あたみのじけん「月島コーチ、僕と熱海の宿で一夜をともにしていただけませんか」
いきなり耳に飛びこんできた声に、壬生は手にしたカメラをとり落としかけた。
おわ、とすんでのところでストラップをひっつかみ、どうにかこうにか高額備品と地面との衝突は免れる。ふうと深い息をつきつつ、さていったい何ごとかとあらためて声のした方角へと目を向けた。
秋も間近い時分、ユースの練習場はこどもたちの活気で賑わっている。AチームとBチーム、それぞれに切磋琢磨ししのぎを削り合う、その様は清々しくまさに青春と呼ぶにふさわしい。トップチームのむくつけき選手たちの撮影を終えたあとではいっそうに、青少年の爽やかさは目に眩しかった。
練習場の片隅、AB両チームともに見渡せる位置に陣取って、壬生はカメラを構えているところだった。トップチームとクラブユース、それぞれの練習風景をおさめS N Sにあげるのがちかごろ壬生の日課となっている。練習の光景や日常のちょっとしたひとコマなど、ものめずらしいのかサポーターの反応は上々だったから仕事のモチベーションもそこそこ高い。
ピッチのそばでは福田と伊達が額をつき合わせてなにやら相談をしている。伊達の手元には一冊のノートがあって、話しこむその横顔はどちらも真剣そのものだった。弁禅はといえばゴール近くで仁王立ちとなり、秋山と二階堂にあれやこれやと指示を飛ばしている。胴間声がにぎやかなあたりにあってなお響き渡る。
そうしてさきほどの声はというと、練習場を囲むフェンスのあたりから聞こえてきていた。
ぐるりとこうべをめぐらせたさき、そこには志村が立っていた。給水をしていたらしい、その足元には水筒が転がっている。そうしていまその両手は月島の手をかたく握りしめていた。
目にしたものが信じられず、壬生はその場に硬直した。世代最強と謳われ、来春にはトップチーム昇格も決まっているエスペリオンユースの至宝がいま、ひとけのない練習場の隅で熱烈なまなざしとともにコーチの手をとっている。
「熱海の宿? 一夜をともに?」
熱海って何だ、熱海といえば昭和の新婚旅行の定番だ、志村は十代だがなんでだか昭和の文学とかそういうのが好きだ、え、一夜? 新婚旅行? プロポーズ? 混乱しきりの頭のなかでは次第に現実と妄想がごちゃまぜになり、どんどんと話が広がっていく。そうした壬生のことなど知らぬげに、月島は教え子の情熱的な求愛にえーとと小首をかしげてみせた。
「熱海ってちょっと遠くないかな」
いや熱海は近いだろ、新幹線で二時間もかからないだろ、いまどき新婚旅行って言ったらハワイとかグアムとかそんなのが定番だろ、てかそもそも断れよ、旅行にいくこと自体は断らないのか、え、新婚旅行? ほんとに? なに付き合ってんのこのふたり? 志村未成年じゃない? あれアイツ誕生日いつだっけ? 法律は? 条例か? コーチがユース選手に手を出した場合うちのクラブどうなんの? 俺の安定雇用は? となおも壬生がぐるぐるとひとり妄想と心配と自己保身とをもてあましているのをよそに、ふたりの会話はいたってのんびりとつづいていく。
「たしかに熱海はすこし遠いですね。ですが僕はどうしても月島コーチと熱海に行きたい」
「ハハハ、熱心だなあ。まあ、いつかね」
にっこりと笑って月島は志村から離れていく。それに追いすがるように志村はせかせかと足早につきしたがった。
「コーチ、僕は諦めませんよ。必ずあなたを熱海につれていきます」
「そうだね、熱海は魚が美味しそうだし、日帰りならいけるかな」
「いいえ、僕はぜひとも布団を敷きっぱなしにしてやりたい。すくなくとも一泊は譲れません」
「熱心だね」
練習場に戻っていくふたりの姿を壬生は茫然としながら見送った。
は? 熱海? 一夜? 布団敷きっぱなし? なにすんの? いやちょっと待ってどんだけすんの? え、嘘だろ、すんの? と三十をすぎて職場で使うには少々ラフにすぎる言葉を口にしかけたところで、そのときかたわらにひとが立っていることに壬生は気づいた。
見やるそのさき、折しも休憩にきたところだったらしい、大友は給水用の水筒を手にしたままその場に固まっていた。さらにその背後には冨樫がおり、こちらもまた微動だにせず月島と志村の背を凝視していた。
三十路を越えてずいぶん経つ身でさえ受けとめるにはなかなかにヘビーな光景、いたいけな十代にはさすがに刺激が強かっただろうと壬生は少々気の毒になる。あの言葉の意味がわかるとは最近の子はませてんなあと現実逃避がてらに考えつつ、壬生はふたりの肩をぽんと叩いた。
「……あんまりぼんやりしてると練習サボりと思われるぞ?」
「あ、え、ハイ!!」
冨樫も大友も弾かれたように、水筒を放りだしてピッチに駆け込んでいく。その背を見送り、壬生はあらためてカメラを構える。
不祥事発覚したらどうしよう、と、痛む胃をおさえつつ、とりあえずのこと目の前の仕事に取り組むことにした。
監督室は静かだった。
失礼しまーすとひと声かけつつ入室して、あれ、と壬生はあたりを見まわした。
「福田さんは?」
「昼を買いにいきましたよ」
部屋の隅、ずらりと並んだPCの一台のまえに堀田がひとり座っている。選手たちのデータを入力しているらしい、カルテらしい紙の束が手元に置かれていた。
「飯どきならいるかと思ったら逆だったな」
がりがりと頭を掻く壬生に、お急ぎですかと堀田が尋ねてくる。カルテを追加するらしい、立ちあがり、壬生のそばにあるキャビネットから紙の束をもうひとつとりだした。
「いや、ちょっと月島コーチのこと相談しようと思って」
ぼそりと呟いた、その言葉に堀田が眉をひそめる。
「月島コーチがどうかしたんですか」
気遣うようなそぶりは職業柄か、いやいやと壬生はかぶりをふる。
「体調とかじゃなくてさ。さっき聞いちゃったんだよね、志村が月島コーチに熱海で一泊しようって誘ってるの。しかも布団敷きっぱなしでやりたいとかなんとか、ちょっとそういう発言はさすがに風紀上よろしくないというか」
「……は?」
堀田の手元からばさばさと紙の束が落ちる。よほど驚いたらしい、あたりが散らかるのもけれど気づかないように、ふだん冷静で知られるトレーナーはそのままの姿勢で硬直している。そらそうなるよなあと壬生はおおきくうなずき同意を表明した。
「いや、わかる、わかるよ、びっくりするよな。まあいまの時代どういう相手を選ぶかはひとそれぞれっていうか、まあ外野がとやかく言うもんでもないんだろうけど、志村はなー、ときどき俺より年上なんじゃないかって思うときあるけどあれでもまだ十代だしへたしたらまだ未成年だし、これからトップにあがろうって時期にそういう話はちょっとっていうか、いや月島コーチも大人なんだからわかってるだろうけど、見た感じ志村のほうが夢中っていうか、いやーすごかったよ情熱的で。月島コーチの手を両手で握りしめて一夜をともにしたいなんてさ、俺でもあんなんやったことないっていうか、若者の情熱ってのはほっといたらたいへんなことになりがちでしょ、すべてを賭けた激動の大恋愛! みたいなの憧れてそうだしねアイツちょっと。なんか知らないけど文学とか好きだし。しっかしクラブとしてはせっかくA代表を狙える人材だし、選手生命とかあと青少年を守る条例とか今後の風評とかいろいろ……、あれ、堀田トレーナー? 聞いてる?」
足元に散らばるカルテもほったらかしのまま堀田はその場に立ちつくしている。その姿勢はさきほどと変わらずに、え、そんなにショックだった? と壬生が一歩引いたところでそのとき監督室の扉が開いた。
福田と弁禅、伊達、さらにその背後に月島がいるのに気づいて壬生はたじろぐ。とくにこちらに非があるわけではないとはいえ、告げ口めいたことをしにきたところに本人がいるのはさすがに少々気まずかった。
「あれ、壬生さん。」
どうしたんだい監督室にめずらしい、と月島が近づいてくるのに、まさかおまえのせいだとも言えずに壬生はハハハと苦笑いする。
月島はきょとんとし、それから床に散らばるカルテに気づいてあれっと声をあげた。
「どうしたの、これ。堀田さん? 大丈夫?」
硬直したままの堀田を月島は心配そうに見あげる。何度か顔のまえで手をふって、それでも反応がないと見てとるや、とりあえずとばかりにかがみこんで紙を拾いはじめる。さすがクレバーで鳴らす月島コーチ切り替えが早いなとそんなときでもないのに壬生はすこし感心した。
「今日はみんな変だね。そういやさっき志村くんもおかしかったよ、熱海で太宰治のまねしたいから付き合えだってさ」
せっせと紙を拾い集めながら、月島はあっさりと爆弾発言をする。
「は!?」
「……え!?」
壬生が、そうして時間差で堀田が驚愕の声をあげるのに、はっはっはと弁禅が磊落に笑ってみせた。
「なんじゃ、聞いたか? 志村もおもしろいのう、ほれ、アイツ太宰治好きじゃろ。太宰が師匠の井伏鱒二と熱海の宿で将棋を指してたって話を再現したいらしいとかでな、月島が将棋を指すっていうんで、まあコーチも師には違いないから、太宰のひそみにならってさんざん熱海で遊んだあとに宿で師と将棋を一局とかいう太宰治ごっこをしたいんじゃと」
「布団も敷きっぱなしで将棋を打ちたいなんて変わってるよね」
太宰治って玉川上水の話しか知らないや、と月島は呑気に笑う。立ちあがり、拾い集めた紙の束をはいと堀田に手渡した。堀田はなにを思うのか、無言でそれを受け取った。
アイツ変わってるよなーと福田が言い、指導者の立場で特定の選手と出かけるのは感心しないがなと伊達がきわめてまっとうなことを言う。
「まあ、教え子からのお誘いってのは何にせよ嬉しいもんじゃろ」
ワシも誰か声かけてくれんかのう、と弁禅が顎を撫でるのに、月島はいいでしょと胸をそらしてみせる。そのさまは至極のんびりとしており、風紀の乱れなど微塵も感じさせない。
妄想じみていたとはいえ心配と現実とのあまりのギャップに壬生はがくりと肩を落とした。
「……いや、それ逆じゃないですかね」
なんだとその場の視線が集まるなか、壬生はげっそりとしながら先を続けた。
「中学校の国語の時間に習いましたよ。熱海で遊んでる太宰のとこに太宰の奥さんに頼まれて檀一雄が金持っていって、結局熱海でふたりで遊んで、また金がなくなったって太宰が菊池寛に金借りにいくから待ってろって檀一雄を借金とりんとこ置いてくんですよ。そんで帰ってこないから、檀一雄と借金とりが一緒に東京行ったら太宰は師匠の井伏鱒二と将棋打ってたって。それが『走れメロス』の元ネタだって授業で習って、文学者ってやばいなって俺子ども心に思いましたもん」
へえ、と福田がどうでもよさそうに相槌を打ち、はあと月島が小首をかしげる。
「じゃあ僕はどうしたらいいのかな」
「あとで志村呼んで将棋さしたら? ここ東京だし」
「福田さんが将棋覚えたほうが志村くん喜ぶんじゃない?」
「めんどくさいからやだ」
それきり話は済んだとばかり、監督とコーチの師弟は食事をとるべくソファに向かう。伊達と弁禅もそのあとに続いて、話題はまた別のところに移ったらしい、にこやかな笑い声があたりに響いた。首脳陣のいずれも、その顔はほがらかで何の屈託もない。
自分の取り越し苦労がずしりと肩にのしかかり、壬生ははあとため息をつく。
堀田はと見れば額に手をあててなにやら考え込んでいる。その表情はといえば沈痛極まりなく、おそらく自分のせいとはいえ、いやむしろそうだからこそ、これ関わったらダメなやつだと察して壬生はそっとその場を離れた。
……その後、ユース一年生により月島コーチと志村に関するまことしやかな噂が広まったのはまた別のお話。