋の手元にある古びた本のことをおもった。赤子は羊水のなかで育つから、はたから見れば千秋も自分もそう変わりはないのだろうなと、そんなこともついでのように考えてすこし笑った。
それからその上に、走ってゆく子どもたちの背中を重ねてみる。
たどたどしくも思いを伝えようとしていた翠と、屈託ない忍と、いつでも律儀に前を向く鉄虎。
ふふと笑った、声はやはりあぶくにまぎれて消えてしまう。
幼いころの夢をいしずえにしているだけなのなら自分たちはきっと子どもたちにはかなわない。けしてそうではないつもりだけれども、そうであっても別に悪くはないのだろうなと、まとまりのつかないことを考える。
自分より先に進む者に未来を託す、かつて千秋はそう言った。
正義のヒーローはいつだってまっすぐで正しい。
ねえちあき、そう呼びかけた。
水中の声は陸にはけして届かないから、安心して奏汰はさきを続ける。
「ぼくたちは、しあわせものになれましたね」
水の底から見あげる空は、ぼんやりとして明るかった。